序章 春夢の終わり

第1話 警告


ヒバリが鳴いている。

ようやく訪れた春の日差しの元でめいっぱい羽を伸ばし、喜ぶように、歌うように、さえずりながら高々と空を舞っている。昨夜の大嵐はいつのまにか過ぎ去り、頭上に広がる空は洗い立てのような晴天を見せている。

「んんっー……ぷはっー!」

勢いよく両手を天に掲げ、身体を思いっきり伸ばす。朝露に濡れる雑草のカーペットを歩きながら吸い込んだ空気はわずかに暖かく、ついに冬が明けたことを示していた。

「ママー!早く来てー!」

白いワンピースを揺らし、振り向きながら後ろの人物へ声をかける。森の中にひっそりと佇む小さなログハウス、その玄関の近くでこちらを微笑みながら見つめる人物。

「はいはい、ちょっと待ってね」

日傘を差し、その人物はゆっくりと歩きながら空を見上げる。

「あら、久しぶりの晴天ね」

「ねー!何日ぶりだろー!」

「洗濯物がよく乾きそう。リコリス、手伝ってくれるかしら?」

「うん、もちろん!」

ママは緩やかな笑みを浮かべ、後ろのログハウスへと戻って行く。私もその後を追って我が家へと戻る。


私の名はリコリス。私とママはこの森に2人で住んでいる。

物心ついた頃からこのログハウスで暮らしており、いつもは家の周りに広がる果てしない森で遊んだりして過ごしている。父親は生まれたときからいない。

ここ数日はずっと雨のせいで家で大人しくしていたが、ようやく目いっぱい遊べそうだ。

「ねえ、これが終わったら森で遊んできていい?」

溜まりに溜まった大量の洗濯物を1つずつ伸ばしながら、隣のママに問いかける。

「ええ、もちろん。しばらく退屈だったでしょう?」

「ううん、ママの持ってきてくれた新しい本があったから平気だった!」

「そう、それなら良かったわ」

2人で笑いながら、手元の服を次々に干していく。すぐに物干し竿は埋まっていき、久々に太陽の光を浴びる服達は少し強めの春風に揺れる。

「そうだ、次はいつ街に行くの?」

「そうね、ママのお仕事が一段落したらね」

「えー!ママはいつもお仕事で街に行っててズルいー!」

「はいはい、すぐ終わらせてお休みもらって来るからね」

頬を膨らませながらの抗議に、苦笑いしながら宥められる。

「じゃあ約束!来週の日曜日に行こ!ね?」

「分かったわ、日曜日ね」

「やったー!約束だからね!」

そんな話をしていると、あっという間に全ての洗濯物は干し終わってしまった。


「さて、じゃあママはお仕事に行ってくるわね」

いつの間にか大きめのバッグを手に持っていたママ。

「うん!行ってらっしゃい!」

そう言うとママはニッコリ笑い、家の傍に停めてある車へと乗り込む。

エンジンがかかり、煙を吐きながら低く鳴り始める。ママは運転席からこちらを見ると、優しく笑いながら軽く手を振り、そのままハンドルを握る。

一際大きくエンジンが吠え、車は森の外へと繋がる砂利道を走り出す。

あっという間に小さくなる車の後ろ姿を眺めながら、また1人で留守番する事を考えると、少しだけ寂しいと思った。


いつもの日常。変わらぬ風景。

それで良いのだ。今の暮らしに不満は無いし、私は十分幸せだ。いつものように果てしない森で遊び、美味しいご飯を食べ、ふかふかのベッドで眠る。それだけで十分だ。

ただ一つだけ贅沢を言うなら、もっとこの世界を知りたい。今の私の世界はこの森と、時々ママが持ち帰って来る本だけだ。ここ以外の世界を、人が行き交う街を、生命が立つ大地を、無限に広がる海を、どこまでも続く空を、目と耳で、自分の身体で、全身で味わいたい。

何が待っているか、どんなことがあるかも分からない。しかし、それを自分の全身で感じた時、自分は何を思うだろうか。世界の全てを知った時、自分は何を感じるだろうか。それを知りたい。

