第3話 独立

「この世界は、もうじき終末を迎える」

目の前の男は、ただ淡々と、しかしどこか悲しそうに、そう口にした。

「終末を…迎える?」

男の言葉を繰り返す。しかし、その意味が分からない。

いや、分かりたくない。それ以上を理解しようとすることを、脳が全力で拒んでいた。

「ねえ…フェリシア…嘘だよね…?」

震えた声で隣の少女に呼びかける。何か、助けを求めるように。

「……………」

「フェリシア…?」

しかし、フェリシアは俯いて黙ったままだった。

「…さて、一つ一つ説明していこうか」

少しだけ悲しみを含んだ眼の男が、先程と同じような冷たい声で話し出した。

「まず最初に、君が知ってるこの星と、実際の世界は大きく乖離していると言っておこう。この星は既に枯れかけている。海は濁り大地は汚れ、今や地上に住む生命の数は全盛期の2割にも満たない。これは人類史がいずれ辿る道、終局点と呼ばれる文明の行き先だ。これは遅らせることはできても、覆すことはできない。絶対にね」

男は諦めたきったような目で話を続ける。

「今から20年前、この星の主導権は巨大な6つの国家が握っていた。それぞれの国家は枯渇の一途をたどる資源や食料のために日々奮闘していたが、その努力にもいずれ限界が来た。こうなったら残された人類はどうするか。それは、今までの歴史を見ればすぐに分かることだった」

男は一度深く息を吸い、怒りと悲しみがわずかに滲んだ声色で言葉を続けた。

「第6次世界大戦。この星の主導権と残された資源を求めて、それぞれの国が争い合った。空も海も大地も戦場となり、安息の地などどこにも無かった。正義や矜持なんてみんな忘れ、ただただ悲しい戦いだったさ。2年半に渡る戦いは苛烈を極め、制圧と略奪が幾度となく繰り返された。結果として4つの国と人類の3割が消え、今の世界に至るというわけだ」

「そんな……狂ってる…なんでそんな事のために…」

「狂ってる…か。そうだね、皆狂っていたよ。それほど生きるのに必死だったんだ。明日の保証すら無い世界でも、希望を見出して必死に足搔けるのは人間の特権だからね」

…絶望とは、こういう事を言うのだろうか。世界の輪郭がハッキリとしていくにつれ、目の前が真っ暗になる。

しかし、初めて味わうその味は、まだ私に逃げることを許さなかった。

「…さて、この戦争が残した遺産は多大な犠牲だけじゃない。とある国が投入した新兵器、これによって一夜で二国が滅ぼされ、戦争は終結に至った。が、その兵器は今でも大地に残り、未だに浸食を続けている。止まることなく成長を続けながら土地を覆いつくすその兵器は、やがて星の全土を飲み込み、この星を死の惑星へ変えると言われている」

