ガールボーイ・ミーツ・ガール

「いたたたたた!!」


 腫れた目元に、水道水が染みる。


 ――さて、結論から言ってしまおう。僕はこっぴどくボコられた。


 いや、最初は説得してやろうと思ったのだ。

 しかし男が僕を見るやいなやナンパしてきたので、その節操のなさにうっかり平手を食らわせてしまったのである。急な反撃に呆けた表情をした男であったが、その顔は直ぐさま怒りに変わり、僕に拳を浴びせた。仲間の攻撃も加わり一方的な殴打である。途中でウィッグが外れ男だとバレてからは威力も二割増しだった。

 興の冷めた男たちが立ち去った後に残ったのは、マスクもウィッグも取れて全身ボロボロになった僕と、何が起こったのか分からず立ったままの萌木さんだけだった。

 やがて状況に追いついた萌木さんが僕に「だっ、大丈夫ですかっ!?」と駆け寄ってきたのを見て、僕はその不甲斐なさとどこかやりきった気持ちに、滅茶苦茶大声で笑ってしまったのだった。萌木さんには気味悪そうに見られたけど、僕が笑いたくてしょうがなかったのだからしょうがない。


 それから萌木さんの肩を借りて移動し、近くにあった公園の水道で傷を洗い流しているのが今ってわけだ。


「あの、大丈夫でしょうか?」


 視界の端から細い腕が伸びてくる。

 肌と同じような、白いハンカチ。


「ありがと……濡らしてもいいかな?」

「ええ」


 萌木さんから差し出されたそれを、僕は濡らして腫れた目元にあてがう。ひんやりとした水気が痛みを和らげた。

 腫れて狭くなった視野で萌木さんの顔を見る、見た感じだと、その顔や首にケガの様子は見られない。


「そこのベンチには座れますか?」

「うん……ありがと」


 足を引きずって歩き、僕はベンチの背にもたれかかる。

 隣には萌木さん。これは中々にドキドキする展開だ。

 まぁ、僕の格好は散々なんだけど。


「あーあ、買ったばかりなのに服汚れちゃった」


 シャツやスカートには土汚れが付いている。ウィッグもあんなにゆるくかわいらしかったのに、今はくしゃくしゃで何がなんだかだ。さらにはメイクも傷を洗い流すうちにほとんど落ちてしまったので、今の僕は半ば落ち武者のような様相だろう。

 でも不思議と、恥ずかしさはなかった。


「ごめんなさい、私なんかを助けなければ杉山さんは……」


 そうそう、朗報として萌木さんは僕――クラスメイトの杉山リオという男――のことをちゃんと認識してくれていたようだった。彼女のルームメイトである遠藤さんと同じ保健委員だからという理由でらしいけど、それでも僕にとっては良いニュースだ。


「萌木さんが気にすることないよ。僕が勝手に突っ込んで、勝手にボコボコにされただけなんだから」

『まったく、修行が足りないなぁ少年は』

「うるせぇ、無傷のくせに」


 煽ってきたゾウに悪態をつく。

 いや、こいつへのダメージは洒落にならないのでいいことなんだけど。でもこいつがピンピンとビンビンしていることに腹を立てるなというのは、いささか無理のある話だ。

 自分の股間に話し掛けた僕に、萌木さんはきょとんとした顔になる。


「ああいや違うんだ萌木さんは関係なくて! 極めて個人的なのだから!」

「そうですか?」

「そうなの!」


 自分の股間のゾウと話していたと言って、一体何人が信じてくれるのだろうか。

 それから少し、二人の間に沈黙が流れる。

 そこにはやっぱり緊張とか気まずさがあったけど、それよりもやりきって曝け出すものを曝け出した開放感の方が強くて、僕は彼女との五十センチの距離に幸福を噛みしめることにしていた。


「その、杉山さん」


 その沈黙を先に破ったのは萌木さんだった。


「なに?」

「その、もし嫌でなければなんですけど、お礼をさせていただけないでしょうか」

「お礼」

「はい。このまま恩を受けたままでは申し訳が立たない気がして……だめ、でしょうか」


 そう言って僕を見つめる彼女の瞳だけで僕には十分のご褒美だったけれど、そんなこと言ったら気持ち悪いにもほどがある。なんかもっと、かたちのあるものを要求したほうがいいのかもしれない。


「そうだなぁ……じゃあまず、今日のことは秘密にしてくれないかな。特に僕のこの格好とか」

「格好……杉山さんが、女性の服を着て歩いていたということですか?」

「まぁ、そうだね」


 好きな子に実際に言葉にされると、思ったよりグサッとくる。


「……一応聞きたいんだけど、萌木さんはどう思う?」

「どう思う、と言いますと?」

「僕の格好。男が女装して街歩いてるのって、やっぱり気持ち悪い?」

「そうですね……」


 萌木さんは僕の全身を眺めた後、その視線を空に向けた。まだ日の高い青空には、散り散りの雲が浮かんでいる。『あ、あそこの雲エネマ○ラみたいだね少年』などというノイズも聞こえた気がするが、それは完全にスルーした。


「私がどう思う、というのは今はまだ。でも、私が目を通した漫画雑誌に、こういう台詞がありましたの」


“女装ってのは、最も男らしい行為なんだよぉ!”


