ブレイブ・フォア・ザ・ガール

 小一時間ほど、僕達はショッピングモール内を見て回った。

 すれ違いざまに見てくる人はいたが、僕を女装した男だと疑っている様子はほとんど見受けられなかった。

 いつもと違う自分で見る世界は煌めいて見えて、今まで恥ずかしがっていたのが馬鹿らしく思えた。

 さすがに声は男のままなので、人と話さなければいけないことはしていない。帰ったらボイストレーニングの方法について調べてみよう――そう思えるくらいには、僕はこれからの女装について前向きだった。


「さて、帰ろっか」


 時刻はお昼を少し過ぎたくらい。今日は最初なんだし、あまり張り切りすぎるのもよくないだろう。継続するためには、モチベーションの管理が必要なのだ。

 女装前にコンビニで買っていたサンドイッチを頬張りながら、僕はどこで着替えるべきか考える。


『少年は満足かい?』

「まぁ、今のところは? 思ってたよりも楽しかったし、来週にも前向きだよ」

『そうか、それなら何よりだ。次回はもっと攻めた服とかどうだい?』

「たとえば」

『……バニースーツ?』

「何段抜かしするつもりだお前は」


 こいつの地球観だと○楽天の上に大地が乗ってるに違いない。


「というかそもそもバイト代に限りがあるからなぁ。ウィッグとか高かったし、今日買った服を使い回しつつ一点か二点くらい増やすのが限界だよ」


 来週のことについて思いを馳せつつ、僕は食べきったサンドイッチの包装紙を捨てようと近くのゴミ箱を探す。幸い近くに見つかったので、僕はそこに捨てるべく座っていたベンチから立ち上がり歩いていく。

 そしてゴミを捨てようと手を伸ばした瞬間、横から伸びてきた別の手が僕の手とぶつかった。


「あっ、ごめんなさ、い――」


 謝ろうと顔を上げその人の顔を見た瞬間、僕は凍り付く。


「すみません、私こそ失礼しました」


 朗らかな微笑みに合わせた、鈴のような声音。

 品のある美しい所作が、僕の背筋に幾多の冷や汗を這わせた。


『どうした少年?』

(ど、どどどどどどうして……)


 ゾウの語りかけも耳に入らないほどのパニック状態。

 紛れもなく、人生最大のピンチがここにある。



(どうして、萌木もえぎさんがこんなところにいるんだよ……!?)



 休日の昼下がり、隣町のショッピングモール。

 女装をした僕は、絶賛片思い中であるクラスメイトの萌木萌々もえぎもえもえさんと遭遇してしまったのであった。


  *  *  *


 萌木さんを好きになった経緯いきさつに、特段の面白みはない。教室で静かに座って本を読む彼女が不思議と気になって、注いでいた視線がいつの間にか恋心になっていた、それだけだ。けれど例によって僕はヘタレなので、自分から話しにいったことなど一度も無い。


 そんな彼女が、今僕と触れられる程の距離にいた。


(どどどど、どうしよう……!?)


 動揺して足が動かせなくなった僕の顔を、不思議そうに見る萌木さん。

 メイクした上にマスクも付けているとはいえ、この至近距離では勘付かれる可能性はないとは言い切れない。

 いや待て……そもそも、萌木さんは僕というクラスメイトを認識しているのだろうか? というか、これでバレるなら萌木さんは僕のことを見ていることになるのでは???


『少年、思考が錯乱し始めているぞ』


 ゾウの言葉に意識が戻ってくる。

 いかんいかん、パニックで変な方向に走り始めていた。


「あの、どうかいたしましたか?」

「はひぇ!?」


 うわずった声が、幸運にも男らしさを消す。

 駄目だ、これ以上は僕のメンタルが持たない!


「だ、大丈夫、です!」


 そう言い残し、僕は萌木さんに背を向けて逃げ出した。


「えぇ!? あの、ちょっと――」


 突然の逃亡に驚く彼女だったが、背に腹は代えられまい。

 そのまま僕は、萌木さんの視界から外れるまで全力疾走した。


  *  *  *


「はぁ……こんな格好女装じゃなきゃ、もっと話してみたかったのに……」


 走り疲れた足を放り出して、僕は屋外のベンチで空を見上げていた。

 しょうがないのは分かってる。出会ってしまった時点で、どんな選択をしようが後悔するのは明らかだ。でも、プライベートで初めて会うイベントがよりによって女装した日というのはあんまりにも……。


