第四話「巨大な爆発」

 桃色眼鏡めがねの少女の名を初めて口にしてから、もう一月ひとつきが過ぎようとしていた。思い返すと、元々は本探しを手伝うだけの話だったはずである。それが気付けば音も立てずに物理学のなんり替わっていた。予想していたよりも少し厄介やっかいな事になってしまったが、助けると一度決めたからにははんに終わらせるわけにはいかない。俺には目指すべき理想像というものがある。ふしの物理の点が幾分いくぶんか向上するまで、責任をもって指導にあたろうと俺は考えていた。

 相談を受けた日から、俺達は図書室につどって勉強会を連日開催した。その二日目にテストの解き直しを済ませると、次は問題集を用いた演習をおこなった。その際、隣で伏見の観察をしていると基礎問題にさえなんじゅうしている時がある。その様子からながちょうを予感した俺は、急用などによる中止の意向を伝えられないのは気がかりだと、伏見と連絡先を交換した。こんにしている友人をもたない俺にとって、これが高校生活最初で最後の連絡先登録だった。実際、家庭教師の真似まねごとは一週間以上続いた。結果として、伏見は平均点を超えられる程度の力をつけることに成功する。今の伏見を見ると、当初の不成績が嘘のようだ。

 短期集中型の勉強会が終わった後も、俺は伏見に物理や数学を不定期に教えている。これほど長きに渡って特定の誰かと放課後を共にするのは、高校の入学以来まるで経験がない。そしていくも顔を合わせる内に、俺達は双方そうほうから勉強に無関係な話題を振れるぐらいの仲にかろうじて進展をげた。この時点で、伏見は俺と親しい人間ランキングの表彰ひょうしょう圏内けんないにまで急上昇していたのだ。

「野田君、ビックバン説ってどれほど有力なのかなぁ」

 天球にりつく太陽が西へかたむいた。これは放課後の図書室でのことである。本日は示し合わせた訳でもなく、自然とすみの長机に集まって各々の課題や読書をしていた。挨拶あいさつを除けば、俺達は特筆すべき会話もなく過ごしていたので、伏見の質問は実に唐突とうとつであった。

「どうしたんだ、急に」

 俺は長机に広げた解析力学の参考書から、隣に座っている伏見へ顔を向ける。直線的なすじを保つ伏見は、俺を見ながらゆったりと言った。

「あのね、創造論を調べてて天地創造にまつわる議論を読んでたんだけど、そう言えば、ビックバンは直接観測できないはずなのに、どうしてそう言えるんだろうって思って」

 出会ったばかりの頃、自分からはなにも語らず、口を開けば基本まごついていた伏見が今ではこうしてじんじょうに言葉を発してくれている。俺は警戒心の強い子犬になつかれたような感慨かんがいを覚えていた。

勿論もちろん観測はできないんだが、宗教や神話のたぐいと一緒くたにされるのはどうもしゃくだな。科学には根拠があるんだよ。かと言って、どう説明したらいか」

り、複雑なの?」

 伏見は、手をこまねく俺をのぞくように少し見上げて問いかけた。確かに簡単とは言いがたいが、伏見がめずらしく設問以外の質問をしてくれたのだ。俺は彼女の疑問に精一杯答えてあげたいと思った。

「ビックバンの根拠は大きく分けて二つあるんだが、俺は背景放射の方をよく知らない。とりあえず、知っている方の説明をするとしよう。伏見、ドップラー効果は分かるか?」

「救急車?」

 まさに連想ゲームである。正鵠せいこくを外したこの返答は、伏見のやや可愛かわいらしい声色こわいろいたって真面目まじめな表情、救急車というおさない響きなど、全てが絶妙な配分で組成されていた。それらが完璧かんぺきに近いで飛び出してきたことで、思わず俺は軽く吹き出してしまう。

「くふっ、いや別に、救急車のサイレンはドップラー効果そのものではないぞ」

 笑わせる気など毛頭もうとうなかったであろう伏見は、そう指摘を受けて少々決まり悪そうにはにかんだ。

 しかし、よく知らないということは、どうやらドップラー効果は物理基礎の範囲に入っていないようだ。俺は気持ちを切り替えて説明を始めた。

「それじゃあ、波の定義から確認していこうか。まず、波は同じ形をり返す訳だが、山が始まって谷が終わるまでを一つの波とし、その長さをちょうλラムダとする」

 俺は自分のノートに一周期半程度のサイン波をえがき、その周りに矢印や文字を並べる。伏見は椅子いすを俺に寄せてノートをのぞき込んだ。

「次に、単位時間あたりの波の数を周波数f。この波はスライドするように進む進行波で、その速さをvとする。これらは習ってるだろうから、ここまではいな?」

「うん、大丈夫」

「そうか。分からなかったら、遠慮せず聞いてくれ」

 そう言って俺は以下の式を書き込んだ。

「ここで、v = fλという恒等式こうとうしきが成立する。これはなぜか説明できるか?」

 伏見はノートの式を見つめたまま首をかしげた。先日の勉強会でも波の分野を復習していたから、公式は暗記しているはずである。しかし導出までは記憶していなかったのだろう。俺は助け舟を出すことにした。

