橙に染まった家路を歩いていた時も、重い扉を開いた時も、色のない「おかえり」に迎えられた時も、腹を満たすためだけの食事を終えた時も、隣の部屋の談笑を片耳にひとりで布団に入った時も、僕はいつもほど、心臓が錆びた鎖で擦られる感じをおぼえなかった。

 いつもなら、家の人の目を見た時には、もっと胸が痛くなる。もっと頭の奥がねじれそうになる。

 それほど、君との出逢いは夢のようだったんだ。

 あまりに夢のようだったから、翌朝目を覚まして、僕の瞳から涙が溢れてしまったのは仕方が無いと思う。冷めたチャーハンを食べて、誰もいない家を飛び出して、ゆらゆら道を駆けて、君が座っていないベンチを見て、どうしても目から溢れる塩水を止められなかったのは、仕方が無いと思う。

 陽が真上に昇って、水が枯れて、僕の内臓がチクチクと刺され始めた頃に、やっと、君は現れた。

 渇いたはずの涙が何故だかまた流れ出してしまった。拭っても拭っても止まらなかった。

「どうしたの?」

 君は慌てて、僕の方へ駆け寄ってきて、ハンカチを差し出してくれた。水色と白のチェック柄を、僕は濡らした。僕は声を出せなかった。喉に何かよく分からないものがつっかえていた。

「何かあったの?」

 自分でも理由の分からない涙に困っていたので、首を横に振った。そうしたら、君はにっこりと笑って、そっかそっか、と呟いた。

 僕の肩を優しく抱いてベンチに一緒に座って、前髪をそっと撫でてくれた。

「いいよ。好きなだけ泣きなよ。私が見ててあげるよ。私が代わりに笑ってあげる」

 僕の目はぼやけていて、君の姿がはっきりとは見えなかったけれど、きっと、微笑んでくれていたんだと思う。肩と、頭と、空気が、温かかった。

 どのくらい経ったか分からないけれど、とにかく相当な時間をかけて僕が泣き止んでから、君は僕から身体を離した。

「どうして泣いてたのか、分かる?」

 僕は一瞬、首を横に振りかけて、気づいた。いいや、僕は、自分がなんで泣いていたか知ってるだろう。彼女が夢だと思って泣いたし、彼女が夢ではなくて泣いた。恥ずかしいとか、そんな感情は捨てて正直に言った。そうしたら君は笑った。嘲笑するようではなくて、プレゼントの包み紙みたいな笑顔だった。

「なんだよー。私のせいか。ごめんね。だいたいいつもこの時間に来るからさ、明日からは泣かないでね」

『明日』という言葉が、僕の小さな頭の中で、強く輝いた。僕はこの夏、いや、この人生で、およそ初めて未来を楽しみに思ったんじゃないだろうか。「家にいなくて済む」とか、そういううざったい理由を介さない、純粋な、希望として。

「でもそっか。君に何かあったわけじゃなくてよかった」

 そう言って彼女は微笑んだ。なんだかまた泣きそうになってしまった。泣かなかった。僕は深く頷いた。

 そのあとやっぱり僕たちの間には静寂が落ちてきた。

 今日は風が吹いていて、青い葉たちがさあさあと音を立てていた。二日目の蝉がジージーと力強く鳴いていた。名前の分からない小さな蝶が舞っていた。

 そういえば、君と僕の七日間で、僕が感情をあらわにして心を振り乱したのは、この日僕が君の前で泣いた、たった一度だけだったんじゃないかな。我ながら可愛くない子どもだね。それとも君には全てお見通しだったのかな。そう考えると、君だって可愛くなかったね。

 沈黙を浮かせたのは、やっぱり君だった。

「もし明日世界が終わるとしたら、最後に何がしたい?」

 また難しい質問だった。君は難しいことしか聞かない。僕のことを小学生だと分かってたんだろうか。そもそも君は本当に中学生の少女だったのだろうか。

 かくいう僕も大真面目に考えようとするので、実は僕も小学生じゃなかったかもしれない。

 全く思いつかなかった。また昨日と同じように「分からない」と答えてしまおうかと思ったけれど、君が言ってくれた「色んなことを考えてる」という言葉を思い出して、目の前の君の煌めく黒を見て、もう少し考えることにした。

 今まで生きてきた中で、一番楽しかったこと、嬉しかったことを、思い出そうとした。心から喜んだことなどあっただろうか。最近では「君と出逢ったこと」くらいしか思いつかない。さらに深く、自分の記憶に潜り込んだ。

 僕には、ほとんど両親の記憶が無かった。けれど、この時、君の深いけれど暖かい瞳を見て、思い出した。母親はこんな目をしていたはずだった。とても嬉しそうに、美味しそうに、アイスクリームを食べる母の姿が思い出された。  

「アイス……」

「ん?」

「アイスクリームが食べたい」

 君は最初はきょとんとした顔をしていて、だんだんだんだん口元がほころんできて、目が細くなって、なぜかとても嬉しそうな顔になっていた。

「ふふふ、そっか、アイスかー。ふふ、いいね。ちなみに何味が食べたいの?」

「チョコレート」

「ふふふふ、そっか。チョコアイスおいしいよね」

 僕にはなんでそんなに笑っているのか全く理解できなかったけれど、とにかく君は嬉しそうで、見ていた僕もだんだん笑顔になってしまった。君と母が重なった。

 しばらく二人で笑って、やっとおさまってきた頃、君が「今度買ってきてあげるね、チョコのアイス」と言ってくれた。

 その日は、以降これといった会話はなくて、僕が先に帰ることにした。ハンカチは、今度洗って返そう思ったが、君が「気にしないで」と言ってくれたので、そのまま返した。

 まだしばらくここにいるらしい君は、僕に手を振って見送ってくれた。

 僕に向けられた笑顔はとても眩しくて、僕は少し恥ずかしくなってすぐ前を向いた。

 ゆらゆら道を三分の一くらいまで歩いて、ギリギリ表情が見えるくらいの距離で、もう一度だけ君を振り返った。

 君は顔を上にあげて空を見ていた。君はちっとも笑っていなくて、まるでつららみたいだった。

 空は笑っていた。

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