第二楽章(11)

 明け方、空がうっすらと白みはじめた頃、摩耶子は荷物をまとめてそっと家を出た。

 一睡もせずに考えた。不義理な女とトオルには思われるだろう。でも、朝になって、どんな顔をして会ったらいいのかを考えると、とてもいたたまれなかった。過去から抜けだせずにいるこんな弱い自分を、もうこれ以上、トオルの前にさらしたくなかった。


(ごめんなさい。あなたのことは忘れない)と、テーブルの上にそっと摩耶子は置き手紙を残した。


 できるものなら、もう一度、時間を巻き戻したい。そしてトオルと出会い直したい。そしたら、素直に微笑み返せるのに、素直に受け入れられるのに……。

 三日前の午後、三人で歩いた坂道を、今こうしてひとりで下っている。あの日、自分の大胆な決断に胸を踊らせて上った坂道を、今はうつむいて下っている。


 アルテミスという名のアテネ行きの船に乗り込むと、摩耶子は甲板に出た。エーゲ海を渡って吹く朝の風は、ひんやりと頬に冷たく、思わず目を細める。


(摩耶子、何やってるの? 本当にこれでいいの? 逃げ出すなんて、またいつもの自分に逆戻りじゃない?)

 そんなわずかな心の葛藤を断ち切るかのように、船は静かに出航した。


 7月7日、今年もまた曇り。運を天に任せるなんて、子供じみた判断だった。だが、摩耶子は徹の素性を知った。今にして思えば、船の上で出会ったとき、遠い記憶が探ろうとしていたのはあのときの声だったのだ。


(でも、どうしてトオルは漁師だなんて嘘をついたんだろう? それに、昨夜なぜ急に雲が出てきたの? どうして月を隠しちゃったの? 雲がいけないのよ。雲のばか、お月さまのばか……。私の……ばか!)


 いつのまにか、摩耶子の目からは涙が溢れていた。すぐ脇を怪訝な顔でギリシャ人乗客が通り過ぎていく。だが、涙で霞んだ島影も、やがてすっかりと視界から消えた。



  夜明け前に舟を出す

  沖へ出るころ、明けの明星の光も薄くなり 

  空は青く澄み、朝を迎える

  黄金色に包まれた朝、栄光にいろどられた朝だ

  川はかぐわしく、かすかな風が花の香りを運んでくる

  水の音は恋人のささやきのよう、何もかもがやさしい

  何も心配することはない

  水の上にいて天の上にいる


 甲板にはブズキが静かに流れていた。意味はわからないが、摩耶子の気持ちを大きく包み込むような優しげなメロディーだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る