第10話 二人は再び、満員電車の中で

 紅薔薇の令嬢こと、茨木千尋は勤勉である。

 スマホが普及する現代で、千尋はスマホではなく単語帳を片手に歩いていた。

 けれど農作業の合間に勉学に励んでいた江戸時代の偉人、二宮尊徳にのみやそんとくみたく真面目な人間というのは、現代でもそこまで珍しくない存在であって──


「あっ」

「あっ」


 京都市営地下鉄烏丸線、くいな橋駅ホームにて──千尋は英単語帳片手に電車が来るのを待つ侑李と遭遇した。どうやら最寄駅が同じらしい。


「おはようございます」

「おう、早いな。一人か?」

「はい。いつも一人で通ってます。そちらは友達いないんですか?」

「うっ……、なんでそんな聞き方するかなぁ……」

「…………」プイッ。


 ……一旦、沈黙。

 それから──


「てかキミ、最寄り駅一緒だったんだ!?」

「今更ですか?」


 まさかの事実に遅れて驚愕する侑李。対する千尋は侑李に目を向けず、単語帳に釘付け。


(まさか、冠城かぶらぎ先輩とここでも一緒になるだなんて……)


 だが彼女は、侑李の見えないところでざわつく胸の鼓動と戦っていた。

 単語帳を両手でキュッと握り、千尋は動揺を抑える。


「……………………」

「……………………」


 この後、侑李も彼女みたく単語帳を広げ、二人は言葉も視線も交わすことなく黙々と眺める。


 侑李と千尋と駅、すなわち電車といえば……、春休みのあの出来事が連想できるであろう。

 だがこのときの千尋と侑李はそのことを完全に忘れて、読経に励む坊主のように単語の発音をぶつぶつと呟いていた。


 けれどそのかん、千尋は、


(そうだ、あの日のお礼言わなきゃ)


 痴漢から助けてくれた侑李への礼を言おうと考えていた。

 けれど今まではいろいろと気まずく、事故とはいえ──自分の尻を触った相手に礼を言うものでは無いのかもしれないという考えと、お礼を言わなきゃという使命感で葛藤していた。


 けれど今は、何故か分からないが言えずにいた。


「……あのっ」


 言おう言おうと、小声で話しかけようとするが、その度、喉に何かがつっかえて痛む感じがしたから。

 それでも千尋は、なんとか勇気を振り絞って、


「あのっ──」


『電車が近づいて参ります。黄色い線の内側に──』


「おっ、そろそろ来るな」

「そう、ですね……」


 しかしここで電車のアナウンスが、千尋の言葉を遮る。

 二人は同時に単語帳をパタンと閉じた。


(……ダメだ、私)


 そして電車の訪れと同時に、二人は並んで乗車した。


 午前七時三十一分。この時間の車内はそこまで混んでいない。ただ座るスペースが埋まっているのが不便なだけで、十分なスペースが確保できるくらいの余裕はあった。


 とある駅に着くまでは──。



 〇



 絶対王者こと、冠城侑李は通学電車で過度に怯えていた。


(くそっ、またこのパターンだ……)


 九条駅を過ぎてから次の駅に電車が近づくにつれて、侑李の表情がどんどん曇る。

 そして……


『京都、京都です』


(ヤバい、来る!!)


 車窓から数多の通勤通学客を見て、侑李は咄嗟に千尋から距離を置いた。

 そして扉が開き、ダムを決壊させるほど勢い強く流れる川の如く客が車内に流れ込んだ。満員電車の完成である。


 満員電車といえば、ラッキースケベが起こりやすいシチュエーションで──。


(逃げるんだ! もうあのような過ちを起こさないために!!)


 わざとでないとはいえ千尋のお尻を触った前科がある侑李は、千尋から離れてサラリーマン集団に一人で積極的に混ざりに行こうとした。

 彼にとっては加齢臭や汗の臭いなど、もう慣れっこである。


 けれど、そのときだ。


「ん?」


 何かが引っかかったときのように服を引っ張られる感じがした侑李。振り向くと人混みの中、千尋が侑李の服の袖に手を伸ばしているのが見えた。


「茨木?」

「……ここにいてください」


 確信は無いが、なんとなく意図がわかった。

 千尋はきっと、あの時みたく痴漢に遭うことを恐れているのだろう。だから侑李を傍に置いて盾になってもらいたいのだろう。


「わかった」


 そう考え、侑李は千尋の真横に並んだ。そして片手で握り棒を、もう片手で吊り革を持つ。

 これでラッキースケベもとい、アンラッキースケベは起こらないだろう。

 あとは電車さえ強く揺れなければ……。


「きゃっ!!」

「うぉぁ!?」


 侑李と千尋は声を上げてふらつく。

 電車が四条駅を着くと同時に、満員電車は停車の反動で大きく揺れたのだ。

 足をふらつかせて、千尋はバランスを崩し──


(ちょっ、近い近い近いっ!!)