いつか必ず、叶えたい私の夢だ。


「さーて、今日はどこに行こうかなー」

洗面台で顔を洗いながら、森の地図を頭の中に描き今日の行き先を決める。この森は季節によって全く違う景色を見せるため、いつも新しい景色を見る事が出来るのだ。

鏡を覗き込むと、後ろで束ねた薄い桃色の髪と、真っ赤な瞳が映る。

…そういえば、いつも春になると一面に花を咲かせる場所があった。少し遠いが、毎年色とりどりの花々が咲き乱れ、その時その時によって全く違う表情を見せるのだ。

せっかくだし、今日はそこに行くとしよう。

そう思い立つと直ぐに靴に履き替え、玄関を飛び出し、そのまま真っ直ぐ花畑への道を走る。

頬を刺す空気はまだひんやりとしているが、雪が降り続けていた時に比べればかなり暖かくなった方だ。木々や土の香りが鼻をくすぐり、改めて季節の変化に少しだけ笑みが漏れる。

木の根を飛び越え、茂みをかき分けながら進む。一際大きな風が吹き、森が大きくざわめく。

「…あれ?おかしいな…」

妙だ。今日の森は静かすぎる。

いつもこの時期はいくつかの鳥の鳴き声が聞こえてくるはずなのに、それが全く聞こえない。先程から天高く舞っていたはずのヒバリも、いつの間にか居なくなっている。静かな森は好きだが、ここまで不気味なほどに静かだと少々不安を感じる。

「…とりあえず、花畑まで行ってみよう…」

嫌な予感がする。急いだ方が良いだろう。


「はぁ…はぁ……なんで…」

その花畑は例年とは全く違う光景だった。

なだらかな丘の辺り一面は、怪しくも鮮やかな赤紫色の花で一色に染まっていた。地面から膝くらいの高さがある低木を埋め尽くすように、八重咲きの花達が咲き乱れている。迫力すら持つその花々は所狭しと並び、他の花々は一切見えない。香る甘い匂いはとても濃く、もはや鼻が曲がるほどだった。

「これは…キョウチクトウ…?」

キョウチクトウ。主に夏に花をつける低木だ。

環境の変化に強く繁殖しやすいため森でもよく見かけるが、こんな冬明けに大量の花が咲くことはまずありえない。

この数日の大雨と強風で急に育ったのだろうか。しかし嵐が来る前日にも1度来たが、その時は多数の雑草が生えているだけで、低木の影は1つも無かった。しかも短期間でこんな大きさに成長するなど、それこそ到底考えられない。

恐る恐る手を伸ばし、花びらに触れてみる。特に変わった様子は無く、花自体は何の変哲もない普通のキョウチクトウのようだ。しかしながら、それを支える茎はあまりにも低すぎるし、葉も通常より痩せほそっている。

やはり、どう見ても異常な事態だろう。

「…とりあえず何か記録に残した方が良いかな」

ママが言っていた事を思い出す。もし森に異常が発生したら、可能な限り記録に残すこと、と。その意味は分からないが、そうした方が良いような気がする。

しかし今、手元に記録できそうな物は無い。1度家に戻って何か取ってくるべきだろう。

そう決めるとすぐに振り返り、今来た道を再び全力で走り出す。

既に森は静まり返っており、鳥の鳴き声どころか生物の気配すらも全く感じない。いつも遊び慣れている森のはずなのに。生まれ育った場所のはずなのに。今だけは、全く違う場所のように感じる。

腕が震える。悪寒がする。息を切らす口から、焦燥交じりの吐息が漏れる。


……ブロロロロロロ…


「―ッ!この音…」

風に乗って聞こえてきた音。自然のものでは無い音。

この森にこんな音を発する物は、一つしかない。

「ママ…!」

車で帰ってきたのだろうか。忘れ物?

