第六話「悪魔」

 気付いてしまえば二月の中旬ちゅうじゅん。二週間後にひかえる試験が校内の空気を緊迫させようともくむ中、俺はのんに図書室へと足を運んでいた。試験の影響で客足が伸び始めた図書室には、窓辺の席に座る見慣れた少女の姿があった。めずらしく本もペンも持たずに、握った拳を口元にあてがい、ただ困り顔で黙念もくねんとしている。いや、眉尻まゆじりが垂れているのは彼女のつねなのだが、その八の字が今日はいっそう気落ちして見えたのだ。

ふし

 俺は少女の名を呼んで隣同士になった。窓をながめて他削たそがれていた伏見は、声のぬしを確認するように顔を向けて、やわらかい声で「あ、野田君、お疲れ様」と俺の本日の学業をいたわった。

「お疲れ。いや、というか、本当に疲れてるみたいだな伏見」

「え? うん、ほんの少しだけど……」

 伏見はそう答えて目線を落とした。右ほほの泣きぼくろまでがものげである。

 俺は丁寧に「なにかあったのか?」と問いかけた。これは親身になりたいと思っての発言だった。細分すれば、心配が二分の一、残りはおのこころざしつらぬこうという心情である。無論、個人的な善人道ぜんにんどうのために強引に聞き出すつもりはない。あくまで伏見が望むのなら是非ぜひ相談に乗りたいというだけである。

 憂鬱ゆううつそうな雰囲気の伏見は、一つ息を吸うと再び正面を向いて冷静に語り始めた。

「元々、哲学と科学に区別なんてなかったんだよ」

 話の入口が予想外である。ここからどこへ向かおうというのか。俺は警戒しつつも、ました顔で伏見の後を追った。

「確か科学は初め、四元よんぜんとか宗教と大差ないようなものだったからな」

「うん、自然哲学だね。だけど、やがて科学は哲学から自立して別の学問になったの。……科学は哲学を裏切ったんだよ」

 俺は「何て言い草だ」とあきれ気味にツッコんだ。伏見の言葉づかいがみょうに物騒である。

 伏見は大きなめ息をつくと少し猫背になって「今日きょう、クラスの人にね、科学は技術と結びついて人の役に立ってるからいけど、哲学はらないって言われちゃったの」とぼやく。

「そりゃひどい暴論だな」

 文系とはいえへん差値さち七十を超える進学校の生徒にもそんな配慮のないやから在籍ざいせきしているのか。

「でも、哲学に興味がないなら、仕方ないのかな」

「俺も面談で、理工学の方が物理より仕事につながるぞって言われたことがあったな。別に俺は職のために勉強してるわけじゃないのにな」

わたしもだよ」

 伏見はも一つおまけに嘆息たんそくして、だらりとうなれた。俺達の周囲だけ黒いきりが立ち込めている。ただ俺は特性:はがねの精神の効果でこのきりの影響をほとんど受けていない。この特性が無効化されるのは、せいぜい人前や授業で二人ふたり一組をいられた時ぐらいだろうか。それも高校生になってから随分ずいぶんと平気になっていた。

 しかし、入口のとっさに比べ、同級生の言葉に傷ついたというのはこれまた予想外に平凡な出口であった。これを目指すのに、何故なぜあの入口を選んだのか。伏見は時折、不思議な言語感覚をろうすることがある。取り分け初めの頃は、何だか話がみ合わないと感じたことさえあった。

「駄目だなぁ。何だか今日きょうは、勉強する気になれないみたい……。野田君、なにかお話しない? 議題はなんでも良いんだけど」

 伏見は寂しそうに微笑ほほえんで子供っぽいことを言った。

「俺が議題を出すのか? うーん、そうだな、それじゃあ今日きょうは、物理の話でも哲学かおるものにしようか」

 おさない妹の世話でもするような気分で、今日きょうの議論は始まった。次第に俺達を包み込むきりは晴れて、伏見も徐々に平生へいぜいの姿勢を取り戻してゆく。

「多くの人が物理で最初に学ぶのはニュートン力学だと思う。これは古典力学の一分野で目に見える物体の物理学だ。例えば、重力場での小球しょうきゅう投射とうしゃ。この手の問題では、最後に質点しつてんえがく放物線を計算することがある」

「水平とえんちょくを分けて考える問題だね」

「そうだな。まあ、どう解くかは今回関係ないんだが、とにかく軌道が求まるということは、条件さえ与えられれば運動方程式から未来の運動は一つにさだまると言える。つまり、未来は過去の出来事のみにそんして決まっている――」

「決定論、かな?」

 俺が言うはずだった単語が伏見の口からひょっこりと現れた。伏見は気持ちしたりげである。

「お、知ってたのか? じゃあ、ラプラスの悪魔も聞き覚えがあるんじゃないか?」

「あっ知ってる。知ってるよ。ラプラスは科学者だよね。えーと、ちょっと待ってね。知ってるはずなんだけど……うーん、思い出せないなぁ。どんな話だったっけ」

 右手をこめかみに当て夢中で記憶を探る伏見を見て、俺は胸をろした。どうやら俺は彼女の気分転換に役立てているようだ。

「ある瞬間における全物質の状態と力を記憶し、それらを解析できる者が存在するなら、その者は過去、未来に起きる全て知ることになる」

 うなずきながら耳をかたむけていた伏見は「いんりつと全知の神みたいな話だったよね」とタイトルのように約言やくげんした。

「決定論は古典力学のもとでは正しく聞こえる。しかし、決定論を認めると、俺達が生まれたのも、この高校に受かったのも、今ここで話をしているのも、全てビッグバンの時に決まっていたということになる訳だ。それはある意味神秘的ではあるが、何を考えるのか、何を選択するのか、全て宇宙誕生の瞬間から決まっているっていうのは、おかしいと思わないか?」