「成長を続ける…?それって…」

「ああ。その兵器は植物だ。ただし、人間の文明を滅ぼすためのね」

「文明を…滅ぼすための…」

信じられなかった。大きな国をあっという間に滅ぼした、そんな植物があるなんて。

男はとても悲しそうな目をしていた。まるでそれらの地獄を見てきたような、とても辛い目だった。

「…うん、悲しい話ばかりしてても進まないね。さて、良い知らせのほうを…」

「待って先生、その先は」

突然、フェリシアが掠れた声で制す。

「その先は…リコリスには…」

今にも泣き出しそうな声で呼び止めるフェリシア。しかし、男はフェリシアの元へ近づくと、少女の前でしゃがみ込み、静かに諭すよう話し出した。

「…フェリシア。巫女に選ばれこの戦争に参加するリコリスには、その使命と責任を知る義務がある。分かるね?」

「でも…リコリスには…」

「君の気持ちは分かる。でもね、これは変えられない事なんだ。分かるね?」

「分かってる…分かってるけど…」

肩を震わせて俯く彼女の頬から、わずかに水滴が落ちた気がした。

「…こんなの…悲しすぎるよ…」

彼は、黙り込んでしまったフェリシアの頭をそっと優しく撫でると、立ち上がりつつこちらへと振り向いた。

「…すまないね、リコリス。だがこの世界の真実を、僕は君に伝えなければいけない。覚悟はいいかな?」

男との距離、わずか数歩分。先程よりもずっと短いが、いつのまにか恐怖を無理やり抑え込んでいる自分がいた。

「…勝手に連れてきて今更?この際よ、全部話して」

震えそうな声を必死で抑えて言い返す。揺れる心を支えるように、握る拳に力が入る。

「…うん、こんな状況でも強気なのはいい事だね。やはり彼女の子供だ」

男は一瞬驚いた表情を見せた後、少し笑ったようだった。


「さて、大戦が始まる数年前、とある国の科学者達によって大昔の遺跡と、それにまつわる文献や関連する重要な資料と遺物が次々出土した。研究者達による解読はそう時間がかからなかった。そして明らかにされたその内容は、この世界を救うただ唯一の方法となってしまった」

男はまるで授業を行う教師のように話し出す。フェリシアが先生と呼んでいたのも、多少うなずける。

「この世界を救う唯一の方法…?なんでそんなものが大昔の遺跡から…」

「簡単な話さ。その遺跡は、最初から世界の終末を予期して作られたものだったんだ。繁栄と滅亡を繰り返す人類文明、その財産にして人類の誇る最終兵器。いつかの文明が今のような状況を救うために作り上げた、人類史の行き着いた結論さ」

人類史の、行きついた結論。

「それは…」

一瞬の沈黙。男は、その名を忌むように口にした。

「その名を。地球という星を再び作り直し、新たな文明を生み出すための…リセット装置だ」

機械仕掛けの神。

言葉を口の中で反芻する。丁寧に、噛みしめるように。

「神……でも作り直すって…」

「ああ、文字通りリセットするのさ。この装置を使えば世界を作り直せる。これは比喩でもなんでもなく、ただ純粋に今ある世界を壊して、そこから新たな世界を作り直す。そんな装置だ」

「今ある世界を壊してって…ちょっと待って、じゃあ今の世界の人達はどうなるの…?」

おそるおそる問いを投げるが、帰ってきたのは淡白な答えだけだった。

「もちろん、全て消えて無くなるだろう」

「それじゃあ、なんの意味もないんじゃ…」

しかし男は、少し微笑みながら語り始めた。

「そうではない。今の人類が築いた暮らしは消えても、そこで培われた文明や技術は消えない。魂は輪廻を辿り、再びヒトの形となって新しい大地に立つ。そこから再び、新たな暮らしが始まるだけさ。人間というのは群体で生きる生物であり、一個体の死はそこまで重要ではない。逃れられない死の代わりに、後世に技術を伝えて繁栄する。そうして人類史は生きながらえ、発展してきた」

それは自分にとって、全く知らない価値観だった。

自分の命が終われば私という存在はなくなる。しかし人類の歴史で見ればそれはとても小さなことで、次の世代に何かを引き継ぐことに生きることの意味がある。この男はそう言っているのだろうか。何度も何度も世代を受け継ぎながら生きていく、それが人類という存在なのだろうか。

私にはまだ飲み込めない。でも、少しだけわかる気がする。

「そして機械仕掛けの神を起動するには、神から選ばれた特別な人類が必要なんだ」

「特別な、人類…?」

「特殊な遺伝子を持ち、その上で選ばれしたった8人の少女。神に認められ、その力を引き出せる文字通りの鍵。それが、花の巫女という存在だ」

…花の巫女。8人。 選ばれた存在。

彼らの言葉が、ようやく繋がった。

「…つまり、私がその8人目ってわけ?」

挑発するように笑いながら問うと、男は不敵な笑みを浮かべ返した。

「理解が早くて助かるね。その通りさ。しかし重要なのはここからだ。」

ただでさえ重かった言葉がさらに重くなり、男から鋭い眼光が向けられる。

「選ばれた8人の内、機械仕掛けの神を起動出来るのはただ1人だけだ。その神に相応しい巫女を選ぶため、最後の1人になるまで生き残りを賭けて争う戦争が始まる」

男はさらに語気を強める。

「頂花戦争。君がこれから巫女として挑む事になる、選別の儀式だ」

…思わず、後ずさりをしようと左足を引いていた。 わずかに体重のバランスが乱れ、傷口に痛みが走る。

「生き残りを賭けて争うって…どうしてなの?世界を救うためなら争う必要なんて…」

「新たに作られる世界の形は、巫女の思い描いたままに作り直される。言ってしまえば、創世の神となれるんだ。だから機械仕掛けの神は、神の座へ座るに値する人間かどうかの試練を与える。それがこの戦争だ」

