第二楽章(10)

 トンネルからの帰り道、「あれが島一番のレストランなんだ」と、丘の上を指差してペトロスが説明をした。「家からも歩いていけるし、特に夜になると、海に迫り出したテラスからの眺めはとてもロマンチックなんだ」と。そして、ペトロスはさりげない視線を徹に送った。男同士にのみ通じる、その視線の意味を察して徹は小さくうなずいた。


 その夜、徹の誘いを摩耶子は素直に受け入れた。散々迷って、スーツケースに一枚だけ詰め込んできた赤いドレスが役に立った。

 レストランに続く海辺の小径には、ゼラニウムの花が咲き乱れていた。その花びらの真紅とドレスの赤が混じり合って徹を煽る。

 海を一望に見渡せるテラスの席につくと、気のいいウエイターがメニューを見せにきた。だが、ギリシャ語で書かれているので読めない。徹は立ち上がって厨房に入り込むと、大皿からいくつかの前菜を選んだ。

 ブドウの葉に米を包んで蒸したドルマデス、ガーリックの利いたヨーグルトのディップ、タラモサラダなど、どれも珍しい料理ばかりだった。


「おととい出会ったばかりで、まだお互いのこと何も知らないのに、なんだか不思議だね……」

 摩耶子のグラスに白ワインを注ぎながら、徹が言う。


「ほんと、今夜、ここでこうしてるなんて、二日前の私からはまったく想像もできなかったわ」アテネのむさ苦しいホテルが摩耶子の頭に浮かぶ。


「じゃ、乾杯!」


「乾杯!」


 二つのグラスはカチンと小気味よく鳴った。


 初めて経験するギリシャの味覚はどれもおいしかった。摩耶子も積極的にトライした。中でも山羊のチーズの入ったグリーク・サラダが気に入ったようだ。

 潮風に吹かれたゆったりと魅惑的な時間が流れた。


「あれっ、そういえば今日は7月7日だったんだね」


「えっ?」

 壁にかかっていたカレンダーを見るともなしに見た徹が言った。


「7月7日、七夕さまの日だよ」


「そっ、そうね、すっかり忘れてたわ」

 旅に出ると、日付と曜日の感覚が失われることはよくあるものだ。摩耶子は慌ててつくろったが、今日が自分の誕生日だとは言い出せなかった。


 徹との時間は違和感なく、楽しいままに過ぎていく。今夜はこの先、どういうことになるのだろう。こんなときに李沙子がそばにいてくれたら……。でも彼女がいたらきっとこう言われるだろう。頭で考えちゃだめ、自然に湧き出る感情に任せなさいって。言われることはわかっている。じゃ何のために相談するの?

 しばし悩んだ末、摩耶子はその日の自分の運命を天に委ねることにした。そう、七夕生まれの摩耶子は、自分を織姫になぞらえて、文字通り「天」に……。


 食事を終え、家までの道すがら、徹は握っていた摩耶子の手に力を込めた。夜の闇の中に赤黒く沈んだゼラニウムの花びらが、徹をけしかける。途中、海辺のベンチにふたりは腰を下ろした。エーゲ海の波音が、足下で静かにささやいている。時折、風に乗ってレストランからブズキの調べが流れてくる。満天の星空が、静かな波間に反射して、夜行虫のようにきらめいている。今まで摩耶子は、こんなにたくさんの星を見たことがなかった。見渡す限りの空間は、今ふたりのためだけにあった。


「水、冷たいのかしら?」摩耶子はハイヒールを脱ぐと、いきなり砂浜に進み、海水に足を浸した。


「きゃっ、冷たいわ!」思わず上げた摩耶子の奇声がおかしくて、徹は笑った。そして、自分も靴を脱ぐと、彼女のあとを追った。


「ね、冷たいでしょ?」


「本当だ、凍りつきそうだ」

 エーゲ海の水は、予想外に冷たかった。だが、火照った気持ちを落ち着かせるには、このくらいの冷たさがちょうどよかった。ふたりは海辺のベンチに再び腰を下ろした。摩耶子のくるぶしに付着した白い砂が、月光になまめかしく光る。


