第三楽章(4)

 隆一に指定された喫茶店には、摩耶子のほうが先に着いた。「待ち合わせの人が来てからにします」と、注文をとりにきたウェイトレスに伝えると、彼女は無造作に水の入ったコップを置いて去っていった。

 摩耶子の席の正面の壁には、クリムトの描いた『パラス・アテナ』がかかっていた。

 ウィーン分離派の代表的画家として知られているグスタフ・クリムトは、革新的な芸術活動を見守る守護神に、ギリシャ神話の女神パラス・アテナを据えた。絵画の中のパラス・アテナは、左手に長い金の矢を、右手には天球を持っていた。その天球の上には、『裸の真実』を表現するヌーダ・ヴェリタスが両手を広げて立っている。

 ほどなく外の喧噪と熱気に押されるようにして、初老の男が店に入ってきた。首筋を伝った汗が、シャツの襟にじっとりと沁みている。山下隆一だった。やつれて見えるのは、33度を越す酷暑のせいか、それともひとり息子を失った痛手から立ち直れないでいるからなのか。


「今日は忙しいところを、わざわざ出てきてもらって申し訳ない」

 丁重な言葉に戸惑う摩耶子。やはり葬儀のときの印象とは明らかに違う。


「いえ、こちらこそ、ご連絡が遅れてしまって……」と首を振りながら、呼び出された真意を推察する。先ほどのウェイトレスが注文をとりにきて、ふたりはコーヒーを頼んだ。


「実はどうしても摩耶子さんに伝えておきたいことがあったもんで……」


「はあ……」


「これまで私は摩耶子さんにつらくあたってしまったが、望の自殺の原因はどうやら別にあったようなんだ」 


(別の原因……?)


「今日はそれをお伝えしたくて呼び出してしまった……」

 摩耶子には、隆一の言葉の意味が理解できなかった。


「どういうことなんですか?」


「息子は……、望は私を恨んでいたんだ」


「お父さんを?」


「望の日記がでてきたんだ」


「日記が?」と言いかけたときに、ちょうどコーヒーが運ばれてきた。摩耶子はテーブルに乗り出し気味になった身体を急いで引っこめた。隆一は、ウェイトレスが立ち去るのを待ってから話を再開した。


「その日記には、私への恨みが長年に渡って綴られていた。自分の思うままに生きられない人生、他人を喜ばすためだけの人生なら死んだほうがましだ、と書かれていた。そして、その他人とは……、他でもない、私のことだったんだ」


「まさか……」


「いや、望のいう通りかもしれない。私は生まれたときから望に期待をかけていた。その気持ちは、もはや期待などという言葉では言い尽くせないほどのものだった。私はひとりの人間の人生を、自分の思い通りにしようとしていた。そして、その愚かさにまったく気付かなかったんだ。気付くどころか、そうすることが義務だとさえ思い込んでいた」


 隆一の告白は衝撃的だった。望の自殺の原因は自分にあるとばかり思っていた。それが長年に渡る父へのコンプレックスにあったとは……。


(もし望の死の本当の原因が自分にはなかったとしたら、今までの苦悩は何だったの? そして、もし……、もしそれを旅の前に知らされていたら、トオルとの関係も違うものになっていたかもしれない……)


「私は望を作曲家に育て上げようとした。私自身が達成できなかった、いや、挫折した夢を息子に託したのだ。それで幼い頃から望にピアノを習わせた。望はその重圧に耐えきれなかったんだ。いや、望は充分に応えてくれた。私が望んだ以上に生きてくれた。しかし、どんなに望が努力をしても、私が満足することはなかっただろう。望が死んではじめて、私はそれに気付いた。すべてが私の愚かな幻想だったんだ」

 一気にそう言うと、隆一はコップの水に手を伸ばした。そして一口含んでから添えた。


「望は……、望は私が殺したも同然だ」


「そんなことはないわ、お父さんのせいじゃない。私の知ってる望さんは、そんなことぐらいで死んじゃうような人じゃないわ」

 その言葉は、摩耶子の直感から発せられた。


「そう言ってくれるのは嬉しいが、他に原因があるとは思えない。はっきり言って、この先、君に責任を転嫁して、君を恨んで生きていくほうが楽なのかもしれない。しかし、事実を知ってしまった以上、そうはできない。望もそれを望んではいまい」

 隆一は唇をきゅっと噛み締めた。


「きっと、きっと望さんを死に追い込んだのは……モーツァルトよ」


「モーツァルト……?」

 隆一は、はっとして摩耶子を見つめる。なぜそんなことを口走ったのだろう、摩耶子は自分でも不思議だった。そういえば、ギリシャでトオルがこれと同じことを言って、自分を慰めてくれたっけ。


「そうかもしれない。神童モーツァルトは、5歳にしてピアノ曲を、7歳でソナタ、8歳でシンフォニー、そして11歳にしてオペラやコンチェルトを書いたと言われている。きっと望はモーツァルトと自分の能力の差に悩んでいたんだ」

 隆一はあっさりと納得したように答えた。


「摩耶子さんは、息子の耳を見たことがありますか?」


「えっ、耳……ですか?」


「そう、望の耳は生まれつき曲がっていた。それはいみじくもモーツァルトの特徴でもあった。モーツァルトは、けっして自分の耳を他人に見せたがらなかったそうだ。だが、彼の聴力は逆にとても優れていた。それはあらゆる音を聴き分ける能力を持った、つまり絶対音感を持った特別な耳だった」

 摩耶子の脳裏に、いつかの光景、スタジオで望が髪をかきあげるあの仕草がまざまざと蘇ってきた。


「私がモーツァルトと望を重ね合わせていたのは事実だった。かなわなかった自分の夢を託して、望と名付けたのだ。モーツァルトの父親、レオポルトの話は摩耶子さんも聞いたことがあると思うが、私はまさしくレオポルトになったつもりで、息子に厳しく接した。そして、息子に先立たれた今になって、レオポルトの気持ちが痛いほどわかる」

 込み上げてくる感情を必死にこらえているのか、隆一は肩を小刻みに震わせた。


「いずれにしても死んだ人間は戻ってはこない。摩耶子さんを恨んでいた自分が恥ずかしい。これまでの私の態度について、何と思われようと構わない。本当に申し訳なかった」

 父はテーブルに両手をついて頭を下げた。手付かずのコーヒーが、カップの中で驚いたように波紋を立てた。


「そっ、そんな……、望さんが亡くなってつらいのは、私も同じなんです」

 それは本音だった。恋愛感情とは明らかに別物だが、摩耶子の音楽人生において、望から受けた影響はけっして少なくなかった。今の自分があるのも望のお陰だった。


「摩耶子さん、ひとつ頼みがあるんだが……」真剣な隆一の視線に、摩耶子は思わず「なんでしょうか?」と姿勢を正す。


「実は幼い頃、息子に初めて見せてやったオーケストラが、奇しくもあの晩と同じモーツァルトの41番だった」言いながら、父は革のカバンからコンサートのチケットを取り出した。

「これで息子の一件には、私の心の中で一区切りをつけたいんだ。是非一緒にいってくれませんか」

 嘆願する初老の男に、哀れみすら覚えた摩耶子は、小さく、だがしっかりとうなずいた。

 隆一の告白を聞いたせいか、摩耶子の心の中にわだかまっていた望への後ろめたさが少しだけ遠のいた。それと入れ替わりに、解放されたトオルへの思いが膨らみはじめていた。

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