 その言葉が彼女の口から出てきて、僕の脳は完全に凍結する。そしてすぐさま彼女の笑顔に解凍されらものだから、脳組織が幾らか死んだのではないかと錯覚した。


「だからきっと――いいえ、杉山さんは気持ち悪くありません。人の本質は性的嗜好に在るという言葉通り、女装をした杉山さんも、さっき助けてくださった杉山さんも、とても男らしいのだと私は思います。少なくとも、否定されるようなものでは決してありません」

「……つまり、肯定してくれるってこと?」

「ええ、肯定します」


 後にも先にも、今この瞬間こそが、僕の人生で一番の救いの瞬間だったと言い切って間違いなかった。自分の好きな子が、自分の女装という欲求を肯定してくれたのだから。

 目頭に熱いものを感じる。目から溢れてくるそれはどうにも止めようがなくて、それが傷口に染みこんでくるものだから痛くて痛くて仕方が無かった。

 公園で泣きじゃくる僕を、萌木さんは聖母のように見守ってくれていた。やっぱりまだ、僕の女々しさがなくなったわけじゃないらしい。

 まぁ、構わないか。女々しさも男のものなんだから。


「……来週の週末、予定あったりする?」


 ひとしきり泣いて落ち着いた後、僕は萌木さんに尋ねた。


「来週ですか? 今のところは、特に何もないはずですが」

「じゃあさ、買い物に付き合ってくれないかな。男一人だとどうしても入りづらい店とかあるから、一緒に来てくれる女の子がいると助かるんだ」

「それは、私でいいんですか?」

「もちろん。むしろ萌木さんだけが僕の女装ひみつを知ってるんだから、一番の適任だよ」


 そうでなくても萌木さんがいい――という言葉は飲み込んで。


「……分かりました。お付き合いしましょう」

「やった!」


 かくして僕は、片思いを寄せる少女とのショッピングの約束を取り付けた。不幸中の幸いという言葉は、もしかしてこのために生まれたのかもしれない。


 僕が公園の公衆トイレで男の格好に戻ってから、僕たちは並んで、僕たちの街へと帰るために駅へと歩く。


『……さて、そろそろかな』


 駅も見えてきたというところで、ゾウはエネマ○ラ以降閉ざしていた口を開いた。隣に萌木さんが歩いているので、僕は心の中で反応する。


(そろそろって?)

『僕の役目が、そろそろ終わりかなということだよ』


 彼の言葉の、その真意を僕は掴みかねた。

 それが分かったのか、彼はそのまま言葉を続ける。


『君が彼女に肯定された時、僕は思い出したんだよ。ち○こに生まれ変わったのは、何も君のイチモツが初めてじゃないってことにね』

(どういうことだよ?)

『僕は死後、世の中に埋もれる男の娘の原石のお手伝いをする妖精として生まれ変わっていたんだ。女物の下着を穿くことをトリガーとしてその性器に取り憑き、僕以外にその子を肯定してくれる誰かに出会うまで、唯一の肯定者として存在するためのね。僕はそうやって、この五百年間何千人もの男の娘を世に出してあげていたんだ。どうやら今回は、不手際で僕の記憶が飛んでいたようだけど』


 まったく理解の出来ない情報に言葉を吐き出せずにいる僕をお構いなしに、ゾウはさらに続ける。


『君は今日、その少女に自身の女装を肯定された。君はもう、一人じゃなくなったんだ。だから、僕の役目はお終いなのさ』

(……つまり、いなくなるってことか?)

『あぁ、寂しくなるかもしれないけど』


「……ふふっ」


 つい漏れてしまった笑い声に、萌木さんに不思議そうに見つめられる。「ああいや、なんでも」とごまかして、僕はゾウに返した。


(ごめん、わりと本気で嬉しい)

『えっ傷付くなぁその反応。……まぁ、男同士の別れだしね。しみったれてるよりはマシか。じゃ、僕も遠慮無くおさらばするよ』

(もう行くのか?)

『君が、それをお望みのようだからね』


 彼が現れてから股間のあたりに感じていた、何かスピリチュアルな感覚が薄まっていく。『あぁ、最後に言い忘れてた』と、遠ざかりつつある声に合わせ、ぼんやりとした、一頭のゾウの幻影が僕の視界に現れた。


『パットで胸を作るにしても、盛りすぎは宗教的にNGだからそこんとこよろしく』


 それが、彼の最後の言葉だった。ゾウらしいパオーンという嘶きと共に、幻影は昇り、空に溶けていく。きっとまた、次の男の娘を生み出すために旅に出たのだった。


「杉山さん?」


 立ち止まり空を見上げた僕を不審に思った萌木さんが尋ねてくる。「あぁごめん、もう終わったよ」と言って、僕は痛む身体を押して萌木さんの横に駆け寄る。


 僕とゾウとの物語は、短いながら終わりを告げた。


(でも)


 隣の萌木さんに笑いかける。目の腫れた僕が笑っているのを見て、萌木さんも少しだけ表情を崩す。



 これからがきっと、僕の本当の人生の始まりに違いなかった。

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