第三話「伏見」

 放課後を迎えた図書室。自然科学の蔵書が並ぶ本棚ほんだなの前で、桃色ぶち眼鏡めがねをかけた少女に俺は「物理の何が知りたいんだ?」と挨拶あいさつも枕もなく唐突とうとつたずねた。周囲には俺と少女の他に人影はなく、図書室は今日も音を奪われてしまったかのように静まり返っている。それにしても姓名せいめいすら知らない異性に対して、よくこんなえらそうな台詞せりふを吐けたものだ。自身のみょうな言葉選びにわれながらあきれてしまった。

 泣きぼくろの少女は突然声をかけられたことにビクリと肩をねらせて、一体何をどう聞き間違えたのか、まごまごと「あ、えっと、みません。ぐに立ち去ります」とだけ言って、こちらに顔を向けることもなく、どこかへ行ってしまいそうになった。まるで小動物の逃げ方だ。これでははからずも俺が少女を追い払ったことになってしまう。それはあまりにも申し訳ないと思った。

「ちょっと待ってくれ。別に君が邪魔だったわけじゃないんだ」

 俺は少々あわてて呼び止めた。去ろうとしていた少女は足を止め、俺を目視した後「あ、昨日きのうの――」とつぶやいてしゃくした。少女の表情はわずかに晴れのきざしを見せたものの、ぜんくもっていることに変わりはない。こんな時、きっとにこやかに接した方がいのだろうが、俺にはあいというものが欠落していた。それに、同級生の女子とほとんど会話をしないという事実も重なって、俺の方から近づいておきながら何と言うべきか分かりかねるというていたらくであった。

 俺はとりあえず「驚かせてすまなかった」とごとべ、そのあとはとにかく誤解を解こうと試みた。

「えっと、その、なにか困ってるようだったから声をかけただけなんだ」

 しかし少女は目線を右下にらして「いえ、今日きょうも迷惑を掛ける訳には、いかないので」と迷わずに謝絶しゃぜつしようとする。昨日きのうの一件で親しくなれたなどと安易に考えてはいないが、少女は初見の態度をそう簡単にはくずさない気である。

 俺の脳内を遠慮という熟語が荒々しく旋回せんかいしていた。同時に逃げゆく遠慮を虫取りあみつかまえている気分になった。

昨日きのうのだって大した迷惑じゃない。それに、君は物理の本を探してるんだろ?」

「そう、だけど……」

 その返事は振幅しんぷくの小さなみつであった。少女はを継続したままで、俺と視線が交わることはない。

「それならなにか力になれるはずだ。俺、物理にだけは明るいんだ。だから探すの手伝うよ」

 少女はうつむいて「どうして、私を助けてくれるの?」と比較的低いこわで言った。少女の言葉は、探し物を手伝うだけのことにしては深刻そうに聞こえた。

「どうしてって言われてもな。何だろう」

 一番の理由は俺がい人を目指していて、困っていそうな人には手を差し伸べられる人間でありたいと思っているからである。しかしそれを堂々と人に打ち明けるのには違和感を覚える。論理立てて説明できないが、それを公言するのは違うのではないかと感じてしまうのだ。

「君が困っていそうに見えたから、かな……」

 俺は嘘にならない程度に理由のひょうをずらした。

 少女は上目づかいで俺を見て「本当に迷惑じゃないんですか?」と再確認した。その目がうっすら涙でうるおっている。

「ああ。本を探すくらい迷惑の内に入らないよ」

「それじゃあ、……一緒に探してもらっても、いですか?」

 少女はぺこりとこうべれた。声は震え気味であった。俺は少女の挙動を、この子はきっと人付き合いが苦手なのだという程度にしか判断していなかった。まあ、この時の俺に気付けと言うのは、平凡な小学生に相対論の一般と特殊の違いを説明させるぐらい無理な注文である。

 図書室には自由に使える椅子いすや机が並んでおり、俺達は一番すみの長机を選んで隣り合わせに座った。しょを背に、正面には窓という席である。しつじょうに手提げを載せた少女は、両手でそれを押さえて、正面を向いたままうつむいて口をつぐんでいる。

 このまま二人して黙って席に着くことが、少女の困り事を解決するのなら別段文句は無い。しかし現実にそんなことは起こりえないので、俺はまず自己紹介をすることにした。

「俺は二年の野田だ。クラスは理系。同学年、だよな?」

 少女は眼鏡めがね越しに流し目で俺を見ながら、重い口を開いた。

「あ、うん。二年、文系のふしっていいます」

 稲荷いなり神社みたいなみょうである。その響きは少女のはかない雰囲気ときわめて合致して聞こえた。俺が人の名前を瞬時に覚えるのはめずらしいことなのだ。

 初期イベントの自己紹介を達成して、ようやく進み出したかと思われた会話は、次の一歩を踏み出すことなくそこで停止した。木目調の机に顔を向け直した伏見の肩に力が入ってるのが分かる。どうやら伏見の方から話してくれる訳ではないようなので、必然的に俺が聞き出していくことになった。

「えーと、伏見は物理でなんか困ってるんだよな?」

 伏見は正面を向いたまま無言でコクリとうなずいた。しかし、彼女の口から新たな情報がれてくることはない。この沈黙は、昨日きのうのそれよりひどく気まずく感じた。だから本心を言えば、俺も今少し困っている。

「物理の何を探してたんだ?」

 伏見は、注意をおこたると聴き逃してしまうほどの細い声で「さ、参考書を」と言った。口振りから、そのあとに言葉が続く訳ではないようである。伏見の姿は気圧で漸々ぜんぜんと縮こまっていた。