何にしても丁度良かった。早くママに知らせないと。

少しだけ安堵の笑みがこぼれる。不安と恐怖で満たされていたはずの心が、少しだけ和らぐ。

あと少し。あと少しで、いつものママの姿があるはずだ。

茂みの先の光へ飛び出した、その時だった。


「動くな!」

野太い男の声が響く。

思わず足を止めた先に広がっていたのは、期待を裏切る光景だった。

「…こちら第3班、目標を確認。これより確保する」

眼前に立つのは、薄灰色の迷彩服とプロテクターに全身を包んだ男。顔は黒いゴーグルとヘルメットで口元しか見えず、肩からは鈍く黒光りするライフルが一丁下がっている。

男の後ろには、ログハウスの前に停められた四人乗りの装甲車が。

「…誰なの…あなた…」

この男は誰。何故ここに。どうして。一体何が。

「お前がリコリス…でいいんだな。抵抗しなければ痛くはしない。大人しく捕まれ」

言葉の意味が理解できない。ただ、疑問と焦燥のみが頭を埋め尽くす。

「何を…言って…あなた達は…」

「今は理解できなくてもいい。黙って従え」

男はただ冷淡にそう言い放つ。

どうする。男は確保と言った。目的は分からない。でも逃げたほうが良い。そう直感が告げている。

確証があるわけではない。ただ、彼らについていけば何か良くないことが起きる。それだけは分かる。

速くなる鼓動を無理やり押さえつけ、呼吸を整える。

「…余計な事を考えるなよ、俺達も君に危害は加えたくない」

男が少しだけ語気を弱めた。

…森の中に入れば、彼も容易に追ってくることはできないだろう。この森の事は知り尽くしている。地の利があれば、逃げ切ることも出来るかもしれない。

「さて、答えを聞こうか」

ゴーグルの向こうから鋭い眼光が飛ばされる。

「…ごめんなさい。ママに、知らない人について言っちゃダメって言われてるの」

その言葉を聞いた途端、男は少しだけ悲しそうな声で呟いた。

「…そうか…いい教育だな」

少しだけ息を深く吸い込み、私はこう口にした。

「じゃあね、おじさま」

そう言い終わった途端、ぐるっと振り返り、私は全力で走りだした。


「全く…手間のかかる子供だ…」

後ろで大きなため息をつく男が、素早くハンドサインを出すのが見えた。

同時に、茂みから今まで隠れていたであろう同様の装いの人物が二人飛び出し、背後から追ってくる気配がした。

二人の狙いは左右からの挟み撃ちだろう。しかし、今走っているこの場所は地形の起伏が激しいため足元を取られやすく、簡単に追い抜けはしないはずだ。この森での鬼ごっこなら負けな――