「ああああああんまりだぁ……」


 どんなに嘆いても嘆き足りそうになかった。


『少年は彼女が好きなのかい?』


 やつが左曲がりに首をかしげる。


「じゃなかったらこんな反応しないよ……」

『おや、隠したりはしないんだね』

「俺が隠蔽したいのはお前の存在だけだよ」

『はっはっはっ、言うじゃないか。皮でも被せとく? ってそれ包茎やないかーい!』


 急所じゃなかったら鈍器でぐちゃぐちゃに潰したかった。


『さて、個人の欲求としてはもう少しこのままでいてほしいけど、少年的にはもうこの格好で彼女には会いたくないだろう? 手早く着替えるところを探そう』

「そうだな、それは確かだ……」


 重い身体をどうにか立たせて、僕は周辺の男子トイレを探す。

 しかし、最初に着替える時とは違う難儀さがあることに僕はそこで初めて気が付いた。最初に女装をする時は入る時の周りの目を気にしなくて済む。ただ女装から普通の格好に戻る際には、女装した状態で男子トイレに入らなくてはいけないのだ。

 休日のショッピングモールはそれなりに人が行き交っている。そんな中で人目を避けて男子トイレに入ろうというのは、中々に至難の業であることを僕は知らなかった。


(いや、よく考えれば最初も出てくる時にもっと気をつけなきゃだったけど……)


 さらにはこの人入りだ。もし女装したまま男子トイレに入って個室が埋まっていたら、男子トイレに入って出ていくだけの不審者になってしまう。


『少年。ここはショッピングモールで着替えるのは諦めて、どこかもっと人気の無い場所を探すのが無難なのではないか?』


 状況を鑑みると、ゾウの提言はもっともだった。よっぽどのことがなきゃ萌木さんと再び遭遇することはないだろうし、その方が無難だろう。

 よって、僕は女装したままショッピングモールから出ることにした。


 自分のモノローグが、フラグになるとも思わずに。


  *  *  *


「ねぇねぇ君ぃ、今暇ぁ?」


 人目を避けるため入った細めの路地で、曲がり道の先からそんな声が聞こえてきた。

 絵に描いたようなナンパのフレーズだなぁと思いながら、僕は引き返すかどうか勘案する。今は何より面倒ごとに絡みたくないし、道を引き返したほうがいいかもしれない。

 そう思って進路を一八〇度転換してもとの通りに戻ろうとした僕の耳に、別の人間の声が聞こえてきた。


「いえその、用事は、ありませんが……」


 聞き覚えのある声に、僕の足が止まる。

 今の声は、もしや――?

 再び翻って路地を進むと、道の先で一人の少女が三人の男に絡まれていた。


 男達は、遊び好きというのがパッケージの見本にしたいほど分かりやすいやつらだった。金やら赤やらに染めた髪をワックスでがちがちに固め、派手な柄のシャツやじゃらついた金属のアクセサリーを身につけている。僕的関わりたくなさはマックスだ。


 そんな男どもに絡まれて困惑した様子を見せている少女は、不幸にも僕のよく知っている顔だった。

 ――それこそ、学校で毎日視線で追ってしまうくらいには。


(萌木さん!)


 それは萌木さんだった。

 しかし駆け寄ろうとしたところで、僕は自分の格好を思い出す。そうだ、僕はさっき逃げ出したときと同じ服装のままじゃないか。


 アスファルトと靴底を、葛藤がびっちりくっつけて離さない。

 ……いや、それだけでは嘘になるだろう。単純に、複数人相手に割って入るのが怖かった。


 ああ、僕はやっぱりヘタレだ。

 女装して外を歩いて、自分も少し変われたんじゃないかと思っていた。

 でも、そんな簡単な話じゃなかった。僕は僕のままで、どこまでも女々しいだけの駄目な男のままなんだ。

 悔しかった。

 でもどうしても、足は動いてくれなかった。



『――とあるエロ漫画家の言葉に、こういうものがある』



 マスクの下で歯噛みする僕の頭に、声が響いた。


『女装は男だけができる行為で、女には決してできない。それはつまり――』


“女装こそが、この世で最も男らしい行為ということだ”


 それはまるで、弾丸が硝子ガラスを撃ち抜いたように。

 僕の心を覆っていた色んなものが、バラバラに音を立てて崩れ去っていく。


 世界が今一度、開闢の時を迎える。

 光が生まれ、海が、大地が、天空が産声をあげる。


『ゆけ、少年。お前のますらをぶりをとくと見せつけてやるのだ』


 もう僕の靴底と、躊躇いを繋ぐものは存在しない。

 男の中の一人が萌木さんの腕を掴むのと僕が駆けだしたのは、ほぼ同時だった――。

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