「つまり、野田君は自由意志肯定こうてい派なんだね」

 伏見が耳新しい言葉を用いて俺の立場を確認する。

「自由意志か、初めて聞いたな。どういう意味なんだ?」

「ええっと、人は運命的な影響を受けず、おのれの判断を自由に出来るという仮説……と言えばいのかな?」

成程なるほど。それならまあ肯定派と言ってつかえないか」

「決定論や自由意志は昔から存在する議論でね、いまだに結論が出てないの。哲学的アプローチでは恐らく頭打ちなんだと思う。最近、一番貢献こうけんしてるのは脳科学だって話だよ。脳の動きが決定論的に動いてるかを検証してるみたい」

 伏見がたくわえた知識をこころよく共有してくれる。お互いが頭の引き出しを開け合い続けることで、議論は知らず知らずの内に脱線してゆくのだ。

「それは興味深い話だが、逆に自由意志否定派はどういった考えなんだ?」

「一部の立場では、わたし達の意思すら全て決定論的だと主張されているんだけど、そうなると問題なのは罪の所在なの。意思が自由にならないなら、行動や結果に対して責任を問うことが出来ないんじゃないかって。でも、そうなると今の法制度はどうなるのかな?」

「それだと決定論を理由に犯罪が増える気が――。でもその時には犯罪というあつかいですらないのか。うーん。伏見は、どう考えるんだ? 自由意志はあると思うのか?」

 伏見は窓越しに遠くを見つめて「わたしは、どうだろう……。自由意思なんてものは幻想で、今日きょうまで道程みちのりが全て決められた運命だったなら、色々な事を仕方なかったんだと、あきらめられるのかも知れない。そう考えたことならあるよ」と口をにごした。押さえ込んでいたこくが吹き出してくる。これはまずい。俺は話題の転換を急いだ。

「自由意志は一旦置いとこうか。ラプラスの悪魔の続きを話そう。少し前に話した波がかぎとなるんだ」

 伏見は聞く体制をゆるりと立て直した。どうやら話題転換に異存はないようだ。

「波のエネルギーは振幅しんぷくだけじゃなく周波数の大きさにもそんする。実のところ周波数が大きいとエネルギーも大きくなるんだ。ここで確認、赤外線と紫外線、エネルギーが大きいのはどちらだろうか」

「えっと、確か赤外線の方が波長が大きいから、周波数は小さくなって、……だから、紫外線の方がエネルギーが大きいんだよね?」

「そう、紫外線はエネルギーが大きいから浴び過ぎると体に良くないんだ。とにかく、周波数が大きいとエネルギーも大きい、これを覚えておいてほしい」

 伏見がうなずく。

「俺達がなにかを観測する時、必ず光を物質に当てて反射した光をとらえている。微小な粒子の位置をより正確に知るには、当てる光の波長は小さくしなくてはいけない。だが、周波数が大きくなるため、エネルギーも大きくなり粒子の運動量を大きく変えてしまう。逆に粒子の正確な運動量を調べたい時、波長を大きくしなくてはならないが、それでは粒子の正確な位置が分からない。つまり、微小な物質の正確な位置と運動量は同時に観測できない。これは不確定性原理と呼ばれている。同時に全ての力学的情報は得られないから、ラプラスの悪魔は存在しないことになるんだ」

 拳でくちびるを隠した伏見が疑問をていす。

なにか、運動量を持たない観測の道具があれば、不確定性原理は破れるのかな?」

 よくそんなことに気がつくものだ。じゅんや論理のやく盲点もうてんに対して伏見がまれに見せる慧眼けいがんには目を見張るものがある。

い指摘だが、実際にはそうはならないらしい。いや、なんと言えばいか、先ほどのは有名な思考実験なんだが、不確定性原理の説明としては不適切だという説もあってだな。量子力学をちゃんと学んでないから俺は詳しく知らないんだが、どうやっても正確な位置と運動量を同時に知ることはできないんだよ」

「そっかぁ」

 伏見は残念がっているような、そうでもないような返事をした。どちらにせよ、まだうれいの色がにじみ出て空気に溶けだしている。元より溌剌はつらつとした人ではないが、どうにか普段の伏見に戻ってほしいと願う俺は話をり返した。

「あー、話を戻すようだが、そもそも哲学がらないかどうかを決めるのは、哲学そのものなんじゃないのか?」

 伏見は静かに次の言葉を待っている。

「哲学のない世界が倫理的にどうなのかを検証するのは哲学だ。少なくともその問題を考える上で哲学は必要だと思うが」

 伏見が「そうだよねぇ」と弱々しく同意した。

わたしもね、哲学の必要性を考えるのに、哲学がると思うの。だけど哲学を通すと、哲学が必要ないという結論には、恐らくならない。だって考えるのは結局人間だから。どうしてもエゴをはらんでしまう。だからきっと、哲学の立場からではそれ自身を否定できないんじゃないかって思うの」

 贅沢ぜいたくに時間をかけてしゃべった伏見はひどく寂しそうにうつむいて「これを公平に議論するにはどうしたらいんだろう……。それをね、今日きょうはずっと考えてたの」とものげな雰囲気に戻ってしまった。

 伏見、君はそんなことを考えていたのか。俺は時々、伏見にかなわないと感じる。それは彼女の思考が俺の数歩先を行っていることがあるからだ。だが、劣等感れっとうかんや悔しさがないのはどうしてだろう。はげましに失敗した俺は、伏見のえた頭脳をたのもしいとさえ思っていたのだ。

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