第七話「猫」

 三学期末の一大行事、学年末試験が終わりを告げた。今年度も残すところ後一ヶ月弱。要するにテストが返却されたら二週間近くで春休みに入って、明ければついに三年生だ。模試だ。受験だ。

 随分ずいぶん先の事のように感じていたが、少しずつ着実に間合いを詰めてきている。この調子なら、気がついたら受験が顔に貼り付くほどに接近していることだろう。今のところ、そんな実感はいていない。

 今回の試験もそうだが、俺はまだ受験を念頭に置いて勉強ができていない。物理と数学は受験領域をはるかに逸脱いつだつしてしまっている。あの先生も言っていたが、受験を考慮すればいつまでも範囲外を学んでいられないのは確かだ。受験に不要なものを排除して、腰をえねばならない時期が必ず来る。

 そうなる前に受験校を決めておかねばならない。今のところ、物理学専攻志望であること以外はきりもやがかかってしまっている。研究したいことから大学をしぼることもできるのだが、実のところ実験系より理論系だろうというぐらいしか考えていない。まあ、やりたい研究は大学で探すとして、どう転がるか分からない以上、設備や環境が整っている方が心強いと思われる。となると無難に旧帝国大学か。旧帝国大学はへん差値さちの高い順に東大とうだいきょうだい阪大はんだいと続いてゆくわけだが、東大を受験するとごうする同級生はやはり化け物のような頭の良さで、文系科目が足を引っ張ってる俺では彼らに打ち勝つビジョンが全く見えない。これまで受けた全国模試の結果から考えると、俺の位置は頑張れば京大に届くかどうかの瀬戸際である。

 しかしそれにしても、試験勉強を友達とやったのなんて中学三年生の時以来だろうか。何を隠そう、今回の試験対策はその大概たいがいふしと図書室で仕上げたのだ。と言っても俺達はぶんが異なるため、主な協力は国語や副教科などの共通科目の情報共有だった。加えて伏見が理系科目の質問を俺にしたり、二人ふたりで英語に首をかしげたりした他は個人学習だったので、以前とさほど変わらない教科もある。

 試験期間で客が微増していた図書室は、今日きょう試験が終了したことで普段の閑散かんさんとした様子に戻っていた。自然とまたすみの長机につどった俺達は、学生らしく乗り切ったテストを話題にしている。

「伏見、今日きょうのテストはどうだったか?」

今日きょうは日本史と、物理だったよ」

「お、遂に物理と戦う日が来たか」

 三学期には中間試験がない。だからこれが、俺が講師になって初めての物理基礎のテストということになる。

「本当は少し不安だったんだけど、野田君にも沢山たくさん協力してもらったから、い点とって恩返ししたいなぁって」

 世話になった監督かんとくへの想いを語るアスリートのようなことを言う伏見。俺は何だかこそばゆくなってきた。

「でも、また駄目だったらどうしようってグルグルしてたんだけど、受けてみたらね、『あ、これ野田君とやったところだ』って問題が出題されたの」

 通信教材の漫画みたようなことを言う伏見に、俺は「おぉ、それは良かった」と返答する。数学の試験を筆頭に、見覚えのない難問を平気で出すような高校では、それなりにめずらしいことである。

検算けんざんまで出来たし、もしかするとこれまでで一番いかも知れない。本当に野田君のお陰だよ」

「いや、お互い様だ。俺だって訳の分からん古典を伏見のお陰でどうにか赤点回避できたんだ。多分」

 古典のお礼はテストが返却されてからでも遅くないと思っていたから、感謝の交換は気が早いように感じたが、今それを口にするのは野暮やぼか。俺は言葉を飲み込んだ。

「ふふ、それにしても、確認した問題が出るなんて幸運、起こるものなんだね。試験当日、問題を観測するまで何が出るか分からない。まさに、シュレーディンガーのテスト、だね」

 上機嫌な伏見による貴重なかいぎゃく。本当なら微笑ほほえましい光景のはずだが、俺は頭をかかえて「違うんだ」とつぶやく。

 伏見は「野田君、どうしたの?」とうつむく俺を心配した。

「伏見、その使い方は間違ってるんだ」

 伏見は不安そうに「え?」と言葉をらした。

「伏見は今シュレーディンガーのテストと言ったが、その元ネタが物理学なのは知っているよな?」

「シュレーディンガーの猫だよね」

概要がいようを説明してみてくれ」

 伏見はまどいながら自信なさげに「えーとね、毒ガスが出るかも知れない箱に猫を閉じ込めると、その箱を開けるまで猫がどうなっているか分からないみたいな思考実験だったような」と言った。

「まあ一般的にはそんな感じだろうか。それからせいされた『シュレーディンガーの何々なになに』は、確認するまで対象物は無限の可能性をめているとか、何が起こるか分からないだとか、そういった意味合いで使われている」

「そうだね」

「でも、この解釈は間違ってるんだよ」

 俺は一息置いて続けた。

「ミクロの世界では俺達が見ているマクロの世界では考えられないような現象が多々起こる。量子力学黎明れいめい期の物理学者は、その難解さに悩まされていたんだ。その一つである確率解釈、これは『複数の状態が重なって存在し、観測した時に一つの状態に定まる』という考え方だ。例えば、放射性原子が一時間以内に五十パーセントの確率で崩壊ほうかいする時、この原子は『崩壊している状態』と『していない状態』が一対一で重なり合った状態だと考える。シュレーディンガーの猫はこの解釈を批判したものだったんだよ」

