第二話「善い人」

「あの……もう、閉室時間、です」

 桃色のセルフレーム。角の丸いスクエア。そんな眼鏡めがねをかけた泣きぼくろの少女は、そう告げて目線を下にらした。内気そうな態度と、少し明るい髪色と、細身のたんあいまってどこかはかなげである。

 いつの間にか太陽は極東を去って、アメリカ大陸のお友達をたずねに行ってしまった。窓には漆黒しっこくの空が映る。閉室時間を迎えた図書室はひとがなく、俺と少女の二人ふたりしかいないようだ。

「ああ、すぐに出ていくよ」

 俺は落ち着いた調子で返事をした。本当は切りのいところまで考えたいが、本日の営業が終了したのだから仕方がない。明日あすの放課後、またここに来て続きをしよう。俺はじょうの筆箱やノートを黒いリュックにほおり、立ち上がって自然科学のたなへ解析力学の参考書を戻した。

 俺の元から離れた図書委員の少女は一度カウンターに引っ込んだが、やがて本で三分の二ほど埋まったコンテナをかかえて戻って来た。少女の華奢きゃしゃがコンテナを大きく、重く見せた。

 この高校のセーラー服はこんを基調としており、えり袖口そでぐちがスカートと同じブルーグレー。二本の白いえりラインが胸元から二次関数をえがき、これまた白のスカーフが胸のスカーフめに通されている。上着で個性を演出している女子も多い中、少女は何の手も加えられていないデフォルトのままの制服姿である。学年によってうわきの色が決まっているのだが、少女は青色の上靴うわぐつだったので俺と同じ二年生だと判明した。背の低さからか少し意外に感じたが、別段驚きもしなかった。

 少女はコンテナを棚の前に下ろすと、中から本を取り出し一冊一冊丁寧に背表紙のラベルを確認する。そして、並ぶ蔵書を右から左へながめて、本を棚に収め始めた。その動作はゆったりとしていた。

 その時、芝原しばはらが脳内を電流としてぎった。その姿は俺の目に焼き付いた強烈な光のようなものだ。俺はその光に誘われるかのように歩みを進めた。しかし俺は街灯に群がる夜の虫ほど無意識ではなかった。

「手伝うよ」

 俺の手はもうコンテナに伸びていた。少女は少し驚いた様子で俺を見て「え……いや、それだと貴方あなたに迷惑が」と小さな声で遠慮した。俺は手にした本のラベルを目視しながら答える。

「そんなことは気にしないでくれ、番号通りに棚に戻せば良いんだよな?」

「そうだけど……」

 そうつぶいた少女はポカンと俺の横顔を黙って見つめていたが、ほどなくほほを赤くしてうつむいた。どうやら俺の予想以上に人付き合いが不得意な子のようである。人助けのつもりだったが、かえって心労を増やしてしまったのかも知れない。その後、図書室を出るまで少女がこちらを向くことはなかった。

 それから俺と少女は黙々と図書を片付けた。沈黙が二人ふたりを包み、図書室を満たしている。表紙がれる音と、風が窓をでる音だけが優しく耳に触れた。壁際のしょを照らす蛍光灯が、時折チカチカする。暗闇に浮かぶ図書室の中で、俺達は会話をすることもなく本を並べた。普通なら気まずい局面だと思う。だけど俺は、このせいじゃくをどこか心地良く感じていた。

 結局、全てを片付けるのに十分もかからなかった。少女は空のコンテナを拾い上げ、カウンターへ運ぶ。出入口はカウンターの隣りにあるので、俺は鉛塊えんかいのように重いリュックを手に持って少女の後を追う形になった。

「手伝わせてしまって、めんなさい」

 少女が突然口を開く。少女は進行方向に顔を向けたまま謝ったので、俺には少女の横顔しか見えなかった。

「いや、良いんだ。気にしないでくれ」

 俺は少女と目線を並行にして、前言をり返した。語気には微小な辟易へきえきを含んでしまったが、きわめてさわやかな返答だったと思う。

 カウンターにコンテナを置き、消灯して一緒に退室した時、季節が冬であったことを思い出す。廊下が部屋より少しすずしい。こんな時、ヒートポンプを開発した者達の偉大さを痛感する。

 少女は手提げからかぎを取り出し、月明かりを頼りに図書室のとびらを閉めた。静かな暗い廊下に、鍵をかける高い音が響く。俺は何となく少女の動作を見守った。少女は「今日きょうは……本当にめんなさい」と言って振り返り、はっきりと俺を見た。

貴方あなたは、い人なんですね」

 ほほ眼鏡めがねと同じ色に染めて、少女ははかなく笑った。少し困ったような、切ないような微笑ほほえみだった。

 俺は少女の言葉に肯定も否定もできなかった。自分が本当に善い人なのか、その時の俺にはまだ判断できなかったからだ。ただ、そう評価されたことは単純にうれしかった。何故なぜなら、善い人になることは俺の大きな人生目標の一つなのだから。


 翌日、三学期初めての物理の授業があった。物理は教室を移動し、物理講義室で勉強をする。今日きょうは授業時間を半分使って、休み明けの復習テストが行われた。範囲はこれまで習ったもの全て。難易度は標準よりやや難しげではあるが、それでも俺をうならせるような問題は存在しなかった。

 問題の解説にかれた残り時間を、俺は少々退屈に過ごしている。やや体格のい先生は、しわか白衣か判然はんぜんとしない物を着て、上下する黒板に式やら図やらを長々と書いた。一通り解説し終わった後、先生は「何か質問があるやつはいるか?」と角張った顔で生徒をわたした。そこで手をげたのは、昨日きのう俺に数学をたずねてきた赤茶髪の級友である。彼は平気で人にものを尋ねるたんりょくと、多少の図々ずうずうしさを許されるあいきょうね備えていた。