「創成の神…?試練…?」

滅びゆく世界を壊し、新たな世界を作る、文字通りの創世神。そんなものに本当になれるのだろうか。そんなものになって、どうするのだろうか。

いや、そもそもこの世界を救う方法は、もうそれしかないのだろうか。作り直すのではなく、少しずつでも復興させる手段はないのだろうか。

「ちなみにだが、そこのフェリシアも頂花戦争に参加する、巫女の1人さ」

「えっ、フェリシアが…?」

弾かれるように少女の方を見ると、俯いたままのフェリシアは、諦めるかのようにコクンと頷いた。

「…さて、リコリス。ここからは君への質問だ」

男からの言葉に、震える肩がピクリと跳ねる。

「最初に話した通り、この世界はもうじき終末を迎える。これを救う手段は、機械仕掛けの神を起動する以外に残されていない。巫女として、頂花戦争に参加する覚悟はあるかい?」

とても鋭い視線が、私を貫いていた。

「…っ……私…は…」

一瞬、思考が停止する。

私が、世界を救う巫女に?何故?どうして?

疑問は絶え間なく浮かび続け、頭の中を空白が埋め尽くす。

どうして私が、そんな役割を引き受けなければならないのだろうか。今まで森で過ごしてきた私が願った世界は、こんなにも絶望にまみれた世界ではなかったはずだ。終わりゆく世界、それを救う巫女。理想郷とは程遠いこの現実。私が知りたかった世界は、こんな――

「…ダメだよ、リコリス。こんな戦争に関わっちゃ」

口を開いたのは、泣き腫らした目でこちらに優しく微笑むフェリシアだった。

「…私ね、嬉しかったんだ。あんなに楽しくお話出来たのはリコリスが初めてで、初めて出来たお友達で、だからまだまだ一緒にやりたい事とか話したい事とか、たくさん、たくさんあって…」

言葉が終わらない内に、少女の目から再び涙が溢れ出す。フェリシアは止まらない涙を拭いながら、嗚咽まじりのぐちゃぐちゃの声で続ける。

「だから…リコリスには……死んでほしくないの…!」

フェリシアは何かの糸が切れたかのように、声を上げて泣き出した。

…私は知らない。この世界の歴史も、森の向こうの土地も、そこに住む人々の暮らしも。当然、そこで起こった出来事も、その戦争すらも、何も知らない。知らないからこそ、そこに夢を見ていたのだ。知らないからこそ、手を伸ばそうとしたのだ。

だから、私にはこの男の言葉の意味が分からなかった。いや、分かりたくなかった。世界はすでに終わっているのだと、私が見たい景色はもう枯れ果てたものだと、その意味を理解したくなかった。死の宣告と同義の真実を受けて、それを受け入れたくなかった。

