第三楽章(5)

「おぅ、お帰り、空の旅は快適だったか?」

 プラネタリウムに顔を出すなり、徹よりも数日先に帰国していた間宮が声をかけてきた。


「ええ、まあ……」


「どうしたぁ、何かあったのか?」

 徹の声の調子から、間宮は心配げに聞いた。ほんの数日前のマヤとの出来事が、徹の頭にしっかりと貼り付いて離れない。それに妙な夢の残像も生々しい記憶として残っている。


「いろんなことがあり過ぎまして……」徹は間宮にだけは話しておこうと思った。


「何だぁ? 意味シンじゃねえか」


「今夜、仕事が終わってから、お時間をもらえますか?」


「そんじゃあ、帰国祝いにいっぱいやっか」



 その夜、宮益坂の居酒屋で、徹は今回の旅の一部始終を打ち明けた。摩耶子との出会いについて、また、ペトロスに聞かされた島の言い伝えのことも……。


「で、徹、お前、そのトンネルに入ったのか?」尋ねる間宮の目がほんの一瞬光る。


「ええ……」と、徹はうなずきながら、「なんだ、大さんも知ってるんですか? あのトンネルの言い伝えを」と返す。


「まあな。俺がいたときにも、ペトロスはその話を聞かせてくれたよ」


「そうだったんですか……」間宮の表情の一瞬の翳りを、そのとき、徹は見逃した。


「お前もアフロディーテの……、いや、恋の病にかかっちまったんだなぁ」


「別に、そんなぁ……」

 間宮は、徹のグラスにビールを注ぎながら、胸のうちを悟られないように故意に話の鉾先を振った。


「ごまかすなって、ちゃんと顔に書いてあるぜ」

 徹は反射的に顔に手を当てた。間宮の指摘通り、確かに頬が熱い。


「島育ちは初心だねぇ、まったく」


「大さん、ふざけないで下さいよ」

 笑いながらグラスを空ける間宮に、今度は徹が神妙な顔付きで「実は、その彼女の旅の目的が傷心旅行だったんです」と、話題を替えた。


「なんだ、男に振られたのか」


「いえ、そうじゃないんです。彼女の親しい友人が飛び降り自殺を図ったんですが、その原因が彼女は自分にあると思い込んでいました」

 間宮は、ほほぅという顔つきで口をつぐむ。「お待ちどうさま!」と、ちょうどそのとき、注文したシシャモが運ばれてきた。間宮はすぐさましっぽをつまんで、頭からむしゃむしゃと食べる。


「で、原因は彼女じゃねえってのか?」


「事情を聞いてみると、どうやら妙な話なんです」


「どういうことだ?」好奇心を刺激されたのか、間宮は半分までかじったシシャモを、一旦小皿の上に置いた。


「その男は自分のマンションから飛び降りたんですけど、その状況がとても妙なんですよ」

 話の先を催促する間宮の視線を感じて、徹はことの一部始終を話した。不可解な死に方に話が及ぶと、間宮は急に真顔になった。


「じゃあなんだぁ、その男は音楽を聴きながら死んじまったってのか?」


「ええ、部屋には何でもモーツァルトの交響曲41番がかけっぱなしになってたとか……」


「ふうん、モーツァルトねぇ……」


「それも、わざわざレコードからテープに録音したものをかけてたみたいなんですよ。部屋には同じ曲のCDもあったっていうのに……。変だと思いませんか?」


「まあな、世の中にゃ変わったやつがいるもんだけどな」


「話はまだ終わってないんです。実は、帰りの機内で、ぼくも妙な夢を見たんですよ」


「夢? いったいどんな?」間宮の動きが一瞬ぴたりと止まる。


「はあ、何かに向かってぼくが突進しているんです。とてつもなく大きな何か、そう、巨大なボールのようなかたちをしたものに向かって……。でも、突き破って中に入ったところから、急に不思議な感覚に陥ってしまって……」


「どんな?」


「ええ、心地いいのに息苦しくて、嬉しいのにどこか悲しい、そんな正反対の感情が交互に現れてくるんです。目が覚めてからも、やけに記憶に残る妙な夢でした。もしかしたら、トンネルで味わった恐怖感が、無意識に影響しているのかもしれませんが……」


「夢は潜在意識を投影するっていうからなぁ」


「でも、ぼくが驚いたのは、その夢を見たとき、偶然にBGMとして聴いていたのが、モーツァルトの交響曲41番だったってことなんですよ」


 間宮は敏感に反応し、身を乗り出した。徹の話の内容を頭の中で吟味しているのか、腕を組んだまま、うーんと唸って上方を見上げた。これは間宮が何か思い巡らせているときのポーズだ。仕方なく、徹はビールを注ぐなどしてその間を埋めた。やがて、間宮はじっと徹の顔を覗き込んで、重たい口をようやく開いた。


