第五話「居場所」

 友人は多い方が良いとか、みんなが孤独を恐れているとか、独りぼっちは人の輪に入りたがっているはずだとか。これらの命題はであるとうったえる。学校で一人ひとりきりでも平気だった俺が反例はんれいになってしまうからだ。

 今まで、学校や学級にぞく意識をもったことがない。例えば、運動会の学級対抗種目を本気になって応援したことは一度もなかった。その勝敗と自分は無関係だと感じられた。仲のい個人に声援を送ることはできても、集団に意識を向ける感覚がまるで分からない。

 無論、学友達がくゆうたちを無差別に嫌っているわけではない。クラスメイトだというだけでは興味がもてないだけである。関心がない以上、無理に関係をもつことはしない。人間関係というものはしばしば悩みをもたらすから、不要な関係など結ばない方がこのましい。

 こんなことを言うと薄情だと非難されるかも知れない。しかし、俺の重んじる論理や効率というものは時に非情なのだ。これが正しいか判断するのは難しいが、俺の道は論理の先にしか無いと思っている。

「野田~」

 終礼を待つ間、脳内議論にいそしんでいた俺に、間延びした声をかけたのは大量のさっを抱える級友である。級友は「ひまなら半分手伝ってくれよ。ほら、野田、物理とか好きだろ」と言って、隣席に冊子の塔をきずいた。

「それは関係なくないか?」

 どうやら物理の提出物を返却するらしい。余程重かったのか級友は顔をしかめて軽く腕や肩を回している。確かに四十近くある冊子を一人ひとりで配るのが難儀なのは想像にかたくない。

 俺は「まあ構わないが。そこに置いといてくれ」としょうだくした。

「さんきゅ~、マジで助かったー。じゃあ、これ頼むな!」

 級友は塔の三分の一ばかりを置いて去っていった。多少無遠慮ではあるが、きちんと礼の言える子である。そして彼は人がまだまばらな教室を往来し、次々と冊子を届け始めた。つまり、席替えで無作為になった席順が頭にあるということである。クラスメイトの顔と名前すら十分に一致させていない人にはそんな芸当できるはずもなく、俺は座席表を見ながらの配り物である。

 教室内を何度か往復したら、自分の提出物だけが手元に残った。しかし何だかみょうだ。緑の表紙に黄色いせんが貼られている。のりけのないたんは手前に折れてしまっていて、開くとくずれた赤字で「放課後、物理準備室まで来なさい」とあった。


 学級から解放されるやいなや、俺は課題を片手に指定された場所へと向かった。屋根の無い三階渡りろうを横断し、ベランダのような外廊下を縦断すると、活字で「物理準備室」とだけ書かれた古い紙の張り付いた窓が見えてくる。外気にれる窓ガラスはうすく結露していて、外からでは中の様子がはっきりと分からない。め切られた扉の前に立つ俺を、雲の切れ目から太陽が暖かく見守っていた。

 今から、ノックをして、形式的な挨拶あいさつをして、中に入る。半意識のもとで脳内シミュレーションをおこなっていると、なんだかひどわずらわしいことのように感じられてきた。どうにか意を決し、三回ノックののち、扉を開く。れ出てきた生暖かい空気を浴びながら「失礼します」の挨拶と共に一歩を踏み出した。

 物理準備室はせまくはないが小汚い部屋だった。入口付近の黒いストーブがやかんを頭に営々えいえいと働いている。赤本あかほんや専門書であふれるたなは壁際に追いやられ、中央を占拠する机たちはどれも冊子やらプリントやらで散らかり放題である。他の教師はみな不在で、しわだらけの白衣を着た先生はコーヒーを飲みながらパソコンをにらみつけていた。

「来ましたよ、先生」

 先生という言葉は大変便利で、相手の名前が思い出せなくても特に違和感なく会話することができる。しかし残念なことに、学友にはこれに類する画期的しょうが存在しない。これもクラスメイトと話しづらい原因の一つだと俺は思っている。

 こちらを一瞥いちべつした先生は、小声で「来たか」と言って、そっとマグカップを机に置いた。

「野田、なぜ呼び出されたのか、分かるか」

「え、いや、分かりません」

 出会いがしらに問いかけた先生は、ふぅっと息をいて「そうか。野田にも分からないことがあるか」とのたまう。単なる誤解なのか、へいなのか、おんが見え隠れする台詞せりふだと思った。

 先生はこつでやや大きなてのひらし出すと「貸せ」と要求してきた。俺は丸めた冊子をリレーのバトンのように手渡す。足を組んで椅子いすに腰かける先生は受け取った冊子を黙ってめくっていたが、やがて目的のページにたどり着いた。

「これだ」

 先生が開いたのは、微小振動する振り子の角振動数の導出を説明させる問題であった。

「それがどうかしたんですか」

「普通にこれを解くなら、微小振動より質点の動きは水平のみの直線的なものだと近似して運動方程式を立て、シータの関係式を用いて答えを導く。基本問題を説明しろというだけの問題だ」

「そうですね」

 ここで、もう少し説明しよう。静止位置からの角度をθシータとすれば、ひもに垂直な重力成分の絶対値はmgsinθとなるため、振動中心で0となる水平なx座標を振動方向にとると、運動方程式はmx・・ = -mgsinθとなる。ただし、xツードットはxの時間の二階微分を表す。ひもの長さがエルならsinθ = x/lが成り立ち、答えはx・・ = -gx/lだと導ける。これが模範解答である。

