第三楽章(7)

「みんな帰っちまったな」

 最終回の投影後、スタッフが全員帰ったのを確認してから、間宮は「昨夜の話の続きをはじめっか」と言って、徹を事務室に呼んだ。


「まずはこれまでに調べてわかったことについて聞かせてやろう」間宮はノートをパラパラとめくりながら言う。


「ええと、いいか? イシュタル、アスタルテ、キプロス、ケツアルコアトル……」と読み上げながら、間宮は白い大きな紙に、暗号のようなカタカナ文字を書き出して「これが何だと思う?」と徹に聞いた。じっと紙を見つめて考え込む徹。


「どうだ? 聞いたことのあるのがひとつくらいはあんだろ?」


「イシュタル、アスタルテ……、このふたつの音はなんだか似ている気がしますけど……」間宮はさらに徹に考えさせる。


「キプロスは国の名前で、ケツアルコアトルってのは、確か、中米かどこかの神話にでてくる神様の名前でしたよね?」


「ああそうだ。……教えてやろう。これらは元々は世界各国の神話に出てくる神の名前なんだ」


「神の名……?」


「ああ。で、その神様が何を象徴してると思う?」


 首をひねる徹。


「地域によって呼び名は違えど、みな同じものを示してるんだよ」

 考えている徹を尻目に、間宮はアスタルテのすぐ上に『アフロディーテ』と書き添えた。


「アスタルテとアフロディーテ……、似てる……ということは……」


「そう、お前の推測通り、アフロディーテ同様に、どれもみんな神話においては金星を神格化したものなんだ。さらにローマ神話だと……」と言いながら、間宮は紙に『ヴィーナス』と書き加えた。


「共通点はそれだけじゃねえぞ。こいつらはみんな誕生のシーンも似てるんだ。どの国の神話でも、他の神々はほとんど問題にされてねえってのに、金星神の誕生だけは、劇的なまでに強調されてるんだ。それに……」


「まだ何かあるんですか?」

 間宮は一旦じろりと徹を見てから、口を開いた。


「それに、これは世界各地の古代の資料をじっくり調べてわかったんだが、紀元前二千年より以前の資料には、これら金星の神々はまったく顔を出さねえんだ」


「顔を出さない?」


「ああ……」と、間宮は自信たっぷりに大きくうなずく。


「続きはあっちで話そうぜ」


「あっち?」


「そうだ。あっちのほうが話が早ぇんだ。小便したら行くから、先に準備しといてくれ」

 間宮の言う「あっち」とは、プラネタリウムを指していた。徹はカールの電源をオンにして、間宮を待った。間宮はかなり調べあげている。昨夜は突拍子もない話に驚いたが、間宮は自分の身に起きたことについて、確固たるデータを元に仮説を立て、解き明かそうとしているのだ。


 やがてズボンのチャックを上げながら、間宮が入ってきた。脇には何やら分厚い本を抱えている。

「そんじゃ、カールを夕暮れのシーンから回してみてくれ!」

 徹は手慣れた動作で指示に従い、間宮が中央の客席に座るのを確認してからすっと照明を落とした。


「なあ、徹よぉ、この季節の夜空にまず最初に現れて、解説でも一番最初にとり上げる星ってなんだ?」

 なぞなぞのような間宮の問いかけに、徹は矢印の形をしたペンライトで、ある明るい星を示しながら「宵の明星です」と答えた。


「今なんて言った?」


「宵の明星、つまり金星ですよ」


「そうだ、その通りだ。お前だけじゃなくって、俺たち解説員にとっちゃ、金星の話ってのはまず外せねえよな」

 いったい何を言おうとしているのか、間宮の真意が掴めぬまま、徹は次の言葉を待つ。


「金星には、他の太陽系の惑星と違って、かなり特殊な性質があるってのは知ってんだろ?」


「ええ、まあ……」


「ちょっと太陽系のスライドを映してくれ」と言いながら、立ち上がった間宮は、徹からペンライトを奪い取った。慌ててスライドをセットする徹。天蓋には、太陽を中心に、水星から冥王星までの九つの惑星の絵が浮かび上がった。


「まずは自転方向についてだが、通常、太陽系の惑星ってのは、北極から見た場合、一様に反時計回りに自転している。地球で太陽が東から昇るのもそれが理由だ。反時計回り、これは言ってみりゃ、太陽系の創生時に決められた基本ルールみてえなもんだ。だが、唯一、金星だけは例外なんだ。つまり、金星だけが時計回りをしてる」

 間宮は天蓋に当てたペンライトをぐるぐると回しながら説明した。


「それだけじゃねえ。金星は自転速度も非常にゆっくりとしてて、一回転するのに243日もかかる。公転周期が225日だから、金星じゃ一年よりも一日の方が長いってことになる。これも太陽系では金星だけの例外だ」


 間宮の調べたところによると、金星神の誕生シーンは、各国の神話で似通っているということだった。また、紀元前二千年以前の古代の資料には、金星神にあたる神が存在しないとも。これらのことと、惑星として金星だけが例外的な性質を持っているということとは、何らかの関連があるのだろうか。