「なあ、お前もペトロスから話は聞いただろ?」


「何のことですか?」


「トンネルだよ、あの言い伝えのあるっていう……」


「エフパリノスのトンネル……のことですね?」


「そうだ、そのトンネルのことだ」


「それがどうかしたんですか?」


「お前はどう思う? あのトンネルに伝わる話を信じるか? 男女が引き返さず、言葉も交わさずに通り抜けられたら、ふたりは一生結ばれるっていう話を」


「大さん、急にどうしちゃったんですか? どこにでもあるじゃないですか、似たような言い伝えは……」


「だから、信じるのかどうかって聞いてんだよ」声高に間宮は迫る。


 徹はその問いにどう答えるべきか迷った。常識的に考えれば、どこにでもある迷信みたいなものだ。だが、本音の部分では信じたかった。そして、マヤとの再会を果たしたかった。でも、なぜ間宮はこんなことを問い詰めるのだろう。いつもの間宮らしくない。少なくともこの手の話は、冗談で軽く笑い飛ばすようなタイプの男だと思っていた。それが今夜は何やら普段と様子が違う。


「信じます」

 ややあってから、徹はきっぱりと言った。それは、間宮がそう答えることを望んでいると感じたからであり、自分に対してもそう答えることが正直だったからだ。


「そうか、信じるか。ならば話そう」

 間宮は、徹の目をじっと見つめていった。


「実はな……、俺も昔、あのトンネルをくぐったんだよ」


「えっ、本当ですか? で、相手は……?」


「アフロディーテ、ペトロスの妹だ」


 何ということだろう。二八年前、放浪の旅の途中で運命的に出会った女性、アフロディーテと間宮が恋に落ちたことは、ペトロスから聞かされていた。だが、そのふたりもトンネルの試練を体験していたとは……。だが、アフロディーテはすでに事故死している。


「あれは、トンネルをくぐった翌日のことだった。ペトロスは俺たちを乗せて海に出た。ところが、途中で急に嵐になりやがって、俺たちの船は転覆しちまった」

 当時を思い出したのか、虚空を見上げて話す間宮の目がいくぶん潤んでいる。


「海に投げ出された俺は、ペトロスに腕を掴まれて何とか助かったが、アフロディーテはそのまま海に沈んじまった。来る日も来る日も、俺たちは海に出た。だが、アフロディーテは二度と浮かび上がっちゃこなかった」

 間宮はグラスを力強く握ったまま動かなかった。間宮の悲嘆は、歳月を経てもけっして色褪せてはいないのだ。


「そんなことがあったなんて……」


「いや、話はそれで終わりじゃねえんだ。言ってみりゃ、そっからがはじまりなんだ」


「そこから?」


「ああ、俺とアフロディーテとの本当の関係は、そっからはじまったんだ」


「でも関係と言っても、アフロディーテは……」

 意味がわからぬ徹にお構いなしで、間宮は話を続ける。


「アフロディーテがな、それ以降、俺の夢に現れるようになったんだよ」


「夢に……?」


 不慮の事故で亡くなった人が、親族の夢枕に現れて言い残したことを伝えるという話は聞いたことがあるが、これもその一種なのだろうか。何と答えていいのかわからず、徹は間宮の言葉を待った。


「最初のうちはアフロディーテへの未練が、彼女を夢に引っ張り出すんだろうと思ってた。それに、目が覚めて現実に戻ると、すぐにそんな夢のことは忘れちまってたし」

 間宮の意図を探ろうと、徹の眉間に無意識に皺が寄る。


「だが、それからもアフロディーテは、俺の夢に出てくるんだ。そして、アフロディーテが現れる夢は、普通の夢と違って、まるで現実みてえに、いや、現実以上にリアルなんだ」

