第10話
「入るぞ」
もちろん、麒麟は高校へ行っている為、部屋には誰もいない。
昔は勝手に入っていたが、麒麟が中学になってからは、彼女の部屋には入らないようにしている。掃除も、彼女が自分で行っているため、この部屋に入るのは実に五年ぶりだった。
六畳一間。俺の部屋と同じ、南向きだ。
「いいにおい、する」
朱華はスンスンと鼻をならす。
確かに、隣の俺の部屋と違って、こちらは甘い香りがする。だからといって、俺の部屋が臭いとは思わないが。
「制汗剤の香りかな?」
運動部である麒麟は、制汗スプレーを使用している。俺の前では使用したことはないが、思いのほか大きいスプレーの音で、麒麟が使用していることは知っていた。だが、よくよく見ると、勉強机の上に小さな香炉が置いてあり、お香の灰が残っている。
「お香の香りだな」
「おこう……?」
鼻を鳴らしながら、朱華は首を傾げる。
分からないのだろう。それも、仕方がない。
俺は整えられたベッドの上に、朱華を置いた。
「香りを楽しむものだ。昔は、匂いを消すためにも使っていた。あと、神事とかにも使ったりするかな?」
「きりん、くさいのか? しんじって、なんだ?」
「麒麟は、まあ、部活をやってるから汗臭いときもあるけど、普段は良い匂いだと思う。神事っていうのは、神様に関する儀式の事を言うんだ」
探す手を止めた俺は、ベッドの上に座る朱華を見る。
「まあ、神様のお前に言っても仕方ないかも知れないけど」
「わたし、かみさま? それって、すごいのか?」
「凄いと言えば、凄い。いや、俺がどうかしてるな。メチャメチャ凄いよ、神様は! この世には、生まれて一度も神様を見ずに死んでいく人が大半だろうから」
厄介ごとに巻き込まれたと思っていたが、もしかすると、俺は幸運だったのかも知れない。
キリスト教、仏教、イスラム教。世界には無数の宗教が存在し、無数の神様を崇拝している。だが、その中で幾人が本当に神様を見ることができるのだろうか。実際に目にし、会話をする。大半の人は、一方的に信じるだけで、人生を終えているだろう。
「朱華のお母さんは、『玉依姫命』っていうんだけど、凄い神様なんだと思うよ」
調べたところ、玉依姫命は出産などを司る神様のようだ。水と深い関わり合いがあるとされていたが、だから、池に出現したのだろうか。
「おかあさん、わたしに、おかあさんがいるのか?」
朱華はキョトンとしている。
「まあ、いるよ。俺に押しつけて消えちゃったけどな」
「そうか、いなくなったか……」
寂しいのだろうか、朱華がシュンッと頭を垂れる。
「ああー、きっとすぐに会えるよ」
励ますように、俺は明るい口調で言う。
多分、会えるだろう。ずっと、朱華の面倒を見るわけにも行かない。
「そうか。わかった」
ニコリと、朱華は微笑む。愛くるしい笑顔だ。
「…………ないな」
部屋の中央に立った俺は、周りを見渡すが、やはり人形の類いはない。
まだ机の中やタンスの中は調べていないが、流石に、そこを漁るのには抵抗があった。
「もし、コンドームとかあったら、ショックだからな……」
麒麟も高校生だ。
がさつなところはあるが、兄の目から見ても顔の作りはそれほど悪くない。
彼氏の一人や二人、いても可笑しくはないだろう。
しかし、実際にコンドームを目にしたら、俺は激しく動揺する。
避妊をしていて偉い、という見方もあるが、いつの間にか麒麟が、『妹』から『女』へと変化したことに戸惑うだろう。
なにより、童貞の兄よりも、さきに処女を捨てた妹をどこか羨ましく思う。
「秋奈もそうだったな……」
秋奈も、いつの間にか女になっていた。俺の知らないところで、皆が成長している。止まっているのは、俺だけだ。
「はくほう、どうかしたか?」
「なんでもない。麒麟は持っていないみたいだ。あとで、服を買いに行こう」
「うん」
俺は再び朱華を手に乗せると、一階に降りた。
裸のまま置いておくわけにも行かないので、俺は新しい手ぬぐいを切ると、簡易的に管頭衣を作った。
「とりあえず、それを着ていてくれ」
「わかった」
水玉模様の管頭衣を着た朱華は、自分の体を見下ろし、ニカッと歯を見せて笑った。
「ありがとう はくほう」
「ああ」
喜んでくれて良かった。俺は問題が一つ解決したことに、ほっと胸を撫で下ろした。
そして、次ぎに別の問題が浮上してきた。
俺は、ソファーの上に足を投げ出して座る朱華を見た。
テレビが面白いのか、朱華はジッとニュースを聞いていた。
「朱華は何を食べるんだ?」
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