三
母の記憶を取り戻したおかげなのか、取り戻したせいなのか、家族へ、少しだけ黒っぽい気持ちが生まれていた。
僕を嫌う彼らには何らかの理由があって、僕が彼らを嫌う理由はなかったから、居心地が悪いだけで特に嫌ってはいなかった。けれど、母の笑顔を、もう既に亡くなってしまった、母の笑顔を思い出して、家族に対して何も感じないほど、僕は無機質な子どもではなかった。母の死の理由が家族にあるのかは分からないけど、彼らが僕の母の兄弟で、僕の母の親だと思うと、どこか、心が痛む。いつも削れたり刺されたりするような痛みじゃなくて、橋の上を歩いていたらお気に入りの帽子を風に盗まれて、川に流されていくのを見ている時みたいな、そんな痛みだった。
朝起きて、昨日とは違って君は夢じゃなかったと思い出して、安堵して、僕はゆっくり神社へ向かう準備を始めた。着替えて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて、靴を履いて家を出た。お昼までは時間があるから、近所の本屋に寄った。
一昨日、あの神社を見つける前までは、この小さな本屋が僕の逃げ場だった。店員はおそらく家主であるおじいさん一人だけで、僕がいくら立ち読みしても彼に叱られることはなかった。
前回来た時に半分まで読んでいた、空を飛ぶ虹色のクジラを追い求める、少年の話を最後まで読んだ。感動した。いつかお財布に余裕ができたら買おうと心に決めて、僕は店を出た。本来許されているのはおかしいことだから、心の中でだけ、おじいさんにお礼を言った。
神社へと向かいながら、僕はさっきの物語を思い出していた。あの主人公も、夏休みに街を一人で歩いていて、クジラを見つけたのだった。クジラは晴れそうで晴れていなくて、雨が降りそうで降っていない、みたいな、おぼろげな天気の時にしか現れない。僕にももしかしたらチャンスがあるんじゃないかと空を眺めていたが、どうやらクジラは僕と出会うつもりはないようだ。ただの曇りに見える。
物語に思い馳せていたらいつのまにやらゆらゆら道にたどり着いていて、歩くと君の姿が見えた。
君はいつものベンチに座って、目を瞑っていた。何か考え事でもしているのかと思ったが、近づいても目を開けず無反応で、どうやら眠っているようだと気づいた。
やわらかい光を湛えた木々の間で、まるで空気になったみたいにうとうとと時間を貪る君は、神秘的だった。なんてことはまるでなく、君はとても、底知れず、ただの少女だった。
ただの少女を起こさないように、そろそろと、僕は隣に座った。僕はまた、沈黙を聴いていた。
目を覚ました君はやっぱり君で、僕はどこか安心して、どこか残念がった。
「あー。完全に寝てた。やあ、おはよう」
「おはよう」
ふあー、と、あくびをしながら、伸びた。
「いやー。面白い夢を見てたんだよ」
起こさないでくれてありがとう、と君は笑って、続けた。
「虹色のクジラをね、君と私で探したの。ふふ、そのクジラね、空を飛ぶんだよ。変な夢だよね」
君はクスクスと笑った。
僕は驚いていた。とても。
偶然にしてはあまりにもできすぎだと思った。運命にしてはあまりにもロマンチックでなさすぎるとも思った。
もしかしたら君は僕の頭の中を覗けて、いたずらの為にそう言ったのだとしたら、僕は納得できる。たしかに有り得るかもしれない。
けれど僕は君の顔を見て、そうじゃないと確信していた。理由はない。けれど、君の夢と僕の読んだ物語が繋がっているなんて、あんまりに素敵じゃないか。七日間のために生きてきた僕たちだからこそ、こんな奇跡が起こったんだ。
今日僕たちを外界から隔離した沈黙は、同時に物語を連れてきた。僕たちは空想に囚われた。空想を乗りこなした。僕たちは夢の続きを、物語の続きを見た。
物語の結末で主人公たちは、クジラの背中に乗って、世界を守るために生きることを選んだ。人柱となった彼らの永遠の先を、僕たちは味わった。
それがただの妄想で、想像で、空想だということは分かっていた。けれど、僕たちは限りなく、物語の中にいた。
君は目を覚まして、僕は白紙のページを読み終わって、やっとベンチの上に戻ってきた。
君の瞳には涙が浮かんでいた。その理由を僕は聞かなかったし、同じように濡れていた僕の目を、君は咎めなかった。
僕たちはそれが全部空想だったと分かっていた。その物語の続き自体が空想だと分かっていたし、君とそれを共有していたことさえ空想だったと理解していた。たとえ真実だったとしても、空想だった。
だから今日、僕たちの周りの沈黙が消えることはなくて、言葉を交わさないまま、僕たちはゆらゆら道を戻った。
どちらが先か、とか、そういうことは重要じゃなかった。
空は、きっとクジラが隠れている、おぼろ空だった。
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