第三楽章(1)Affrettando Desiderio〜だんだん速く、切望して

Affrettando Desiderio〜だんだん速く、切望して


【モーツァルトの音楽の本質は、あらゆる音楽を『瞬間の連続』ととらえていることである。モーツァルトの音楽は、すべての瞬間において更新され、新たな生命を獲得し続ける(キルケゴール / 哲学者)】



 摩耶子が目の前から姿を消してからというもの、徹の心は喪失感に支配されていた。瞼が異様に重たく、見るものすべてに光彩を奪う薄暗い幕がかかったように感じられる。考えてみれば、失う以前にまだ何も得てはいないのだが、わずか数日間で一気に膨張した胸の高鳴りは、とても収まりそうになかった。


 世話になったペトロスに丁重に別れを告げ、徹はアテネへと戻った。明日の便で帰国する。その最後の一日を、アテネの町をぶらついて過ごすことにした。

 雑踏を避け、入り込んだ路地からふと見上げると、切り立った岩山があり、その頂上には荘厳な総大理石造りの神殿がそびえ立っていた。


 パルテノン神殿-------------------------------


 紀元前四三八年に建てられたアクロポリスの丘に建つ、この神殿を中心にして、アテネの町は放射状に通りが走っている。存在感のある太古の神殿はアテネの、いやギリシャのシンボルともいえた。それは、単に視覚的な効果を上げているだけでなく、観光客にとっては、迷路のような路地を歩く際の格好の目印ともなる。強い日差しを避けるように、道を選びながら、徹の足は自然に神殿へと引きつけられていった。

 徹は神殿へと続く石段をのぼっていった。あたりにはオリーブの木が生い茂っている。そのうっすらと白みがかった葉を、乾いた風が揺らしている。

 入場料を払うと、何本もの溝が刻まれたドーリス式の石の門をくぐり、徹は神殿へと向かった。一歩、また一歩と進むごとに、神殿は威風堂々としたその姿を徹の前にあらわにしていった。

 神殿の正面にたどりついた。青い空を突き抜けてそそり立つ神殿を見上げる。


(こっ、これは!)


 神殿の全貌がさらけ出された瞬間、徹の全身を得体のしれない戦慄が駆け抜けた。当時の威厳を今も保持した四六本の主柱は、徹を完全に圧倒した。徹は声もなく、しばしその場に釘付けとなった。

 神殿の周囲には、石柱の残骸が無造作に積み上げらている。そのうちのひとつに徹は腰をおろした。残骸には、だれが彫り込んだのか、数千年前の文字が刻み込まれている。


(いったい、だれが、何の目的で、何と書いたのだろう?)


 文字を指でなぞりながら、栄華を極めた日々に思いを馳せる。そんなことには一向にお構いなしに、足元では野良猫たちがじゃれあっている。


「マヤ……」


 つい二日前まで、この猫のようにふたりは仲よくじゃれあっていた。それが今では離ればなれで居場所すらわからない。会えないと思うと、余計に思いは募る。切なさは深まる。

 徹は後悔していた。根っからの漁師だなどと偽ったこと、自分のことは棚にあげてマヤをののしったこと、その場の気分に任せて迫ったこと……。でも、すべてがもう手遅れだった。


 遺跡には、ソクラテスが悩みを綴ったという石壁があった。今も昔も人間は生きている限り、悩みから解放されることはない。たとえ、どんなに科学が進歩しようとも、それだけは消しようがないだろう。それにしても、ソクラテスの悩みっていったい何だったんだろう。哲学的な苦悩だろうか、それとも恋の悩みだろうか。この世に男女が存在している以上、それは永遠の悩みだ。何千年たっても、人間なんてそうは変わるものではない。そう思うと、いくぶんか気が楽になる。


 しばらくすると、徹のすぐ近くに日本からの団体がやってきた。20人程の一行に向けて説明するガイドの声が、風に乗って聞こえてきた。徹はその声を聞くともなしに聞いた。


「みなさま、あちらをご覧下さい。パルテノン神殿を背にして、すぐ下に見えますのがディオニソス劇場、そして、はるか彼方に見えますのがゼウス神殿でございます。聞き慣れない名前も多いかと思いますが、みなギリシャ神話の神々の名前でございます。古代ギリシャは、いわば神々の棲家となっておりました。ディオニソスは酒の神、ゼウスは全能の神、他にも戦の神のアレス、愛と美の女神のアフロディーテなどがいます。