でも、私の目の前で、同じくらいの年の少女が、こんなにも大きいものを背負っている。その事実を前に、逃げることなどできなかった。

「…私は死なないよ、フェリシア」

私には1つしか願いが無い。世界を知りたいという大きな願いしか。

でも。たった今、それが増えた。

「大丈夫。私はいつだってフェリシアのそばにいるから。一人じゃ無理かもしれないけど、きっと二人なら頑張れるから。だから、私はこれからもずっと一緒にいよう?」

世界を救いたいわけでもない。創世の神になりたいわけでもない。

知らない世界の全てを自分の目で見たい。そして、ただ目の前の少女を守りたい。

たったこれだけの理由。随分と小さく見える理想だ。でも、この気持ちはきっと本物だから。

「…さて、答えを聞こうか」

男から、鋭い眼光が飛ばされる。

それに応えるように拳を握りしめ、二っと不敵な笑みを浮かべる。

「私はこの戦争に参加するわ。でも、それは押し付けられた義務のためでも、神になるなんて欲望でもない。ただ、私の願いの延長線上に、この戦争があるだけ」

私の願い。世界を知りたいという大きな願い。

「あなたが今話した世界も、その真実も、今は信じない。この目で本当の世界を見て、どうするかは私が決める」

まるで自分を鼓舞するかのように、語気をさらに強める。

「私の名前はリコリス。必ずこの戦争に勝って、世界を生きてみせるわ!」

拳を胸に打ち付けながら、目の前の男に、フェリシアに、まだ知らない世界に、高らかに宣言する。

知らないを知りたい、好きになりたい。どこまでも単純な動機だ。でも。

きっとここに、地獄はないから。

「それが君の、答えでいいんだね?」

まるでその答えを待っていたと言わんばかりの男に、精いっぱいうなずき返す。そのままフェリシアの方を見ると、少し呆気にとられた顔をしていた。

「ごめんね、フェリシア。でも、私は…」

「…ううん、大丈夫。リコリスが決めた事なら、私は信じるよ。なんだろう、ちょっと安心しちゃった」

フェリシアは目尻に浮かぶ涙を指で拭うと、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「…ホントはね、この戦争に参加することを考えるだけで、震えるほどすっごく怖かったんだ。でも、リコリスが隣にいてくれるなら、私は大丈夫な気がするの」

「私で…いいの?」

「うん、リコリスがいいの。これからよろしくね!」

そう言うと、フェリシアは満面の笑みで右手を差し出す。

「こちらこそよろしく、フェリシア!」

笑顔で答えながら、差し出された手を握り返す。

握手なんていつぶりだろうか。フェリシアの手は小さく可憐で、それでいて暖かかった。


「よし、これからの行動についてだが…」

一通りの感情が落ち着いた所で、タイミングを見計らったかのように男が口を開く。

「フェリシア、君は予定通り追手が来る前にデューク達と研究所から離脱。合流ポイントは後で連絡するよ」

「分かったわ。デュークは今どこ?」

「おそらく施設内だが、数分もしないうちにここへ到着するはずだ。黒薔薇のおかげで敵も中々動けないからね、よほど目立たない限りは見つからないよ」

「うん、じゃあここで待ってる」

…外の状況は未だに全く分からないが、フェリシアは一切動じていないようだ。それほどの信頼がこの男にあるのだろう。

「さて、リコリスだが…」

視線がこちらへと向けられ、男と目が合う。

「一度、君の家に戻って荷物をまとめるとしよう。遠い地へと赴くことになるからね、しばらくここには帰れなくなる。構わないね?」

「…ええ、もちろん。覚悟はできてるわ」

「OK。フェリシア、僕はリコリスの護衛につくから、困ったらデュークとロルフを頼ってくれ。いいね?」

「わかった、どうか無事でね。リコリスも」

にっこりと笑うフェリシア。

「うん、フェリシアもね」

同じくにっこりと笑い返し、いつの間にか扉のそばへ立っている男の元へと駆け寄った。


研究所を抜けるのにそう時間はかからなかった。男の背中を追いながら非常用の通路らしき狭い道をいくつも通ると、これまた終わりの見えないらせん階段が現れた。

「今更だが、足は大丈夫かい?」

「ええ、なんとか。少しの間なら耐えられるわ」

「それは結構。もうすぐ地上だ、頑張ってくれ」

そんな事を話しつつ少し長めの階段を上り終えると、重々しい鉄板の扉が現れた。

男が全身の体重をかけつつ、ギイィ…という重々しい音と共にゆっくりと開いていく。

「…おや、めずらしく綺麗な月が出ているね」

釣られて空を見上げる。外は既に夜だった。軽く肌を撫でる夜風に、少し身震いする。

「それで、ここからどうするの?」

「近くに僕たちが乗ってきた装甲車があるはずだ。それに乗るよ」

そのまましばらく男に着いていくと、茂みに隠されていた、朝に家の前に停まっていたものと同じ装甲車が現れた。枝や木をはたき落とし、後部座席へと乗り込む。

「飛ばすぞ、しっかり捕まっててくれ」

運転席から頭だけこちらを向く男に無言の頷きを返すと、彼は手元のレバー類を慣れた手つきで動かし、目いっぱいアクセルを踏み込んだ。

エンジンが大きく唸りを上げ、タイヤが地面を踏みしめながら走り出す。装甲車は獣道とも言えないような道無き道、いや森の中を強引に突き進みながら、目的地らしき方向へ走っていった。