 現実以上にリアル? そんなことがあるだろうか。彼女への思いが強く、まだ未練を断ち切れずにいるに違いない。


「信じてねえな」と、間宮は徹の心を見透かした。


「まあ、無理もねえだろう。俺だって、いきなりだれかにこんな話をされたら信じるわけがねえ。だがな、この話を聞いたら、どう思う?」


「なんですか?」


「俺はある妙な符合に気が付いたんだ」

 急に改まった言い方をする間宮に、徹は「符合?」と眉をひそめる。


「実はな、そうやってアフロディーテが俺の夢に現れるのには、一定の周期があったんだよ」


「周期?」

 意味が飲み込めずにいる徹を見て、間宮は添える。


「アフロディーテは、19ヶ月半の周期でもって、俺の夢に現れていたんだ」


「はぁ? なんですか、その19ヶ月半ってのは?」


「アフロディーテの周期だよ。19ヶ月半、正確に言うなら、584日ごとってことだが」


「ますますもってわかりませんが……」


「584日ってのは、アフロディーテ、つまり金星の周期だってことだよ。最初は俺も気が付かなかった。だが、過去の手帖をひっくり返してみてピンときたんだ。つまり、これまでアフロディーテが俺の夢に姿を現わしたのは、金星が地球に最接近していた期日と、ぴったりと合致してたってことなんだよ」


「……」

 理解に苦しむ徹を無視して、間宮は続ける。


「太陽、金星、地球、この三つの星が一直線に並ぶ周期、いわゆる会合周期ってやつが584日ごとに訪れるってのは、お前も知ってるだろ? その日になると、アフロディーテは、一晩だけ俺の夢に現れて、また次の周期までは音沙汰がなくなるんだ。長い周期だから、それと気が付くまでには何年もかかったよ。確信を持ったのは、まだつい数年前のことだ」


(まさか、夢に現れる時期が、天体周期と一致しているなんて……。そういえば、以前に寝言で『アフロディーテ……』とつぶやいていたことがあった。確かあの日も会合周期だと言っていた)

 徹には、間宮の話が信じられなかった。仮に信じたとしても、それをどう解釈していいのか見当もつかなかった。


「アフロディーテは彼女の名前だが、同時にギリシャ語じゃ金星って意味もある」


「そうでした。それにギリシャ神話の愛と美の女神もアフロディーテですよね」


「理論や理屈は俺にもわからねえが、とにかくアフロディーテは、金星のリズムに従って、規則的、かつ周期的に俺の夢に現れるってことだけは確かなんだ。ってことは、この不思議な夢の現象も、どっかで金星の動きと深く関わっているに違えねえ」


「まさか、そんな……」


「天体周期が、人間の身体や心に影響を与えるってのは、何も現実離れした話じゃねえ。本来、女の生理周期は、月経という名が示す通り、月の満ち欠けに従ってるし、狼男の話じゃねえが、満月の夜には凶悪犯罪が多いってのもデータが示してる」


「そう言えば、海亀の出産も決まって満月の夜に行なわれるんですよね」


「そうだ。それと同じように、天体周期と俺の夢の意識とが、何かをきっかけに同調しはじめたんじゃねえかと思ってな。そこで、俺は自分に何が起こっているのか、調べてみようと思ったんだ」


 間宮の眼差しは真剣そのもので、とても作り話をしているとは思えなかった。彼自身も理解できない、不思議な状況の中に追い込まれているようだ。


(エフパリノスのトンネルの試練を成し遂げたふたりは、必ずや結ばれる……)

 ペトロスの言葉通り、間宮とアフロディーテは、今も定期的に会っている。死によって世界を分かたれたはずが、夢の中で密会を重ねている。


 徹は急にマヤのことを思い出した。同じ試練を成し遂げた自分たちも、いずれ再会し、結ばれる運命にあるのだろうか。傷だらけになり、涙を流しながらも、口も聞かず、引き返しもせずにトンネルのルールを守り通したマヤ……。それとも、もう二度と出会うこともないのだろうか。徹の胸に、一抹の期待と不安とが同時に押し寄せた。


「とにかく、馬鹿げた話に聞こえるかもしれねえが、俺はこのアフロディーテの夢の謎を解き明かしてみてえと思って、独自に調査をはじめたんだ。それによって、何か新しい天文学的発見があるかもしれねえし、それに、もしかしたら……」

 一旦、そこで言葉を飲み込んでから、間宮は徹をじっと見つめた。


「もしかしたら、何ですか?」


「さっきお前がしてくれた妙な夢の話や、飛び下り自殺をしたその男との関連も見つかるかもしれねえぞ」

 その通り。徹の話の原点は、謎めいた望の死因を突き止めることにあったのだ。そして、マヤにそれを伝えるのだ。今は居場所もわからないが、この追求の先にきっとマヤが待っている、徹はそんな気がしてならなかった。


「明日は、これまで俺が調べたことを聞かせてやっからよ。とにかくアフロディーテは謎に満ちてるぞ」

 間宮の話に興奮を覚えた徹は、冷静にならなければと、必死に自分に言い聞かせた。

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