 ゼウス神殿のちょうど真裏に見えていますのが、有名なオリンピック競技場でございます。四年に一度のオリンピック競技は、みなさまにもお馴染みのことと思いますが、そもそもオリンピック競技は、アテナという女神を祝福するために行われました。そして、このパルテノン神殿も、元々は女神アテナを祀るために建てられたと言われています。アテナは、この街、アテネの語源にもなっていますが、智恵やインスピレーションを与える神としても知られています」


 ガイドの説明は立て板に水だった。おそらく毎日こうして入れ替わり立ち替わりやってくる観光客に話して聞かせているのだろう。


(それにしても、アテナって、いったい何者なんだ? ゼウスやアフロディーテを差し置いて、この街の中心的存在となっているいるのはなぜなんだ?)


 神殿の隅に残るエレクティオンの女神像をぼんやりと視界にとらえながら、徹は女神アテナに思いを馳せた。

 岩山の頂上ということもあってか、神殿前の日溜まりには、心地好い風が吹いていた。徹は風に吹かれるままに、傍らの大理石に寄り掛かって時を過ごした。だが、目を閉じると、頭の中を駆け巡るのは、やはりマヤへの思いだった。

 どれくらい時間がたったのだろう、周囲を見回すと、あれほど溢れ返っていた人の群がすっかり消えていた。空はまだ明るいが、時間はもう夕刻といっていい。清掃係がゴミ拾いをはじめているのは、閉門時間が近付いているからだろう。

 徹は立ち上がると、ゆっくりと出口の方角へと向かった。遥か向こうの木々の間からは、ゼウス神殿の巨大な柱が見え隠れしている。そこにギリシャ神話の主神、ゼウスは静かに眠っている。海に沈む夕陽が、真横から徹に照りつける。夕陽が作り出す細長い影が、徹の歩みに併せて神殿の柱をひとつひとつ丁寧に撫でていく。やがてその一部が海に沈むと、引き換えに夕焼け雲がより鮮明に輝きだす。まるで、去り行く今日という一日の未練を雲に託すかのように……。


 日没……。

 おそらく何千年と変わらぬ自然現象、それを生み出しているのは、過去から現在まで燃え続けている太陽という恒星であり、また、そのまわりを休むことなく回り続けている地球という惑星である。そして今、それらと何ら劣らぬ、対等の存在として自分がいる。ただそれだけのことなのに、徹はその事実に純粋な感動を覚えた。

 当時の人々も、同じような感慨をもって、ここから夕陽を眺めていたのだろうか。今、太陽と神殿の間に位置している自分が、一瞬、時を越えて太古から現在に至るまでの人々の意識、また、これから生まれくる未来の人々の意識と交錯するような妙な感覚に陥った。それは過去から未来へと続くすべての時を越えて、時間が一点に凝縮したような不思議な感覚だった。


 丘を下りた徹は、夕暮れの雑踏へと足を踏み入れた。ギリシャ人が夜の町に繰り出してくる前の、本格的な混雑がはじまる前の時間帯だ。プラカというその地区は、昔ながらの佇まいを今も保っている。家の壁や屋根、装飾品など、目に映るもののあちこちに、何百年という時間の重みが染み付いている。狭い通りには土産物屋が軒を列ねていて、赤茶けて反り返った絵葉書や埃をかぶった海綿が、通りにまで迫り出している。氷の上に魚を並べたレストランでは、徹の姿を見つけると、ウェイターが強引な手招きで呼び込みをする。

 迷路のように不規則に曲がりくねった通りを、足の向くまま、気の向くままにさまよっていると、一際、賑やかな広場に出た。中央には花壇に囲まれたかわいらしい噴水がある。

 徹は石畳にせり出したタベルナのテーブル席に着いた。隣席の白人客を真似て、羊肉の串焼きとビールを注文した。

 ふと見上げると、アテナの女神を祀ったパルテノン神殿の真上には、月がこうこうと輝いていた。二日前、この月を一緒に眺めたマヤ、彼女はいったい今、どこの空の下にいるのだろう。思い出すと、胸にきゅんと痛みが走る。

 もしアテナが智恵の女神だというなら、この切ない思いにどう対処したらいいのか、ぜひとも教えて欲しいと徹は願った。だが、ライトアップされたパルテノン神殿は、そんな徹をあざ笑うかのように周囲を見下ろしていた。

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