 侑李は人混みに押された反動で自分の胸に飛び込んできた千尋に驚いた。


「……あの、茨木さん? 近くないですか?」

「そんな事言われても、わ、私にどうしろと言うんですか……」


 満員電車で客に挟まれ、身動きが取れない両者。侑李はこれ以上、彼女に触れぬように両手で一つの吊り革をガチリと強く掴んだ。

 ラッキースケベなんかに巻き込まれてたまるか、と。


「どうしろって言われてもなぁ……」


 とりあえず混雑する状況が過ぎるまで耐えるしか無い。

 そうわかっていても、異性との交流が少ない、年頃の思春期野郎にこの状況を耐えろと言うのは無理がある。


 それなのに、だ。


「…………」

「茨木!?」


 何かに目覚めたのか、千尋は更に侑李にもたれかかった。


「おい、近いぞ? 茨木」

「疲れました。もたれかかるので壁になってください」

「えぇ……」


 千尋との距離が近くなり、気持ちが爆発しそうになるのを耐える侑李を一切気にせず千尋はいつも通りを貫く。


(茨木、もしかして?)


 そんな中、侑李は彼女の行動に意図があるのでは無いかと察し、何も言わず彼女に身を委ねさせ続けた。


(耐えろ、僕の理性! 烏丸御池からすまおいけまではあと少しだ!!)



 〇



「……………………」

「……………………」


 学校への最寄りである松ヶ崎まつがさき駅で降車してから、二人はしばらく言葉を交わせないでいた。


(やだなぁ、気まずいなぁ。でも、言わなきゃなぁ……)


 烏丸御池駅にて、急に多くの乗客が降車してからもずっと一言も会話していない二人。

 そのままホームからコンコース、そして出口へと黙々と歩みを進めた。

 ちなみに、もちろん電車の混雑が過ぎてからはすぐ、千尋は侑李から身を引いた。身を寄せる理由が無くなったのだから、このまま続けるのは実に恥ずかしいものだ。


「あっ、あのさ、茨木!!」


 駅を出て数分後、赤信号で足を止めて初めて、侑李は千尋に話しかけた。


「一つ、提案なんだけどさ?」


 人差し指を立て、気恥しそうに言う。


「……これからさ、一緒に通学しないか?」

「…………は?」


 首を傾げることも怪訝な表情を浮かべることもなく、千尋は真顔で返した。


「なんでわざわざ、それを私に頼むんですか?私以外に通学する友達いないんですか?」

「いや、まぁ確かにそんな友達がいないのは事実だけど。てか、それはキミもだろ?」

「いえ、普段は友達と一緒に登校するんですけど?」

「えっ、そうなの?」

「まぁ、最近は早めに学校行って、遅くまで学校に残る機会が増えて、登下校は一人なんですが……」

「やっぱり一人じゃん。──じゃなくて!!」


 脱線した話を戻すべく、侑李は一呼吸置いた。


「……ほら? この前みたいな痴漢がまたあるかもしれないからさ。今日も僕の袖に捕まったのって、痴漢除けのためなのかなって」

「あれは、まぁ、確かにそうとも言いますが……」

「だろ? だからさ……。痴漢除けの役割くらいは担えるかなって」


 顔を真っ赤にし、唇を震わせながらも、侑李はなんとか勇気を振り絞った。


「そっ、それなら……」


 そんな彼の提案を引き受けるも、千尋は更なる提案を持ちかける。


「帰りもお願いしていいですか?」

「あっ……あぁ。わかった」


 まさか帰りも一緒になるとは思いもしなかったので、侑李は少し戸惑った。

 普段の千尋は、侑李の授業が終わってからはすぐに一人で帰るもので。

 どういう風の吹き回しか? それとも朝と同様に、痴漢除けが欲しいだけか? 

 おそらくは後者だろうと、侑李はすぐに納得した。


「そういうことなので、よろしくお願いします」

「あぁ、よろしく」


 時刻は午前八時過ぎで、登校時間から三十分も早いから周辺に生徒はほとんどいない。

 その状況は非常に都合がいい。きっとこの姿を多くの生徒が見ていれば、噂になっていただろう。

 なんせ『紅薔薇の令嬢』という異名がつくほどの有名人が一緒にいるのだから。


 しかも千尋は数多の男子生徒の告白やお誘いをバッサリと断るので有名。

 もし千尋が好きで好きで仕方がない、過激なファンのような存在が侑李との会話を聞いていれば……


「ちひろぉぉぉぉぉ!!!!!」


 きっと侑李は…………


美希みきちゃん!?」

「その男から離れて!!!!」

「えっ? ちょっ、なに? なに!?」


 駅から学校へ続く道のとある横断歩道近くにて、千尋の元へ駆けつけた金髪ポニーテールの少女に突然……


「ちょっと待って美希ちゃ──」

「私の千尋から離れなさい、このケダモノぉぉぉぉ!!!!!」

「ぐほぉぉぉぁぁぁぁ!!??」


 ……腹パンをかまされた。これが侑李の、初めて受けた女の子からの暴力である。

 それがビンタではなく、まさか腹パンだとは思いもしなかったであろう……。

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