第八話「恋の予感」

 ふし受付うけつけカウンターにいた二、三日を除けば、俺達はこの二ヶ月、ほとんどの放課後を共に過ごしていた。興味深いことや疑問に思ったことを二人で共有し意見交換するのが最近の慣行になっている。いつしか伏見のもってくる話は次元が高く、大変面白いという信頼が芽生めばえていた。俺が友人に求めていたこうしょうさを、彼女には感じた。

 伏見の他に、俺の議論へきに付き合えた者はいなかった。難解な話を口にすると、大概たいがいけむたがられてしまうのだ。唯一ゆいいつ聞き手になってくれた姉との議論はどうしたわけかいつも水かけ論になる。それに飽きればあの女はふざけだす。俺も馬鹿馬鹿しくなって議論は終了。けんにならないだけマシだが、あれでは議論に付き合えたとは言えまい。

 まあ、関係のない話はさて置き、あいも変わらずいつもの席に集まった俺達は息抜きに本日の議論を始めようとしていた。

「日本人の大半は、信仰している宗教を聞かれると『何も信仰していない』と答えるそうだ。所謂いわゆる無宗教ってやつだな。その手のものを信じない俺も無宗教ということになる」

 地理で得た知識を話す俺に、伏見は「特に入信した覚えはないから、わたしも無宗教だね」と告げた。

「日本人だとそんなもんだよな。だけど無宗教が多数を占める国は統計上少なくて、なにかを信仰することは海外では普通のことらしい。それにしても、何故なぜあんなものが蔓延はびこってるんだろうか? 宗教など俺には不必要に感じられて仕方がないんだが」

 これは、授業中にふっと脳裏に現れて俺を他削たそがれにおとしいれた疑問だ。板書写しはかろうじて遂行すいこうしたが、後半の内容は全く頭に残っていない。困ったものではあるが、脳内討論会がきょうを迎えると、人の話が入ってこないのは俺にはよくあることだった。

 伏見は別段平生へいぜいと変わらず穏やかだったが「野田君、それはちょっと聞き捨てならないよ」と宣戦じみたことを布告した。俺の発言がしゃくにでもさわったのだろうか。伏見にしては語気が強いという印象を受けた。

「確かにカルト教団や宗教テロ、宗教が原因で起きた紛争や戦争なんかが、宗教のしんしょうを悪くしちゃってるのはいなめないけど、宗教だってちゃんと役に立ってるとわたしは思うよ」

 伏見との見解の不一致は実際よくあることである。似た育ちの姉とでさえたがいの意見が食い違うのだから、それはある程度仕方のないことだ。

「そうか? どう役立ってる?」

「そうだなぁ、例えば、今の日本はほう国家だよね? 犯罪者は法にもとづいて裁かれるけど、逆に検挙さえされなければ罪には問われないとも言えてしまう。それを拡大解釈して、足が付かなければ許されるなんてゆがんだ倫理観をもってる人だってるかも知れない。誰もが自身をりっせるほどの自己客観視能力と正しい倫理観をそなえていればいんだけど、現実には色んな人が居るからね……」

 宗教の話が倫理の話に変わったと思ったら、伏見は「野田君、パノプティコンって知ってる?」と問いかけて、また話題を唐突とうとつに変えた。

「いや、知らないな」

「パノプティコンは十八世紀にベンサムが考案した刑務所施設のことだよ。中央にかんとうを構えて、それをぐるっと囲むようにドーナツ状の監房を置くの。建物の構造上、監視塔からは少ない人数でも全てのしゅうじんを監視できる。そうするとね、囚人は看守の目を常に意識して、いつ見られてもいように振る舞うんだって。そして次第に自分自身を監視するようになるの」

「つまり、客観視の訓練もになってるって訳か」

 この話が宗教とどうむすび付くのか予想できないことを置いておけば、普通に興味深い話ではある。

「パノプティコンは看守の仕事を減らした上で、囚人が労働習慣を身に付けて社会復帰できるようにってみ出された物なんだよ」

「しかし、よくそんなことを思いついたな。当時、相当画期的だったんじゃないのか」

「うーん、でも、それほど普及しなかったみたいなんだよねぇ。わたしも中々面白い構造だと思ってて、フーコーが監視社会をパノプティコンに例えて批判したことが有名なんだけど――」

 そこまで言って伏見は「これは今の議論に関係ないね」とフーコーを割愛かつあいした。というか、それ以外はちゃんと関連していたのか。

かく、ここで重要なのは見られてるって意識が自制につながることだと思うの。宗教はね、その他人の目の役割を果たすんだよ。見る者無ければ罪にあらずの人も、神様は常に見ているってことを信じたら陰で悪い事が出来なくなるんじゃないかな? それだけでも、宗教の存在意義はあると思う」

 以上、伏見の宗教は役に立っている論であった。

「悪事を働きそうな人ほど宗教にるべきということか? それで平和になるなら伏見の言い分も一理あるが、俺は森羅万象の答えを神話に見出みいだすという宗教の性質がそもそも気に入らないな。物語として見る分にはいが、それらが真理だと信じて疑わないのはおろかだと思うぞ」

 伏見はいささとすように俺の目を見つめた。

「野田君、宗教を信じるってことは宗教にとらわれるのとは違うよ。あらゆる宗教の聖典にはね、人生の教訓が詰まってるんだよ。確かに全てを鵜呑うのみにするのは危険かも知れない。わたしは熱心な信者でも勧誘の人でもないから、全てを信じなきゃいけないとは思ってないし、それを強要したい訳でもない。だけどね、自分の考えに自信を持てない人とか、大きな悩みを抱えている人とかは、宗教の教えを人生のしんとして部分的にり入れるのも賢い手だと思うの」