「対して、これがお前の解答だ」

 先生は指差しながら「このLとは一体なんだ」と言った。

「ラグランジアンです」

何故なぜ、そんなものが出てきた」

 先生の声は低い。

「解析力学は最近自主的に勉強していたんです。ニュートン力学にも適用できるとあったので試しにラグランジュ方程式を使ってみました」

「そうか、だがな野田、これは高校物理範囲外だ。これがテストの解答だったら、俺は丸をやらなかったぞ」

 心臓がねた。注意内容に対して、このすごみは一体何だ。不穏で部屋が満たされ始めている。先生が故意に悪意を混ぜて言葉を並べているのではないかと疑った。

「し、しかし、間違いを書いている訳ではありません。物理的に正しいなら正解にすべきです」

 次第に窓からの陽光が弱まった。きっと太陽に雲がかかったのだ。物理準備室が薄暗くなってゆく。

「俺は受験を見据みすえて話しているんだ。本番の採点基準は大学によって異なる。高校内容で解ける問題に大学物理でいどむのを良しとしない教授もいないとは言い切れまい。みんなが同じ条件でやるから平等なんだよ。お前のやり方はズルだと判断されかねない」

「しかし……っ!」

 後の言葉が出てこない。アカハラの幼生のような現況に飲まれている。ひさしく向けられていなかった悪意のベクトルを受け、金縛りにでもあったような心地がした。ただ心臓だけが、普段よりも速く波打っていた。

「野田、お前もそろそろ三年になるんだ。受験生になるんだよ。合格のためにすべきことは何だ。解析力学か? 大学物理か。もっと他にやるべきことはあるだろ。物理だけできても、大学には受からんぞ」

 確信した。この男は俺を傷つけるためにここに呼び出したのだ。そもそも課題の内容ひとつで、ここまで責められるいわれはない。やはり、この間の授業で俺が反論したことが気に入らなかったのか。

 薄暗い部屋に窓をいたぶる風の音が響く。

「お前、少し調子に乗ってるじゃないか? 将来のこと、もっと真剣に考えたらどうだ」

 先生の声は、低く、重かった。

 よく考えれば当然だ。教師だってただの人間。こんな若造に間違いを指摘されて腹を立てないとは限らないじゃないか。

 まだ十七のじゃくはい者にとって大人おとなに嫌われるのは思いのほか衝撃的なことであった。「お前は教師失格だ」という言葉がのどつかえて、息が詰まった。同級生に邪険にされたことは何度かあったけれど、これほど露骨に大人に攻撃されたことはない。そして俺は、この先生と金輪際こんりんざい関わらないと決めたのだ。


 再び渡り廊下に出た時、先程よりも増して寒いようだった。暗雲が日の光をさえぎっていた。如月きさらぎの冷風が顔や首を襲った。

 それから家に着くまで、俺は足早あしばやだった。一人暮らしのアパートに着くと、リュックと制服を放り出してベッドに倒れ込んだ。枕に顔をうずめてしばらく動かなかった。頭の中が騒がしくて落ち着かなかった。

 あおけに寝返って、携帯の電源ボタンを押す。今大丈夫か姉に聞くと『かまわんぜ』との返信が。すぐに電話はつながった。

「お電話ありがとうございます。こちら、お姉ちゃん貸出かしだしセンターです」

 実の姉は第一声からふざける人であった。

「何だその怪しい企業は」

「本日はどういったご利用でしょうか? 水周りのトラブルでしょうか?」

「違います」

「まずは水道の元栓をめていただいて――」

「くはっ、だから違うって」

 姉がいつも通りすぎて吹き出してしまった。俺が「あれだよ。なんか声が聞きたくなっただけだよ」と本心を言うと、姉はコントをやめて素に戻る。

「おぉ、アンタそれ恋人に言うやつだよ。あれ? アタシ達って付き合ってたっけ?」

「何言ってんの気持ち悪い」

「あっはは、ひっどいなぁ。もっと丁寧にあつかいなさい! 女の子はみんなガラスのハートなのよ!」

 演技がましく女の子とやらを語る。

「大丈夫。姉ちゃんのは防弾ガラスだから」

「ふふん、流石さすがお姉ちゃん」

 なぞに得意げである。この人なら本当に心臓を射抜かれても平気な気がする。それどころか死に際の一言でおお喜利ぎりに興じるかも知れない。

「で、どうした? ヤな事でもあった? お姉ちゃんが聞いてやらんこともないけどぉ?」

 これは恐らくにやけ顔で言っている。見透かされているのが少し恥ずかしい。

「よく分かるな」

「まあね〜。……あっ、でも難しい話はダメ。アタシの頭じゃ理解できないから。分からなくて泣いちゃうよ。泣いちゃうからねっ!」

「そんなことで泣くな」

「はは、難しくなきゃいいからさ、相談しちゃいなよ。ほれほれ」

 悪口や陰口はがんで最もみにくいものだと思っている。しかし、節度をわきまえているなら大義名分のある攻撃はようされるべきだ。つまり、非倫理的事象に対する批判は悪口ではない。そう考えて、俺は流れに乗った。

「そこまで言うなら相談しようか。要約すると、教諭とか医療従事者、聖職者なんかは就中なかんずく善人たるべきと期待されるといえども、そのじつ押しべて倫理の人とは言えないって話なんだが」

「やっぱ難しい話じゃんか! うわあああん!」

「うるっさ」

 嘘泣きを全力でやる姉は、結局最後まで俺の正義論に付き合った。携帯が俺の手から離れた時には、もうあらかた晴れた心持ちになっていた。

 俺にはかいいきな家族がいた。この人が最も信用できる味方だった。学校に居場所を求めない理由、それは家族だけでほとんど事足りているからなのかも知れない。だけどそれは俺にとって空気のように当然で、そんな物に恩恵おんけいを感じるのはとかく難しいものだ。

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