第七話「猫」
三学期末の一大行事、学年末試験が終わりを告げた。今年度も残すところ後一ヶ月弱。要するにテストが返却されたら二週間近くで春休みに入って、明ければ
今回の試験もそうだが、俺はまだ受験を念頭に置いて勉強ができていない。物理と数学は受験領域を
そうなる前に受験校を決めておかねばならない。今のところ、物理学専攻志望であること以外は
しかしそれにしても、試験勉強を友達とやったのなんて中学三年生の時以来だろうか。何を隠そう、今回の試験対策はその
試験期間で客が微増していた図書室は、
「伏見、
「
「お、遂に物理と戦う日が来たか」
三学期には中間試験がない。だからこれが、俺が講師になって初めての物理基礎のテストということになる。
「本当は少し不安だったんだけど、野田君にも
世話になった
「でも、また駄目だったらどうしようってグルグルしてたんだけど、受けてみたらね、『あ、これ野田君とやったところだ』って問題が出題されたの」
通信教材の漫画みたようなことを言う伏見に、俺は「おぉ、それは良かった」と返答する。数学の試験を筆頭に、見覚えのない難問を平気で出すような高校では、それなりに
「
「いや、お互い様だ。俺だって訳の分からん古典を伏見のお陰でどうにか赤点回避できたんだ。多分」
古典のお礼はテストが返却されてからでも遅くないと思っていたから、感謝の交換は気が早いように感じたが、今それを口にするのは
「ふふ、それにしても、確認した問題が出るなんて幸運、起こるものなんだね。試験当日、問題を観測するまで何が出るか分からない。
上機嫌な伏見による貴重な
伏見は「野田君、どうしたの?」と
「伏見、その使い方は間違ってるんだ」
伏見は不安そうに「え?」と言葉を
「伏見は今シュレーディンガーのテストと言ったが、その元ネタが物理学なのは知っているよな?」
「シュレーディンガーの猫だよね」
「
伏見は
「まあ一般的にはそんな感じだろうか。それから
「そうだね」
「でも、この解釈は間違ってるんだよ」
俺は一息置いて続けた。
「ミクロの世界では俺達が見ているマクロの世界では考えられないような現象が多々起こる。量子力学
伏見はじっと注意深く耳を
「放射性原子の崩壊時に
「じゃあシュレーディンガーは生きていて死んでる状態を
伏見はあっさりと誤用を認めた。
「シュレーディンガーはそんなことが言いたかった訳じゃないんだ。だけど
ちなみに、今の物理学では確率解釈を含むコペンハーゲン解釈が主流の考え方になっている。それどころかシュレーディンガーの猫は、かえってミクロの世界の不思議さを説明する例のように
伏見は
「それでちょっと思い出したんだけど、全然って単語は『全然
俺は中学の記憶から「呼応の副詞だったか」という言葉を引っ張り出す。
「うん、だから『全然
「原義とかを気にしそうな伏見には意外な発言だな」
「解決策を見つけたの」
「と言うと?」
「問題ないって言葉が省略されてるって考えれば
俺は「
「そう考えれば、呼応部分を省略しただけだから、文法的におかしくないんじゃないかな」
「文章の表面だけで議論せず、背景をも考慮して解釈を変えるということか」
俺は少なからず感心した。
「でも、そんな大層なものでもなくてね。
「伏見的にはそこからが言葉の乱れだと考えるんだな」
「うん、そうなる、かな」
伏見はそう言って、桃色
「そういえば俺も疑問に思うことがあって、例えば『気の置けない』や『役不足』、これらのような間違えられやすい単語は正しい意味で使うべきなのか一般的に誤解されている意味で使うべきなのか、言葉は相対か絶対かって問題なんだが」
「代表的なソフィストのプロタゴラスが『人間は万物の尺度である』って有名な言葉を残してて、要は相対主義者なんだけど、今回の話に落とし込むと、そうだなぁ、絶対的な言葉の意味は存在せず個人々々の
伏見が哲学知識を
「うーん、でも
「俺も正しく使いたい派なんだが、日本人のほとんどが間違えて使ってるなら意思疎通的には俺達の方が間違ってる感じにならないか? 辞書によっては本来誤用である意味を載せてる物もあるし」
「古典なんかでは今と全く異なる意味で使われてる単語も多いからね。確かにいつか
「しかしまあ、誤解を生みそうな言葉は使わない方が親切なんだろうな」
「そうだねぇ」
誤解は思わぬ
今日の議論はこれで終わりかと思った時、考える人モードの伏見が気が付いた。
「あ、でも、辞書の内容すら徐々に変わっていることを考えると、長い目で見れば絶対の立場と
「おいおい、話がややこしくなってきたぞ。絶対は絶対じゃなかったのか……。俺は何を言ってるんだ?」
俺のお
「ふふ、言葉に絶対はないのかも知れないね」
この後伏見はウィトゲンシュタインの言語批判にまで話を展開させる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます