第10話 人工呼吸

 あんなにスポーツ万能な岸辺さんがどうして? みながそう口々にしながら驚愕きょうがくしている。


「ダメだ、息してない!」


 誰かが叫んだ。信じられずにその場に立ち尽くしていた俺も、その言葉にハッと我に返る。


「誰か! 先生を、先生を呼んできてくれ!」 


「どうしよう、このままじゃ岸辺さんが」


 止まっていた時が動き出したように、周りがあわただしくなる。だが、先生を待っている暇はないぞ。ここは少しでも蘇生そせいへのタイムロスをなくす為の『アレ』を行うべきだ。

 俺が指す『アレ』というのは、はじめてのチュウ……ではなく人工呼吸である。救急隊員が到着するまでに、それを行うことにより生存率は格段に上がると、中学の救命救急の実習でやった記憶がある。


「ううう……」


「どうしよ~」


 ついに泣き出す女生徒まで出てきた。なんか、お通夜みたいなムードになりつつある。既に岸辺さんの生還を諦めたというのか?

 いやいや、待て! そんな、もったいな……じゃなくて、やるべきことがあるだろうが! 

 

 すると、俺の脳内がある答えをはじき出す。


(もしや、これは俺に人工呼吸をしろということか?)


 こんなに人が集まっているというのに、横たわる岸辺さんに誰も何もできないでいる。確かに人工呼吸とはいえ、乙女の唇を奪うのは躊躇ちゅうちょする案件なのは否めない。

 だが、俺は違うぞ。唇一つなどと、そんな悠長ゆうちょうなことは言ってられない。人間一人の命が危機なのだ。一刻も早く酸素を届けるんだ。あくまでこれは人命救助なのだ。


「先生が来るまで、俺が人工呼吸します」


「「「えっ!?」」」


 周りが驚きの声を上げるが、俺は構わず続ける。戸惑いを見せれば、この美味しいポジを他の男子に奪われかねないからな。


「誰か、LEDを探してきてください」


「え、AEDでは?」


「そ……そうそう、それそれ」


 はじめてのことで、俺もいささか動揺しているようだ。戸惑うな、こういうのは思い切りが大事。続いて岸辺先輩への口元の確認を行う。


「呼吸なし!」


 その言葉と同時に、心臓マッサージを数回行う。それでも、意識はまだ戻らない。ふっ、まさか中学校の頃の救急体験が、こんなところで役立つ日が来るとはな。


「気道確保!」


 さかさず鼻をつまみ、あご先をあげる。はじめてのチュウというには、若干ムードが足らない気がするが、まぁ仕方がない。

 サッと済ませよう。サッと唇を奪って、空気吹き込んで、知らぬ存ぜんだ。だが、その唇の味だけは忘れないでおこう。

 言っとくが、決して助平スケベ心からくるものではない。あくまで人命救助だ。俺は自分の唇を近づけていく。その様子にまわりがゴクッと息をのむ。


(いったるぞ!)


「うっ! ごほっごほっ」


 俺の決意からわずかコンマ数秒。残り僅差きんさで、岸辺さんが水を吐き出した。


「あれ……わたし、どうしたんだっけ?」


 岸辺さんは意識を取り戻すと同時に、覆いかぶさるようにしていた俺に気づく。


「ひゃっ!」


 その瞬間、身構えられた。だが、そんな無様な様子にもかかわらず、周りからは歓声が上がった。

 岸部さんの生還。そして、俺の英断を周りが称賛してくれているのだが、まさかの人工呼吸せずじまいの展開に、俺はしばらくフリーズしていた。

 その後、先生が駆けつけ、岸辺さんは大事をとって救急車で搬送されていった。


 岸辺さんが助かったことは素直に嬉しい。いや、これほどの喜びはないといってもいいくらいだ。


 だが、一言だけ……もし、一言だけいわせてもらうとすれば。


(ちっとくらい、口つけさせてくれよ)

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