「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」


「何?」


「トオルの夢って何?」


「夢?」


「そう、夢……」

 うーんと唸って口を結ぶ徹。


「笑わないで聞いてね。私の夢はね、歌手になることなの」

 徹は、ちょっと驚いたような顔で「へぇー」と言った。


「歌手っていっても、お金儲けがしたいんじゃなくって、私の歌で、人を幸せな気持ちにしてあげられたらって思うんだ」


「素晴らしい夢だと思うよ。で、実現しそう?」


「うーん、頑張ってはいるけど、なかなか難しいわ。それより、トオルの夢は?」


「俺の夢かぁ……、なんだろうなぁ」

 ここのところ、夢についてなど、考えたこともなかった。日々の生活に追われて、それをこなすのが精一杯だった。でも、かつては自分にも夢があった。

 憧れの都会で暮らすこと、それが徹の夢だった。だが、それもかなってしまうと、別にどうということもない。今は次の夢がまだ見つからずにいる。


(良次は? あいつの夢はなんだったんだろう?)


「俺は親父みたいな漁師になるんだ」と幼い頃に言っていたのを思い出した。そして、あいつはしっかりとそれを実現させていた。親父と一緒に、来る日も来る日も漁に出て暮していた。だれもが良次を島一番の漁師だと認めるだろう。それなのに、自分はどうだろう? 都会暮しが夢だなんて、ただ田舎者が街に憧れていただけじゃないか。それに、そんなちっぽけな夢がかなったのも、良次がいてくれたからだ。良次の存在が徹のちっぽけな夢を支えていたのだ。


「ねえ、トオルの夢は何なの? 聞かせて」と、待ち切れない様子で、摩耶子は徹の顔を覗き込む。

 このとき、徹は島に帰る決心をした。あいつが俺を自慢してくれたのなら、今度は俺があいつを自慢する番だ。島に戻って、あいつに負けないような漁師になってやろう。そして、若くして死んじまったお前の夢を俺が引き継いでやろう。


「俺の夢は、……もうかなっている」


「どういうこと?」


「漁師になること、それが俺の子供の頃からの夢だった」


「へえー、そうなんだぁ」と、摩耶子は羨ましげな視線で徹を見つめる。


「これからは地元で一番の漁師を目指すんだ!」


「頑張ってね! トオルなら絶対になれるよ。うん、絶対に大丈夫。私も頑張るぞぉー!」

 摩耶子は自分事のように嬉しそうに言った。夢を抱いて、それを達成している人がいるということが、摩耶子にはとても嬉しかった。


「ねえ、あのぼんやりした白い筋は、もしかして……」夜空を見上げ、摩耶子が指差す。


「天の川だよ」


「まさにミルキーウェイね」


「東京じゃ、絶対に見られない」


「あの両側に織姫と彦星がいるのね」


「そう、教えてあげる。あの星が織姫で、あっちが彦星だよ」と、一生懸命に指し示す徹に、「どこどこ?」と摩耶子が身体を寄せる。


「あの織姫が、月の船に乗って彦星に会いにいくんだ。旧暦の7月7日は、月がちょうど半分になって、船みたいなかたちに見えるんだ」


「へえ、詳しいのね」


「えっ? うん、子供の頃に親父がよく話してくれたから」

 ふうんと摩耶子は感心したようにうなずいた。


「あら、なんだか急に暗くなってきたわ」

 西の空からいつのまにか雲が湧き出していた。


「本当だ。年に一度のせっかくのチャンスだってのに、これじゃ今年もまたふたりの出会いはおあずけかな……」


 このとき、摩耶子自身も気付かない意識の内側から、得体のしれない不安が膨れ上がってきた。


「でも、本当は日帰りなんてできるわけがないんだ。だって二つの星は16光年も離れてるんだから……」


(えっ、何? 今なんて言ったの?)


 徹の言葉に眠っていた摩耶子の記憶が揺さぶられた。


(日帰りなんてできない……、16光年も離れている……)


 この言い回しを、摩耶子は過去にも聞いたことがあった。急ピッチで記憶のファイルを検索する。あれはいつのことだったろう? ええと、ええと……。そうだ、確か去年、30歳の誕生日の晩に、渋谷のプラネタリウムで聞いた話だ。でも、それってどういうこと? そういえば、この声にもどこかで聞き覚えがあるような……。もしかして、もしかして、あのときの彼が……、まさか、トオル……?