「そんな事実を前提にして、ちょっと見てもらいてえもんがあるんだ」

 間宮は抱え持ってきた一冊の分厚い本を、解説台の横のテーブルに置いた。それは、赤茶けて、隅っこのめくれあがった古い洋書だった。間宮は紙が破れないように丁寧にめくり、一枚の図版が出たところで、指をとめた。


「これが何だかわかるか?」

 怪しげな模様に縁取られた古臭い絵を見て、首をかしげている徹に、間宮は「これは古代インド、バラモン教の天文図だ」と、神妙な顔付きで答えた。


「これがどうしたっていうんですか?」


「よく見てみろ。お前ならどれがどの星を表してるかわかんだろ」


 言われるがままに、徹は天文図に惑星をあてはめていった。太陽から順番に、水星、金星、地球、月、火星、木星……と指でたどっていく。


 ◎---○---○---◎---●---○---○---○---△-△-△


「あれ、おかしいぞ」


「どうした?」


「土星がないじゃないですか」


「もう一度、よくみてみろ」


「これが水星で、これが金星……、そして、これが火星……」


「いや、そうじゃねえぞ」


「でも、とにかくひとつ足りないんですよ」

 太陽から順に何度数えても、惑星がひとつ足りないのだ。


「こいつは何だ?」中のひとつを指差す間宮。


「月ですよね」


「どうしてそう思った?」


「だって、ここんとこが欠けてますもん」

 間宮が示した惑星は、文字通り三日月型に描かれているので疑う余地はない。


「じゃあこれは?」


「地球です」


「うん、そうだな。じゃあ地球がこの位置にあるとすると、それより内側と外側にある惑星が割り出せるよな。そうするとまず外側はどうなる?」


「火星、木星、土星……と、確かに外側には三つある」

 今日では、土星から先の惑星として、天王星、海王星、冥王星があるが、これらは近代になって望遠鏡が発明されて、はじめて発見された惑星だ。肉眼では見えないこれら三つの星が、この時代の惑星図には含まれていないのは当然だ。


「じゃあ、内側はどうだ?」


「太陽と地球の間には、月ともうひとつの星しかない……ということは、ここには惑星がひとつ足りないってことだ。地球の内側だから金星か水星のどっちかってことになる」


「そうだ、そのどっちかがねえんだよ」


「どっちなんだ……」


「答えを言おう。そこから抜け落ちてんのは金星なんだよ」


「どうしてですか? ぼくは、むしろ水星のほうが可能性が高いなって思ってたとこなんですけど……。だって、金星は夜空で一番目立つ星なんですから」


「確かにそうだ、お前の言う通りだ。おかしいよな。でも欠けてんのは、水星じゃなくて金星なんだ」


「どうしてそんなに自信をもって言えるんですか?」


「実はこのバラモン教の天文図だけじゃねえんだ。俺の調べたところによると、同じこと、つまり惑星がひとつ足りねえってのは、他の資料でも起こってることなんだ。占星術の発生の地である古代バビロニア人は、かなり高度な天文知識をもってたんじゃねえかと言われてる。だが、やつらが遺した資料からも、金星が抜け落ちてるんだ。他にもシュメールの祈りの歌やなんかの各地の古代の資料を調べてみると、紀元前二千年以前のものには、金星って星は見つからねえんだ」


「でもどうしてですか? 金星が見つからないなんて、そんなことあるわけないですよ」


「お前の言いたいことはわかってる。まあ、まずは聞いてくれ」

 つい興奮して声高になった徹を、間宮が制す。


「肉眼で見えるはずの惑星が出てこねえってえのには、いくつかの理由が考えられる。まずひとつは、当時、金星が肉眼じゃ見えねえくらいに小せえものだったってことだ」


「まさか、そんなこと……。肉眼で一番大きく見える惑星は金星なんですよ。他の惑星が見えなくったって、金星だけは見えるんですから……」


「いいから、最後まで聞けって」と、再度、間宮は徹を制す。


「存在はしてても、当時はまだ見えなかったんじゃねえかってことだ。仮に金星の軌道が、円じゃなく、とても細長い楕円を描いてて、何千年っていう長い周期で太陽のまわりを回ってたとすると、見えねえ時期があっても不思議じゃねえ。現に冥王星は楕円軌道を描いてて、海王星の内側に入り込んだり、外側に出たりを繰り返してるだろ」

 太陽系の惑星の中で、冥王星と海王星の順番がときどき入れ替わるのはそれが理由だ。そんな状態であれば、理論上は見えない時期があることも考えられる。


「それから、もうひとつの可能性だが……」間宮は言葉を溜めて、徹の注意を十分に引きつけた。


「当時は、まだ金星って惑星自体が存在してなかったんじゃねえかってことだ」


「金星が存在しない?」

 徹は思わず絶句した。金星が存在しないなんて、とても正気の沙汰ではない。そんなことを認めたら、それこそ、太陽系の成り立ちから大きく崩れてしまう。

 通常、太陽系は中心から外に向かって成長発展を遂げたと考えるのが定説だが、これはそれとはまったく相容れない。ぽかんと開いた口がふさがらない徹とは対照的に、間宮は冷静かつ自信たっぷりにうなずきながら言った。


「おそらく、金星はまだその当時は生まれちゃいなかったんだよ」

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