1582
春水栗丸
プロローグ
光秀はパンツ片手に怒りに震えていた。
この屈辱に耐え続けて早一年、今日ほど限界を感じた日はない。
何が悲しくてこんな丑の刻に汗水垂らしながら上様のパンツを洗濯しなければならないのだ。
天下人・織田信長に重臣として見出された武将・明智光秀。
彼が上様である信長から告げられた命や扱いはとんでもないものが多かった。
結って隠していた一円ハゲを目敏く見つけて、事あるごとに『キンカ頭』と馬鹿にしてきたり(そのせいで秀吉に何度もハゲを探されそうになった)。
徳川家康の饗応役に無理やり任命しておいて手際が悪いと怒鳴り、役を解任して秀吉の援軍に行かされたり(そのせいで秀吉になぜ援軍に来たのかしつこく聞かれた)。
光秀が下戸なのを知っているくせに「わしの酒が飲めないのか」と脇差で小突いて来たり(秀吉はチンパンジーみたいに手を叩いて笑い転げていた)。
なぜか突然山崎まで落とし穴を仕掛けてこいと言われたり(帰ってきたとき、なぜか秀吉が城の入口で大の字になって寝ていた)。
落とし穴の上にかぶせる熊の皮を剥ぐのがどれだけ大変だったことか。
そして極めつけが、これだ。
「き、光秀よ。これからはお前がわしの魂を清めるのだ」
と、言って、大真面目な顔でお気に入りのパンツのお清めを命じてきた。
大一番の戦の時に、必ずお召しになる苺柄のパンツだ。
口を開けたまま返事もできずに固まっている光秀の頭に、天下人の魂(パンツ)を乗せられたことは今でも鮮明に覚えている。
羽柴秀吉は窒息するのではないかと思うほど必死に自身の口を塞いで笑いをこらえ、森蘭丸は指をくわえてこっちを見ていたことも。
あと絶対キンカ頭って言おうとしたよね。
それからというもの、光秀は律義にも戦があるごとに信長の魂(パンツ)を洗濯していた。
今日もそうだ。
ここ、本能寺で道具開きの茶会を開くために38点もの名器を運ばせ、酒宴まで開いた。
その後もなんやかんやと楽しんだ信長は、入浴後に当たり前のように彼に苺のパンツを手渡したのだ。
信長の就寝を見届けた後、光秀はいつものようにこっそりと外の井戸までパンツを洗いに来たのだ。
思い出したら腹立ってきた。
ちょっと仕返ししてやる。
光秀はにやりと笑ってパンツの端に火をつけた。
五分かかった。
蘭丸なら一分なのに。
森蘭丸。
信長公に見出された麗しい剣士。
彼なら火をつけることなど造作もない。
料理もお酒の嗜みも髪の毛の手入れもお手の物。
そう、全ては信長公のため。彼ならきっと魂(パンツ)の洗濯も快く引き受けただろう。
なんでもして、なんでもできるのだ。
どっかのキンカ頭と違って。
ぱっと手を離すと、その布はぽとりと砂利の上に落ちた。
大事な大事な苺のパンツをちょっと焦がしてやろう。
早朝にでも叩き起こして謝ればいい。
きっと罵詈雑言を駆使して怒り狂ってくるだろうが、困り顔が見られるならそれでいい。
深々と頭を下げて謝り、口許だけで笑ってやるのだ。
光秀は肩を揺らしてくつくつと笑う。
遠征から帰ってきた秀吉が、顎が外れそうなほど口を開けた顔まで浮かんできた。
自分の妄想に浸っていた光秀の鼻がひくりと鳴った。
焦げ臭い。少々火が大きすぎたか。
そろそろ消そうかと顔を挙げた。
瞬間、息が止まった。
壁が燃えている。
パンツにつけた火は器用にも砂利を伝って壁に火をつけていた。
光秀は素早く井戸の水を汲んで壁にかける。
だが、彼より頭一つ分高いところまで燃え上がっていた炎は消えない。
それどころか炎は両手を空に掲げるように、縦横無尽に広がっていく。
光秀は腰を抜かしてへたり込んだ。
そのうちに寺から危険を知らせる怒声が轟いた。
気が付くと、炎は城壁のように高い本能寺全体を包んでしまっていた。
下を向くと、端だけが焦げたパンツが落ちていた。
木が力任せにへし折られる音が響く。
火のついたふすまや瓦が落ちてくる。
炎が嵐のような音を立てる。
微かに人々の悲鳴が聞こえ、遠くで女や武将、茶会に招待した坊主たちが転がるように逃げ出す姿が見えた。
その中に、見知った武将も何人かいる。
ふと、上を見上げた。
炎に包まれた寺の中、槍を構える人間が見えた。
信長だ。
こっちを見た。
地面にいる光秀としっかりと目を合わせ、信長は口許だけを緩めて笑った。
息が止まったのはこれで二度目だ。
視線を水平に戻した。こっちに向かって走ってくる人がいる。
髪はぼさぼさで、着物もぐちゃぐちゃ、走り方もめちゃくちゃだが、間違いない。
蘭丸だ。
「おい! 光秀!」
駆け寄り、ガラガラの声で怒鳴る。
「お前の仕業だろう!」
「な、なんで……」
「信長様がおっしