きっと七日目の空は綺麗だった。
藤マ善
一
夏の日だった。
僕は特に理由もなく屋外を歩いていた。
外に出る理由はなかったが、家にいたくない理由があった。
家には僕と血の繋がった人たちがいて、その人たちはみんな、僕なんか生まれてこなければいいと思っているはずだった。みんなに確かめた訳では無いけれど、きっとそうだ。
僕がその人たちに何かをした記憶はないけれど、それほど恨まれるということは、きっと何かしてしまったんだと思う。自覚していないことがいけないのかもしれなかった。
夏は嫌いだった。夏休みには学校がなくて、あの家に行かなければいけないからだ。学校も決して好きではないけれど、家にいる人たちみたいな目で僕を見る人はいないから、嫌じゃなかった。
帰る時間が遅くなると怒らせてしまうから、あまり遠くに行くことは出来ない。空が橙色になってきたら帰路につくべきだろう。いつも高いところから僕を見下ろして、嘲笑っているみたいな空を見上げて、陽がほとんど真上から差していることを確認した。
まっ黒い影が僕の足元にあって、見つめていたらだんだん身体が沈んでいって、飲み込まれてしまうんじゃないかと期待したが、そんなことはなかった。木陰に消えてしまった。なんとなくだけれど、僕みたいだな、と思った。
陽にずっとさらされて、僕の身体はどんどん火照っていった。首筋を汗がつたう。汗は身体を冷やすために出ると聞いたことがあるけれど、嘘だと思う。ほんの少し冷えるくらいでは、むしろ暑さが際立つだけだと思う。
大きい木々の生える林に入っていった。この先に僕の知らない不思議な世界が広がっていたらいいな、なんて思ったけれど、蝉がうるさく鳴いて、石の階段を登る僕を急かすだけだった。
僕を責め立てるだけの太陽は、木々に対しては優しいらしく、林は青々と茂っていた。葉の隙間から差し込む陽は暑くはなく、道がゆらゆらと照らされて、不思議な感じだった。
ゆらゆら道を歩いていくと、神社に行き着いた。小さな神社の脇にそびえる大きな木の下の、古びたベンチに、君は座っていた。
「こんにちは」
細くて美しいけれど、どこか鋭い声だった。
君は制服を着ていて、僕は高校生だと思った。後で中学生だったと知った。
君のうつくしさを、僕の言葉では表現しきれない。当時の僕にも、今の僕にも、そしてこれからの僕にも不可能だろう。醜い場所で醜く育った僕には、君を正しく表現しきれない。僕は、比喩というものは、なんとなく、それ以上のものを表現する時には、使わないと思っている。たしかに無理やりにたとえてみるなら、月下の百合のようだったし、夕暮れの水平線のようだったけれど、その時会った君は月下の百合よりも、夕暮れの水平線よりも、ずっと綺麗だった。君より綺麗なものを僕は知らない。いや。その時、その場所で、君と出会ったから、君と出会ってしまったから、僕は君以上に美しいものを知れないのかもしれなかった。
とにかく、それくらいうつくしかった。
「こんにちは」
僕は、得体の知れない人物の挨拶に応えることを躊躇わなかった。君が僕に害を与える存在だとは思えなかったからだ。いや、正直に言うと、そんなことはどうでもよかった。君が僕をいくら傷つけようとも、僕は君に挨拶を返す。
「暑いね」
ワイシャツの胸元をぱたぱたとさせながら、君は言った。僕は黙って頷いた。
「こっち来なよ」
君は左手でベンチの空いたスペースをとんとんと叩き、僕に座るよう促した。僕はまた、黙って頷いた。
君と僕はふたり、隣に並んで座っていたが、まるでお互いの存在を知らないかのように、ひとりで座っていた。
沈黙が好きではなく、耐えられない人も少なからずいるが、君も僕もそんなことはなかった。僕たちは、木々のざわめく音だとか、青い匂いだとか、冷まされた空気だとか、そういうものを、五感を、共有していた。少なくとも僕は、そう思っていた。
その時間はたったの数秒だったのかもしれないし、世界が三回終わって始まるくらいだったのかもしれない。とにかくその時間は、君の声で止まった。
「君は知ってるかな。蝉は一週間しか生きられないんだよ。その一週間で、自分の運命の相手と出逢わなくてはいけないから、彼らは必死に鳴いてるんだよ」
僕はみたび、こくりと頷いた。そして今度は口を開いた。
「でも、木に登る前には土の中で生きていると聞いたことがあります」
君はにっこりと笑った。
「おー。よく知ってるね。蝉は七年間土の中で成長して、やっと出てくるんだよ。おねぼうさんだね」
じゃあ、と、君は続けた。
「その七年は長いと思う? その七年と七日は長いかな?」
その質問は、とても難しかった。例えば僕の人生を尺図とするなら、七年というのは半分以上を占めるものだから、長いと思う。けれど蝉の一生が七年と聞くと、短いような気がする。
「分からない」
「そうだね。私も分かんないや。ごめんね、意地悪な質問して」
けどさー、と、君は続ける。
「蝉はその七年と七日を、何のために生きてるのかな。土から這い出るため? 運命の相手と出逢うため? 子孫を残すため? それとも何の意味もないのかな?」
これもまた、僕には難しかった。
「意味は、ないと思う」
そっか、と君は呟いた。失望したふうではなくて、先を促すふうだった。
「人間だって、意味はないと思う」
そっか、と君はまた呟いた。今度は表情がさっきよりも明るい気がした。
「でも、たった七日間で運命の相手と出逢うために、七年間生き続けるっていう方が、素敵だと思う」
そっかそっか、と君は笑った。
「君はすごいね。まだ小さいのにすごく色んなことを考えてるんだね」
褒められて、耳が熱くなるのを感じた。日に焼かれた地面よりも、熱く。
「そっかー。蝉は七年間を七日間のために生きてるのかー」
脚をぐっ、と、伸ばしながら君は言った。降ろして、言葉を続けた。
「人間もそうだったらいいね。大事な人と出逢うために、生きていたらいいね」
僕は頷いた。生まれたことを疎まれる僕にも、そんな相手がいるんだろうか。
君は、足元に生えている雑草を引っこ抜いて、パラパラと地面に落とした。風に吹かれて青の残骸が散った。僕の汗は身体を冷やす。
ふふ、と笑って、君は言った。
「私のこれまでの十五年間は、君との七日間のためかもしれないな。そうだったらいいな」
それがもしも愛の告白であったならば、君はもっと頬を紅らめていただろう。だけれど、五つも年下の小学生に恋をするほど君の心は歪ではないし、その顔は笑っていたけれど、どこか影があるように見えて、僕は君の心を覗けなかった。
君はすぐに顔の影を笑みで隠して、立ち上がった。
「今日はどうもありがとう。君と話せてよかった。また、逢えるといいな」
紺色のリュックを背負って、僕の頭をぽんぽんと撫でた。温かかった。
「あの、僕も、ありがとう」
君は返事の代わりに右手を振って、ゆらゆら道を歩いていった。
君が視界から居なくなるまで、僕は身体を動かせなかった。
蝉が鳴いていた。もううるさいとは思わなかった。
その日の空は、綺麗だったのだろうか。
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