 摩耶子の動揺などまるで気にも留めず、徹は追い打ちをかけるように言葉を加えた。


「天文学的には、二つの星は16光年も離れてるんだ。だから、もし仮に今20歳の織り姫が、彦星に会いに行ったとしても、戻ってくるころには52歳になっちゃうってことさ」

 摩耶子の記憶に残る台詞が、周囲に漂っていたロマンチックな空気を一掃した。高まりかけた胸の鼓動がシュンとしぼんだ。


(あのときの声の主はトオルだったんだ!)


 記憶の奥底に沈んでいた声と徹の声とが、このときようやく一致した。なんという偶然、運命のいたずらだろうか……。30歳の誕生日に嫌悪感を覚えたそのひとこと、それがために摩耶子は、あの夜、あの場から逃げ出したのだ。


(でも、この人、たった今都会には出たこともないって言ったわ。ずっと漁師をしているって。どうして嘘をついたの? なぜ? やっぱり私とはこの場限りにしたいから? そうなのね? 互いの素性を隠して、だれかになりすます。もう二度と会うことのない、遊びの相手だから、適当な自分を演じているのね?)

 そのとき、月がすっぽりと雲の陰に入り、辺りがさらに暗くなった。


 徹は握っていた摩耶子の手を引き寄せた。摩耶子の心の変化に気付かぬまま、顔を近付ける。


「マヤ……」


 反射的にうつむく摩耶子。引き寄せる徹の腕に力がこもる。さらに摩耶子はうつむく。しばし妙な間が空いたあと、「ごめんなさい……」と言って、そっと視線をあげると、徹は呆気に取られた顔をしていた。十分に確認済みだったはずの心の裏切りに対処できない様子で、視線が定まらずにキョロキョロと宙をさまよっている。


「どうして?」


「ごめんなさい……」


「そうか、やっぱり彼のことがまだ忘れられないんだ」


「そ、そんなこと……」

(彼って、望さんのこと? 好きだったことなんかないわ。でも、今トオルを拒んだのが、望さんのことが理由じゃないとしたら、何ていったらいいの? なぜもう一時間、いえ、もう十分早くこうしてくれなかったの? そうしたらきっと違う展開になっていたはずなのに、素直にトオルを受け入れられたかもしれないのに……)


「もう過去のことじゃないか」

 気まずい空気はますます濃くなっていく。ほんの些細なことから、ふたりの歯車はどんどんずれていく。

(俺だって、自分の欲求を満たしたかっただけなんじゃないのか? その場の開放的な雰囲気に飲まれているだけなんじゃ? マヤへ特別な感情を抱くようになってから、まだそれほどたっていない。第一、まだ会ってからたったの三日じゃないか。じゃどれだけたてばいいというのだろう? 過ごした時間の長さと恋愛感情には比例関係などないはずだ。それとも、あと三日もすれば、この思いも冷めてしまうというのか?)

 ふたりの間に沈黙が続いた。それが次々に新たな誤解を招いていく。


(さっき、あのとき、素直に身を任せてしまえば、どんなに楽だったかしれない。楽ですって? 楽をするために身を任せるなんて……。不謹慎。なぜ望さんの面影が邪魔するの? それとも自分のいくじのなさを望さんのせいにしているだけ?)


「もう忘れろって」


 むっとした徹は、すぐにひどい言い方だったと心の中で後悔する。


「やっぱり無理……、望さんを忘れるなんて……」

 ちょうど望のことを考えていた矢先に聞かれたので、摩耶子は反射的に否定してしまった。だが、好きな人としてではなく、先輩として、恩人として、またアーティストとしての望を忘れることなどできない。


「そうか、やっぱり……」


(ああ、なんてこと、またしてもトオルに誤解をさせてしまった。でも、それがトオルを拒んだ理由になって納得してくれるなら、それでも構わない……)


「でも、マヤ、いつまでも過去に縛られてたって……。大切なのは、今の自分なんだよ」


「わかってる。でも過去はそう簡単に忘れられるものではないわ」


「そんなことはない、そう思ってるから忘れられないだけだよ」


「別に無理して忘れたいとは思わない。いつか自然に忘れられる日が来るまで、私は待ちたいの……」


「マヤ……」

 ほんのちょっとしたボタンのかけ違いから、誤解が新たな誤解を呼び、ふたりの溝はどんどん深まっていく。

 その夜、ついに雲は晴れなかった。

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