「先生〜、滑車の問題で、定滑車と天井の間に働く抗力がなんで2Tなのか分かりません」

 ここで、Tは張力である。

 成程なるほど。確かに、直感的にぼんやりとなら分かるが、詳しい説明はできないという人が多そうな質問である。

「滑車にかかっている力はその抗力以外に何があると思う」

 先生が級友の質問に質問で返答した。級友は自信なさげに「張力? ですか?」と答えた。

「そうだな。そうすると滑車に関する運動方程式は、ma = S - 2Tとなる」

 ここでは、求める抗力をSとし、えんちょく上向きを正と仮定しているのだろう。

条件より滑車の質量は0だから、S = 2Tとなるわけだ」

 先生は黒板の余白、もといこくに数式を書き加えて説明を終えた。講義室全体に納得の雰囲気がただよっている。しかし俺は、ちゅうちょせずに手を挙げた。

厳密げんみつには、それは間違っています」

 俺は恐らく講義室中の視線を浴びた。もし視線が質量をもつ針のような物質だったとしたら、俺ははりつけよりもさんな有様だったのかも知れない。俺は今、自らの鼓動を強く感じている。

「何だ、野田」

 先生の言葉は冷ややかに聞こえた。その声に俺は発言したことを後悔しそうになったが、もう後には引けない。俺は立ち向かうことを決心して起立した。

「張力がかかっているのはひもであり、滑車ではありません。質量0より、摩擦がなくとも滑車は回転するので、紐と滑車の間には垂直抗力のみ働きます」

 先生は黙って俺を凝視している。俺は緊張しつつも教壇に上がって話を続けた。

「この抗力を求めるには、まず、滑車に触れている部分の紐をn個に分けて、そのk番目の運動方程式を立てます」

 俺は白のチョークを持って黒板に滑車と紐の図をき、その上に「ma = -Fk-1 + Nk + Fk」と書いた。ここで、右辺第二項は垂直抗力、第三項はk+1番目の部分から引っ張られる力で、ベクトルの後に書いたkなどは右下のそえである。

「一番端のFが張力と等しいことに注意して、1からnまで両辺を足すと、抗力は2Tだと分かります。滑車にかかるのはこの反作用なので、滑車の加速度が0より、求める抗力はS = 2Tとなります」

 答えをみちびいた後チョークを置いて振り返ると、クラスメイト達の視線が俺に集まっていた。案外、終わってみると大したことないじゃないか。人前が嫌いだった俺も随分ずいぶん成長したということか。俺は自分の席に戻りながら、へびに足を加えた。

「ちなみに、回転していなければ、滑車の質量に関係なくこれは成り立ちます。質量0は、慣性モーメントが0になり回転による運動エネルギーは無視できるという意味もあるので、高校物理ではどちらにしろ必要な条件です。先生の説明は分かりやすいですが、厳密には正しくありません。嘘を教えるのはいかがなものかと思います」

 ここまで言い切って俺は席に着いた。講義室内は呼気こきを吹き込み過ぎた風船のように緊迫していた。板書をノートに写す者がいた。小声でひそひそ話している者達もいた。その中で、級友が「慣性モーメントは昨日きのう聞いたな」とのんな顔で記憶をたどっていた。先生は俺の書いた式を見つめたまま「そうか。……野田の言う通りだ」と独り言のように言葉をらす。生徒に背を向ける先生の白衣は、いっそうしわが増えているように見えた。

 授業はそのまま終わってしまった。


 放課後、俺は予定通り最上階の図書室を目指した。階段を登る途中、俺は先程の授業のことを思う。それは、人の間違いにどう反応するのかいのかという問題だ。

 揚げ足取りのような非難は道徳的ではない。人は誰でも間違いをおかす。あらゆる失敗を許さないのは、おのれを棚に上げる行為だ。要は、ある程度寛容かんようである方がいということになる。

 しかし、他人に迷惑をかけうる間違いに寛容であってはいけない。その場で正して、これ以上の被害者を出さないようにすべきだ。よって、この問題は一概いちがいに答えを出せるものではなくなってしまう。細かい間違いなら一々きょうせいせずともいが、人を困らせる大嘘は是非ぜひ正すべきであるというのが俺の暫定ざんていだ。

 しかし、何をもって間違いの大小を判別するのか曖昧あいまいである。今回の件もそうだ。教育者が嘘を啓蒙けいもうするのは、非道徳的だと判断し訂正に努めたが、俺の選択はあれで正しかったのだろうか。あの程度の誤解が他者にとってさいであった可能性はいなめない。

 そう考えると、最後の方は少し言い過ぎだったか。俺は物理の人間だから、あの間違いを過大評価していたのかも知れない。かたきのような扱いをしてしまった先生には大変申し訳ないことをした。薬だと思ってもらえれば助かるのだが。まあ、あの先生だって教育者だ。ちゃんと反省して次回に生かしてくれることだろう。

 めずらしく衝動的だったと自分の言動をかえりみながら、いつも通り自然科学の棚に向かうと、昨日きのうの少女が目的の棚の前に立っている。驚いた。ここは普段、誰も寄り付かないのだ。桃色眼鏡めがねの少女は今日も困り顔で、数多あまた並ぶ物理関連の図書に手を伸ばしたり引っ込めたりしている。なにか調べものだろうか。それにしては少女の姿は気持ち必死そうに見えた。きっと困り事に違いない。俺は助けなければならないと思った。

「物理の何が知りたいんだ?」

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