「それはテスト対策? それとも授業と関係のない調べもの?」

 俺の方から一方的に質問ばかりしているがこれで合っているのだろうか。俺の姉だったらここでなにか気のいた事を言って場をなごませられるのかも知れない。じんの弟は、初対面の人でさえも破顔させてやろうという根性をゆうしていなかった。

「前者だと、思います」

 そう答えた伏見のうつむきは、ますます深くなってきている。

「それじゃあ、とりあえず問題集だな。苦手な分野とかあるのか?」

 困りまゆの顔をせて口を閉ざしている伏見の言葉を、俺は待った。

 文系のテストは、範囲が物理基礎に準ずる。だから内容はさほど難しくないはずだ。点を上げるには、ひんしゅつの問題の解き方を理解していくのが一番早いだろう。後は苦手分野を重点的に復習しておけば、大方おおかた大丈夫だと思っていたが、伏見の返答は俺の予想に反するものだった。

「何が分からないのか、よく分からないんです。本当に、どうしたらいのか」

 俺は手提げの上の握られた拳を見た。

「問題の意味がつかめなくなって、それで、今日きょう受けたテストが、全然出来できなかったの」

 そう続けて、伏見は両くちびるを内側に巻き込みうなれた。

 問題の意味がつかめないというのは、問題文から物体の状態を把握するのが困難だということなのだろうか。俺にはその経験がないので、もしかすると物理が苦手な人に限定されるつまずき方なのかも知れない。どちらにせよ、慣れがどうにかしてくれそうな案件である。ならば演習量を増やすだけでも、成績の改善は十分に見込めるだろう。

「じゃあまずは、そのテストの解き直しをしよう。分かんないところがあったら俺が教えるから」

 伏見は俺の提案に対するさんも表明せずに、ただ下を向いてぼんやりとしている。俺は不思議に思って問いかけた。

「どうかしたのか、伏見」

「……り、迷惑を掛けてしまっている気がして、野田君の時間を奪ってるんじゃないかって」

 伏見は申し訳なさそうに、ゆっくりと言葉をつないだ。見たところ本当に気がとがめているらしい。その態度は古風、換言かんげんするなら日本的で、かえって俺の目には新鮮に映った。

「俺のことは心配しなくてい、物理で困ってる人の手助けも勉強の内だ。俺は物理学者を目指してるからな」

 伏見は小さく「学者」と返して、少し顔を上げた。

「今は自身を優先してくれ、とにかく、そのテストを見せてくれないか」

 俺はさわやかな口調で伏見をうながそうと努めた。せい緩やかに「うん」と返事をした伏見の表情は、心なしかわずかにやわらいで見えた。

 テスト用紙を机に広げて、伏見はノートに解き直しをする。俺は問題を一通りながめた後、奮闘ふんとうしている伏見の隣で、はん解答の代わりをさっと作った。

 実際、文系のテストにしては少々難しい。また、困っているだけあって易々やすやすとはいかないようだ。最初の小問ですでに苦戦をいられていたし、途中何だかうわそらな時もあった。加えて単純に計算が遅いという課題もあったのだが、俺は文系の人の平均的な計算力を知らないため、伏見が特別遅いのか判断がつかない。

 問題文から読み取れる物体の図をいたり、立式の間違いを指摘したりと、逐一ちくいち丁寧に教えた結果、小問を二、三残して閉室時間を迎えた。

 俺は乗りかかった船だと言って、明日あすの放課後また図書室に集まる約束をし、今日のところは帰ることとなった。俺達は並んでとびらを抜けた。図書室からこぼれる明かりを頼りに階段をりる際、後ろを歩く伏見が口をいた。

「野田君」

 俺は足を止めて振り返った。伏見はゆっくりと続ける。

今日きょうは、有難ありがとう」

 伏見はそう言って、昨日きのうはかない笑顔になった。その表情から、俺は昨日の出来事を想起する。

「伏見は昨日きのう、俺を善い人と言ったよな?」

「え、うん」

「だけど善い人の定義って難しいと思わないか」

 俺は、人の間違いを許せるのと、人の間違いを正してやるのはどちらが善い人なのかという議題を、俺の暫定ざんていの意見も含めて伏見に話した。だが、別に俺は伏見にこの疑問の解決を期待していた訳ではない。人によって善い人の認識はどれほど変わるのか、その参考にでもなればという考えのもとでの言動だった。

 最後までせいちょうしていた伏見は「わたしも、似たような事を考えたことがあるの。確かに簡単に答えが出せる問題じゃない」と言って、軽く握った右手を口元に当てた。

 俺は静かに驚いた。俺の堅苦しく小難しい話を、茶化さずになお理解してくれた人はそう多くない。その理由は、大抵の人は頭を使うことを億劫おっくうだと感じ、学問は職を得るためにするものだという意識があるからだと考える。学問のために学問をする人はしょうな存在なのだ。

「今少し考えて思ったことはね、そこに気が付き、悩めるのは、そんなこと考えもしない人達よりはずっと、善い人……なんじゃないかな」

 成程なるほど。落着とまではいかなくとも、伏見は議論に新しい切り口を開いた。善い人たるとはどういうことか、その探究が善い人への一歩なのかも知れない。

わたし、哲学書を読んだりするのが好きで、哲学を勉強したいなって思ってるの。……野田君はり善い人だよ、カントがそう言ってる」

 俺の社会科の選択は地理だ。だから、カントの道徳観など知らなかった。そう、この時はまだ知らなかったんだ。だけど、そこで伏見に教えをわなかったのは、恐らくまだ彼女との距離をつかそこねていたからだろう。

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