思いのほか安定した走行を見せる車に揺られること、おそらく数十分。窓の外を眺めていると、いつしか見覚えのある景色が見えてきた。

「…さて、そろそろ君の家だ。先程も言った通り、しばらくここには戻れないからね。忘れ物のないように」

「ええ、分かってる。すぐに戻るわ」

…本当は、寂しくないと言えば嘘になる。今までずっと暮らしてきた家を離れ、知らない人と土地で新しく過ごすのは。

ママは怒るだろうか。それだけが唯一の気がかりだ。

車は家の前で緩やかに停車した。車から降り、玄関のドアをいつも通り開ける。

……予想はしていたが、家の中には誰もいなかった。まあ、ママは今日から2日間出張で家を空けるという話だったし、不思議な事は何も――

「…これは?」

朝に家を出た時と、一つだけ違うところ。何も無かったはずのテーブルの上にあったのは、一輪のアネモネが刺さった花瓶と、封蝋で止められた手紙。…封蝋のマークは、この家の家紋だった。

「もしかして…ママ?」

手紙を手に取り、それを見つめる。

まさか、1度帰ってきたのだろうか。しかし、ならば何故今居ないのだろう。いや、もしかしたら第三者と言う可能性も…

「…いや、読んでみなくちゃ、分からないよね」

おそるおそる封を剥がし、封筒から中身を取り出す。

手紙の字は、紛れもなくママのものだった。私に宛てたものである事も間違いないだろう。

意を決して、文を読み進めていく。

手紙には、こう書かれていた。


リコリスへ

まずはこんな形で伝えなければならないこと、ごめんなさい。本当なら、あなたに直接話さなきゃならないことばかりなのに、それを許してくれる時間がないの。

あなたはこれから頂花戦争という争いに参加することになるでしょう。それは誰も経験したことの無い、凄惨な戦いになるわ。

でも安心して。あなたの周りには必ず、頼もしい人たちが現れるはずだから。特にアコン、あの人は信用して大丈夫よ。気難しい人だけど、本当はとても優しい人だから。

それから、これからしばらくあなたとは会えなくなるわ。これも本当にごめんなさい。あなたにはつらい思いをさせることになるけど、いつかまた必ず会える日が来るから。それまで、あなたの成長を楽しみにしている。本当はあなたと一緒にいたい。でもどうしても会えない。あなたがこの世界を見て聞いて、そしてどんな事を思って、何を考えて、どの道を歩くか。それを、とても楽しみにしているわ。

あなたの帰りをいつまでも待ってる。その日をずっと、楽しみにしている。


――いつの間にか、頬を涙がつたっていた。

悲しいからではない。むしろ、ママからの言葉に安堵したのだろう。

ずっと張り詰めていた気持ちがほぐれ、いつしか涙は嗚咽へと変わっていた。

衝撃はあった。ママがこの戦争を知っていたであろうこと、しばらく会えなくなること、そしてこれらを黙っていたこと。

でも、それ以上に嬉しかった。それが何故なのかは分からない。しかし、ママの気持ちは、その愛情は、変わらずそこにある。

それだけで十分だった。

「…忘れ物、無いようにしなきゃ」

手紙を読み終わると、涙を拭いて、急いで荷造りを始める。大き目のカバンを引っ張り出し、必要になりそうなものをどんどん入れていく。

服を詰め、道具を詰め、読んだばかりの手紙を詰める。それから、倉庫の奥から黒い横長のケースを取り出し、中身をさっと確認してロックをかける。

「うん、これだけでいいかな」

移動中に男から旅の概要は聞いていた。不足があっても、行き先で補えるだろう。

一通りの荷物をまとめてリビングに戻る。見慣れたはずの我が家なのに、いざ旅立つとなると名残惜しいものだ。

窓ガラス越しの柔らかい月明かりが、部屋を静かに照らしていた。

「…絶対、戻って来るからね」

不安はある。疑念もある。

しかし、それ以上に今の私を満たしているのは、今まで経験したことの無いほどの大きな決意だった。自分の使命を果たすため、そして自分の願いを叶えるために、この戦争に参加する。その最後に私は何を思ってどうするか、今はそれが少し楽しみだ。

深呼吸をする。とても長いであろう、新たな旅の始まりに期待を膨らませる。

覚悟は出来た。

「…行ってきます!」

玄関のドアを開け放ち、男の元へと向かう。

ここからが、私の旅の始まりだ。


手紙の最後には、こう書いてあった。

「いってらっしゃい、リコリス。あなたに、花々の祝福があらんことを。」

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