 伏見はじっと注意深く耳をかたむけている。

「放射性原子の崩壊時に青酸せいさんガスを放出する装置を用いて、ミクロの解釈をマクロへ拡張しようとしたんだ。つまり、確率解釈のもとでは観測するまで生死が共存することになるが、現実には猫の生死は常に定まっていて、生きていてかつ死んでいる状態にはなり得ない。よって、その解釈は間違いだとシュレーディンガーは主張したんだ」

「じゃあシュレーディンガーは生きていて死んでる状態を肯定こうていしていなかったんだね。確かに、確認するまで分からないって解釈は、間違っていることになるね」

 伏見はあっさりと誤用を認めた。

「シュレーディンガーはそんなことが言いたかった訳じゃないんだ。だけど何故なぜか、その誤用が蔓延まんえんしてるんだよ」

 ちなみに、今の物理学では確率解釈を含むコペンハーゲン解釈が主流の考え方になっている。それどころかシュレーディンガーの猫は、かえってミクロの世界の不思議さを説明する例のようにあつかわれてしまっているのだ。

 伏見はあおぎ見ながら「言葉の誤用かぁ」とつぶやいた後、新たな関連議題を持ち込んだ。

「それでちょっと思い出したんだけど、全然って単語は『全然何々なんなんない』って形で使うよね」

 俺は中学の記憶から「呼応の副詞だったか」という言葉を引っ張り出す。

「うん、だから『全然美味おいしい』とか『全然大丈夫』って使い方は呼応してないから誤用だとされてるんだけど、わたしはそうは思わないの」

「原義とかを気にしそうな伏見には意外な発言だな」

 偏見へんけんかも知れないが、伏見に限らず哲学的議論をこのむ者は、原義や語源に戻って言葉をり下げたがるように感じる。

「解決策を見つけたの」

「と言うと?」

「問題ないって言葉が省略されてるって考えればいんだよ。つまり、『全然問題なく美味おいしい』って感じで」

 俺は「成程なるほど」と相槌あいづちを打った。確かにそれならニュアンスもさほど変わっていないように思える。

「そう考えれば、呼応部分を省略しただけだから、文法的におかしくないんじゃないかな」

「文章の表面だけで議論せず、背景をも考慮して解釈を変えるということか」

 俺は少なからず感心した。

「でも、そんな大層なものでもなくてね。たまに問題ないをはさんでも意味が通らないことがあるから、文脈で何が省略されてるか考えないといけないの。それに省略部分が安易に想像できないなら、それは抑々そもそも省略すべきじゃないし」

「伏見的にはそこからが言葉の乱れだと考えるんだな」

「うん、そうなる、かな」

 伏見はそう言って、桃色眼鏡めがねのズレを右手で直した。どうやら話はここで終わりのようなので、俺からも新たな議題を提供する。

「そういえば俺も疑問に思うことがあって、例えば『気の置けない』や『役不足』、これらのような間違えられやすい単語は正しい意味で使うべきなのか一般的に誤解されている意味で使うべきなのか、言葉は相対か絶対かって問題なんだが」

 相絶対そうぜったいは小難しい議論をする時によく聞く用語だ。今回の議論では、聞き手の語彙ごいりょくによって言葉の意味を変えるのが相対の立場で、相手に関わらず言葉の意味を変えないのが絶対の立場である。

「代表的なソフィストのプロタゴラスが『人間は万物の尺度である』って有名な言葉を残してて、要は相対主義者なんだけど、今回の話に落とし込むと、そうだなぁ、絶対的な言葉の意味は存在せず個人々々のとらえ方によって定まるって感じかな?」

 伏見が哲学知識をぜ、論を展開する。

「うーん、でもわたしの立場は絶対かな。り正しく使いたいし、何だろ、『本来の意味での』とか『辞書的な意味での』とか、使う前に修飾して明確にするように心掛けてるよ」

「俺も正しく使いたい派なんだが、日本人のほとんどが間違えて使ってるなら意思疎通的には俺達の方が間違ってる感じにならないか? 辞書によっては本来誤用である意味を載せてる物もあるし」

「古典なんかでは今と全く異なる意味で使われてる単語も多いからね。確かにいつかわたし達の方が間違っているとされる日が来るのかも。言葉本来の意味が薄れていっちゃうのは何だかさびしいけど、仕方のないことなのかなぁ」

「しかしまあ、誤解を生みそうな言葉は使わない方が親切なんだろうな」

「そうだねぇ」

 誤解は思わぬ軋轢あつれきを生むこともある。それをけるために一番大切なのは、受け手がどう感じるかを考えることなのかも知れない。

 今日の議論はこれで終わりかと思った時、考える人モードの伏見が気が付いた。

「あ、でも、辞書の内容すら徐々に変わっていることを考えると、長い目で見れば絶対の立場と見做みなしていたものも、実はまた別の相対ってことになるんじゃ……」

「おいおい、話がややこしくなってきたぞ。絶対は絶対じゃなかったのか……。俺は何を言ってるんだ?」

 俺のおとぼけに、伏見は笑ってくれた。

「ふふ、言葉に絶対はないのかも知れないね」

 この後伏見はウィトゲンシュタインの言語批判にまで話を展開させる。今日きょうの議論で、言葉とは案外曖昧あいまいなもので、自分の感じたことをどれだけ正確に言語化できているのか、俺は少し不安に思った。言葉にしなければ思いは伝わらないと言うが、言葉に乗せてもその思いは正しく伝わっているのだろうか。

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