「……っ!」


突然、左足が吹き飛ぶような激痛が走った。

思わずその場に前から倒れこむ。目の前が真っ白になるほどの痛みが全身を駆け巡る。すぐに立とうとするが、足が鉛のように重く動かない。

左足を見ると、小さな赤黒い穴がぽっかりと開き、そこから血が流れだしてるのが見えた。

「くっ…うう……」

どうにか動かそうとするが、少し動かしただけで全身を貫くような激痛が走る。尽きることのない、痺れるような感覚と果ての無い痛みが幾重にも響く。

「…だから言っただろう、君に危害は加えたくないと」

先程の男が頭上から見下ろす。肩から下がっているライフルからは、微かに硝煙の匂いがした。

「…あなたたちは、何が目的なの…」

「意味の無い問いだな。俺達傭兵の意義は、ただ依頼主の目的を果たすためだけにある」

「依頼主…?」

「詳しい事情は俺達も知らない。だから君に情をかけることも出来ない」

男の目に、少しだけ悲しそうな気持ちが見えた気がした。

「おしゃべりは終わりだ。連れて行け」

男がそう言うと、後ろの二人が近づいてくる。片方はいつの間にかロープを持っており、もう片方は懐から注射器のような物を取り出しているところだった。

「…ごめんね、少し眠っててもらうよ」

注射器を持つ男が口を開いた。優しげな、若い男性の声。

馴れた手つきで薬液を充填し、針を左腕にそっと押し当てる。鋭い痛みとともに針が突き刺され、何かの液体が体内へと流れ込んでくる感覚が伝わる。

数秒後、唐突に強い眠気が頭を襲う。

「隊長、傷の手当もしてあげて良いでしょうか?」

注射器を抜いた男性が、恐る恐る後ろの男に問いかける。

「ダメだ、後にしろ」

「…了解です」

男性が渋々引き下がったのを確認すると、ロープを持つ最後の男が近づいてくる。

痛みと眠気でピクリとも動かせない手足をキツく縛り、最後に黒い布を頭へと巻き目隠しをする。

「第3班、目標を確保。帰還する」

隊長と呼ばれた男が淡々と口にする。

未だに激痛は全身を走っているのに、意識は段々と遠のいていく。肌の感覚や音、匂いは少しずつ遠のき、深い眠りへと誘われているのが分かる。

「……ママ…」

その言葉を最後に、朦朧とする意識は深い海へと引きずり込まれた。




……


…………


………………体が揺られる感覚。微かに聞こえるエンジン音。


「……だ間に合う!急げ!」


「…早く!邪魔が入らないうちに!」


大人達の怒号。抱えられる感覚。


「…をしている!その少女は…」


「……の子をこちらに引き渡…」


銃声。


リズミカルな音が幾重にも響く。小太鼓を叩くような、命を撃ち抜く音。




生臭い鮮血の匂い。人の断末魔。


「…ずい!『黒薔薇』が発動して…!」


金属のめくれる音。

再び絶え間なく響く銃声。

誰かの断末魔が漏れる。

続くように、いくつもの生臭い匂いが流れる。

やがて突然音は止み、静寂が再び闇を包む。



「……ん」

あれ。何してたんだっけ、私。

深い水の底から、水面に顔を出したような感覚。五感が次第に明瞭になっていき、意識の輪郭がはっきりとしてくる。

「そうだ、私、男の人たちに捕まって、それで…」

頭にかかるモヤが晴れていく。それで、確か…

「…ここは?」

ようやく自分が全く知らない場所にいることを知る。

肌寒い、暗い空間だった。どこかの施設だろうか、金属製の床と壁がずっと続く通路だ。しかし頭上の照明は全て沈黙しており、点々と壁へ取り付けられたオレンジ色のランプだけが寂しげに光を放っている。

「何?ここ…」

廊下の先では暗闇が口を開けており、突き当たりは見えない。反対側は…

「……嘘でしょ」

真っ黒な、薔薇のツルの塊が通路を天井まで塞いでいた。

金属の床を割って下から生えてきたらしい薔薇は、花どころか葉や茎まで真っ黒に染まっており、その奥が見えない程まで厚く重なり合って道を塞いでいる。

「なんなの…これ…」

言葉にしがたい不気味さと威圧感。ただの薔薇では無いことだけは確かだが、何もかもが分からなすぎる。

「とにかく…出なきゃ…」

ゆっくり立ち上ると、左足に鈍い痛みが走る。

「ッ…痛たた…」

左足を撃たれていた事を思い出す。しかし、あの時のような激しい痛みではない。

「…?これは…」

傷口を見ると、いつの間にか黒い布切れが巻かれてあった。あの男達が巻いたのだろうか。しっかり縛られているお陰か、既に血も止まっているらしい。

とにかく、もう動けるだろう。

ゆっくり立ち上がり、壁をつたいながら一歩一歩進みだす。


施設内はずっと同じような景色が続いていた。

冷たい床や壁と、所々にある扉。しかし、どこにも人の気配は感じない。

延々と続きそうな道だが、何故か行き先は分かっているような気がした。

通路を少し歩くと、強固そうな鉄の自動扉があった。隣では水色のタッチパネルが光っており、まだここは電気が通っているらしい。

「……どうすれば…」

行き止まりか。とりあえずパネルに触れてみる。と、

「―認証しました。ロック解除します」

無機質な電子の声が響き、「ガチャッ」と強固な金具の外れる音と共に、扉がゆっくりと開き始める。


その先の空間は、思わずため息が出るようなものだった。

広い部屋の壁一面には丁寧に整理された本棚が上まで広がり、天井の照明が照らしている。

部屋の一面は小さなキッチンとなっており、少し離れた所にチェストとベッドが置いてある。

そして、その部屋の真ん中には、小さな丸いテーブルとイスがあり、そこには背を向けた1人の少女が座っていた。

青空のように透き通る薄い青色の髪を腰まで伸ばし、ちょこんと座って分厚い本を読んでいる。テーブルにはクッキーとティーカップが置いてあり、あまり手を付けていないように見える。

「ふう…」

少女が小さなため息と共に本を閉じた。軽く伸びをし、テーブルの紅茶に手を伸ばし―

ピクリ、と小さく身体が跳ね、こちらへと振り向いた。

白く透明な肌と、淡い黄色の瞳。少し驚いたという表情でこちらを見つめている。

不意にフッと笑うと、その少女はこう口にするのだった。


「こんばんは、初めまして。」

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