 伏見が先程とは全く異なる角度から、より直接的に宗教をようしてくる。

 成程なるほど、人によってはそんなこともあるのかも知れない、しかし俺は「それだと教えのない神道しんとうがハブられてないか?」と指摘した。

「う、確かにそうだね。神道しんとうの聖典は、古事記とかの神典だと言われてるけど、り具体的な戒律かいりつはないみたいだし」

 伏見は不本意だと言わんばかりに拳を口元にあてがって次の一手を思案する。

「どちらにせよ、そういったものを頼りたくなるのは、弱さの現れだと俺は考えるな」

「それは……野田君みたいにかったれれば一番だけど、世の中にはどう生きればいのか分からない人だって、沢山たくさんるんだよ。人はね、そんなに強くない」

 俺の考えを改められず、勢いをがれてしまった伏見に俺は以下の言葉を送った。

「まっ、宗教は信じること、科学は疑うことだ。俺の思考は科学にじゅんきょしてる節があるから、どうしてもあいれないんだろうな」

「そうかなぁ、科学だって時に仮定として信じていることがあるよ? 熱力学第二法則とか、確率解釈とか、証明されてないことを前提に論を展開してることだってよくあるし」

 思わぬ反撃を受ける。

「う、そこを突かれると正直痛いが、いくら経験則とはいえ、やはり根拠がない訳ではない。そこが宗教との決定的な違いだ」

 とにかく宗教とは無縁の道を歩む。俺は断固として揺るがないという姿勢を見せた。

 ここで、伏見がひかえめに笑う。しかし笑いを誘うようなことは言っていないし、話の流れ上どうも不自然なので、俺は「どうかしたか?」とただした。

 伏見ははにかみながらも「いやぁ、何て言ったらいんだろうね。こんなにも意見が違ってるのに、何故なぜか楽しいなぁって、議論って面白いなぁって、そう思ったの」と言ってまた笑顔を見せた。

 そうか。伏見も楽しいのか。俺も、君と語り合うのはとっても楽しいんだ。二人ふたりが同じ気持ちなら、それは実に喜ばしいことだろう。

 俺達の議論は、持論の正しさを競う討論ではない。相手の意見を打ち負かすことに情熱を注ぐものでもない。考え方の違いを楽しみ、新たな発見を求める討論なのだ。


 帰宅、夕飯、風呂の後、残った宿題を片付けていると、携帯に着信通知が届いた。姉からだ。家族四人のグループチャット以外の会話は久し振りである。俺は「なんですか?」と電話に出た。

 姉は「今から押しかけていい?」と発言した直後「はぁ? アンタ急に何言ってんの!」とごうを飛ばした。

「違う違う、それは俺の台詞せりふだよ」

 開幕からトップギアに入れてぱしるのが姉の持ち味である。二十歳はたちをこえてもなお、その奇行や暴走はとどまるところを知らない。

「あっ、今日きょうもお姉ちゃん面白いなーって思ったでしょ」

「正直、面倒臭さの方がまさってるんだが」

「えっ、それはマズい。こうなったらアンタんでお笑い強化合宿をじっするしかないな」

 このアパートがなぞイベントの会場にされようとしている。

「本当に来るのか。今から車で? 電車?」

「いやホッピング・ポゴスティック」

「小学生かアンタは。何時間両足そろえてぶつもりなんだよ」

 ポゴスティックとはダブルダガーのような形のバネ遊具で、乗ってその場でホッピングする物であって断じて交通手段ではない。恐らく徒歩よりも遅いだろう。

「あっははは。アンタそうツッコむんだ。いいね。その調子でお姉ちゃんのひまつぶしに付き合いなさいな」

 訳の分からない姉が勝手なことを言っている。

「悪いがひまつぶしなら、お笑いの特番でも見ててくれないか」

「いやー見たかったんだけどねー、カギ忘れちゃって家入れないから」

なんで。父さん達起きてるだろ」

「まだ帰ってないのよ」

「え、それで外で待ってるのか?」

「あのね、これだけは言っとく。めちゃくちゃ寒い。軽く雨降ってる」

「そりゃ寒いだろ。三月の九時だぞ。何やってんだよ。風邪かぜ引くぞ」

 日中は段々と暖かくなってきたとはいえ、朝晩はまだまだ冷え込むようだ。の愛されフリーターが玄関先げんかんさきで身と黒髪を震わせていると思うと、何だか切ない。

「もう三月かぁ、時間がたつのは時の流れぐらい速いね。あ、そうそう青春と言えばさ」

 姉は会話の筋道などお構いなしに続ける。

「最近どうなのよ? 青春しちゃってる?」

「気持ち悪い質問だな」

「アンタにはアタシみたいに間違った青春送ってほしくないのよ。もう心配よぉ。お姉ちゃんは心配」

 信じられないことに、こんなきょうじんにも何度か交際経験があったらしい。しかし、相手がつまらなかったことを理由にどれも姉の方から解消したと持ちネタのように話していたのを記憶している。

「だからさ、アンタ彼女とかいないの? ねぇ?」

「……もう切っていか?」

「ちょちょちょ、冷たくない? アタシこごえ死んじゃう。人助けだと思って、ほっこりばなし聞かせてよ〜。好きな子とかいないの?」

 その言葉を聞いた時、伏見の笑顔を思い出して胸の辺りがふわりとした。それはどこかなつかしい感覚だった。そして俺は気付く。友情だとばかり思っていたものが、実は恋だったのではないかと。しかし恋とはもっと激しいものだった気もする。ならばこれを恋と呼ぶべきか俺には分からない。俺は「気になる人なら、いないこともない」と答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る