「一秒間で考えよう。一秒間に波はどれだけ進むだろうか」

「……速さがvだから、v、だよね?」

 何のひねりもない問いにかえって不安を覚えたのか、伏見の答え方には自信がなかった。

「そうだな。それじゃあ一秒間に波はいくつ作られるだろうか」

「えっと、周波数fだね」

「よし、ということは一秒に波長λの波がf個できるんだから、波は f ×λだけ進んだとも考えることができる」

 伏見はノートを見つめて「成程なるほど。だからv = fλ」とつぶやいた。

「これが分かればドップラー効果は説明できるんだ。俺が周波数fの音を発しながらvプライムの速さで伏見に近づく場合を考えてみよう。この時、伏見はその場を動かない。一秒間に音はvだけ進むが、俺がvプライム進むから音波の頭から終わりまでの長さはv - v'になる」

 俺は簡単な図を余白にえがいて続ける。

「俺は周波数fの音を発したからv - v'の中にf個の波があることになる。その波長をλプライムとすると、v - v' = fλ'が成り立つ。つまり、俺はλ' = (v - v') / fの波を伏見に届けたことになる。ここまでは大丈夫か?」

 伏見は「ちょっと待ってね」と言った後、軽く握った右手をあごにポンポンと当てて「えーと、一定の周波数で、波を出しながら近づくと、波長が変化する、のか。うん、問題無いよ」と言った。

「よし、音速は俺の速さによらず一秒にvだけ進む。俺が届けた波長はλプライムだから、伏見が聞いた周波数をfプライムとすると、v = f'λ'が成り立つ。つまり、f' = v /λ' = vf / (v - v')となる。ここで、fにかけられた係数が1より大きいことから、伏見は俺が発した本来の音より高い音を聞いたことになる。これがドップラー効果の原理なんだ」

「それなら、遠ざかる時は、低くなるのかな?」

「それは、vプライムを負の値におき換えればいい。結果、f' = vf / (v + v')となってfプライムはfより小さくなる」

 伏見は小さく「あ、成程」と納得した。

「次に、可視光線について話そう。光も波だから波長がある。実は、俺達が見ている色っていうのは光の波長で決まるんだ。また、波長が可視光線の領域を出ると、赤外線か紫外線になって俺達の目には見えなくなる。ここで重要なのは、赤い光ほど波長が長く、紫に近づくほど波長は小さくなるってことだ」

「うん。これは聞いたことがあるよ」

 これでビックバンの説明に必要な小議論は片づいた。これが唐揚げならば残りは揚げる工程だけである。話は赤方偏せきほうへんと呼ばれる現象に移った。

「ここで、地球から遠い星ほど赤い光、つまり、波長が長い光をはなっていることが分かったんだ。この現象をドップラー効果で説明すると、遠い星ほど地球から遠ざかっていることになる」

「えっと、めんなさい。遠ざかる時は、小さくなるんじゃないのかな?」

 伏見はとても申し訳なさそうに俺をさえぎった。しかし、それは初歩的な誤解である。

「いや、小さくなるのは周波数だ。v = fλより、波長は周波数に反比例するだろ?」

 伏見は初め不思議そうにしていたが「あ、そっか。遠ざかる時、周波数が小さくなるから波長は大きくなるんだね」と言って、最終的にわだかまりの無い表情になった。

「話を戻すぞ、遠い星ほど速く遠ざかっていることから、宇宙のぼうちょうが提唱されたんだ。ということは、過去の宇宙は今よりもっと小さかっただろうと予測できる。そして、初期の宇宙は全物質が一点に密集した高密度で高エネルギーの状態であったと考えた。この一点が爆発的に膨張し、今の宇宙を形成したというのがビックバン説だ」

 俺も正しく理解できているか不安だが、分かりやすく説明すると大体こんなものだろう。お気に召しただろうかと伏見の顔色をうかがうと、どうもに落ちないような顔をして拳を口元に当てている。

「うん。なんとなく、分かったんだけど、まだ少し気になるところがあって……。抑々そもそも遠い星の距離は、どうやって測るのかな。何万光年も遠くにると、光の反射を待つ訳にはいかないし、うーん、どうやるんだろ」

 改めて言われてみると何だか難しい問題のような気がしてきた。生憎あいにく、その方法に関する文献を読んだ覚えがない。俺は黙ってしばらく考えてみたが、今この場で簡単に思いつく気がしなかった。おざなりな返事はできないので、俺は正直に答えることにする。

「すまない、俺にも分かんないな。次までに背景放射と共に調べておくよ」

「それだと野田君に迷惑掛けちゃうよ」

 伏見が間髪かんはつを入れずにお得意の遠慮を発揮した。普段おっとりしているというのに、こんな時だけ反応が速い。

「いや、俺も気になってきたんだよ。伏見に教えるのはそのついでだ。迷惑なんかじゃないさ」

「でも、何だか申し訳ない気がする……」

「俺は別に平気だから、伏見も気にしないでくれ」

 こんな風に伏見が俺の手を借りようとしないのは、友好度の低さが原因だと思っていた。だけどきっとそうではなくて、誰かの手をわずらわせてしまうことをむのは恐らく伏見のさがなのだろうと思う。

 俺は「それじゃ、今日きょうはそろそろお開きとしよう」と提案して、ノートをかばんに詰め込んだ。もう空は光を失いつつある。少女に夜道を一人ひとりで帰らせるのは避けるべきだ。この季節の日は知らぬに隠れてしまうから危ない。俺達は日が沈んでしまう前に、図書室を後にした。


 そう、議論は初めこんな物理指導の延長のような話題からだった。それが段々と哲学的なものへとせんしていったのだ。哲学という形のないものをあつかけいじょうと、物理という物質的な議論をり広げるけい。論理を重んじるという共通点をもった俺達の議論は、けいじょうけいを専門とする者達の異文化交流のようなものへと次第に変化してゆく。

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