第三楽章(2)

 ----------少女は閉じこめられていた。

 そこは一筋の光も届かない、とても寒い牢獄のような部屋だった。いったい、いつからここにいるのだろう。昨日や今日の話ではない。とにかくとても長い間……。

 突然、重たい鉄のドアが開いた。「こっちへおいで、ぼくが助けてあげる……」と、優しい男の声がする。ゆっくりと起き上がった少女は、おそるおそる差し伸べられた手をとった。

 どこをどう歩いたのか、導かれるままに、やっとのことで暗闇を抜け出すと、そこには草原が広がっていた。男がひゅーっと口笛を吹くと、まぶしい光の中から一頭の馬が現れた。


「さあ、これに乗って」

 促されるままに馬にまたがって、ふたりは一目散に走った。


「いったいどこへ行くの?」


 途中、あまりの勢いに飛ばされそうになる。落ちないように、少女はしっかりと男の身体にしがみ付く。


「大丈夫、もうここまでくれば……」男が言う。


「ありがとう、私を助け出してくれて。でもあなたはいったいだれ?」安堵と不安が入り交じる。馬は一向に速度を落とそうとはしなかった。


「恐いわ、もう下ろして!」


「ほら、もうすぐそこさ、そこまでいけばもう怖いものなんか何もない。勇気を出して」

 男の肩ごしに前方を見ると、先は切り立った崖になっていた。


「まさか、ここから飛び降りるつもり?」


「大丈夫、ぼくを信じて」


「あなたはだれ? だれなの? 本当に私を助けてくれるの? 私が閉じこめられていた狭い殻から解放してくれるの?」

 馬は大地に最後の力強い一蹴を入れた。馬の肩のあたりから、急にむくむくと羽が生えたかと思うと、身体がふわりと宙に浮いた。


「いや、恐いわ」


「心配しないで、しっかりつかまって」


「だめ、私にはまだ準備ができてないの。帰して、元の暗闇に私を戻して」


「そんな……、君を助け出すために、ぼくはどれだけ努力をしたことか……」

 少女の言葉を聞いた男の失意が背中から伝わってくる。


「ごめんなさい……」

 みるみる羽が消えると、馬は急速に落下していった。もう男からの言葉は何もなかった。足下には暗闇がぽっかりと口を開けて待ちかまえている。少女は男と馬もろとも、暗闇に飲み込まれていった。いつしか何も見えなくなった。


 ドスンという衝撃を身体に感じた摩耶子は、はっと目を覚ました。

 すぐ横の小さい窓に目をやると、コンクリートの地面が猛スピードで後方へと流れてくのが見える。赤や青の誘導灯が点滅している。その向こうには、背の低い木々が広がる見慣れた風景。どうやら摩耶子を乗せた飛行機は、無事に成田空港に到着したようだ。急な気圧の変化せいか、耳の奥が少し痛い。


(夢か……)


 摩耶子は夢を見ていたのだ。ちょうど飛行機の着陸に同調するように、夢は終わった。

 それにしても妙な夢だった。


(あの男の声はだれのものだろう? どこかで聞いたことがあるような……。望さん? そうだわ、望さんの声だわ。そういえば、この間もこれと似たような夢を見たような気がする…)

 やはり心のどこかに、望さんに対する罪の意識がしっかりと根を張っているのだ。


 帰国日を決めずに発ったものの、結局は七日間ほどの旅、ほんの束の間の現実逃避でしかなかった。李沙子の言う通り、確かに新しい思い出はできたのだろう。つらいことを被い隠すための思い出が……。望さんの一件は、これで多少なりとも、心の隅に押しやられたのかもしれない。ただ、それに替わって異種の思いが、摩耶子の心の中に沸々と湧き出していた。


 運命を左右するほどの重要な人との出会いは、深い悲しみに打ひしがれているときや、不安定な精神状態のときにやってくる。むしろそういう状況のときにこそ、魂の奥底で切望していた強烈な出会いが起こるのだ。


(トオル……)


 運命的な出会いだった。名前しか知らないひとりの男が、強烈な印象として摩耶子の心に焼きつけられていた。しかし、同時にもう二度と会えないこともわかっていた。いや、正確に言うと、摩耶子は愚かにもその再会の機会を逃してしまったのだ。いくら神様でも、三度もチャンスを与えてくれるほど寛容ではあるまい。

 あの夜は、タイミングが悪かった。でも、結局は臆病者の私がいけないのだ。昔とちっとも変わっていない。そう、きっと変わりようなんてないのだ。


 抱えた荷物と同じくらいに重たい気持ちを引きずって、摩耶子はようやくアパートにたどり着いた。

 玄関のドアを開けると、足下にポストから落ちた郵便物が溜まっていた。手に取ってみると、そのほとんどは興味のないダイレクト・メールだ。宛名は「真椰子」だったり「真也子」だったり、様々な文字の組み合わせになっている。名前を書き違えることほど失礼なこともないと思うのだが、自分でもとうに気にならなくなっている。もしかしたら、この部屋には「真椰子」や「真也子」という別の人格が棲んでいるのかもしれない。摩耶子の気付かない、この部屋のどこか別の次元に彼女たちの生活が存在していて、摩耶子よりもずっと充実した時間を過ごしているかもしれない。そう思うと背筋がぞっとする。さらにパラパラとめくっていくと、見慣れない手書きの封書が混じっていた。


「だれかしら……?」


 摩耶子はすぐに封筒を裏返す。


 山下隆一……。


 差出人は望の父親だった。消印の日付が、摩耶子の旅立ちとほぼ入れ違えに届いたことを示している。摩耶子は急いで封を切った。

 手紙には達筆な文字で、季節の挨拶が綴られたあと、「是非一度、会ってお話ししたいことがある……」と書かれていた。いくぶん丁重な文面から、摩耶子は忘れかけていた、いや、忘れようとしていた現実にいきなり引き戻された。


(今さら会って何を話したいというの?)


 望の死は、摩耶子にとってもつらい思い出だ。摩耶子はせっかく乾きかけたかさぶたを、また剥されそうな不安を抱いた。だが、同時に行間からは、最後に会ったときの印象とは違う何かが伝わってきた。

 気を取り直した摩耶子は、便箋の最後に書き添えられた番号を見ながらダイヤルを回した。

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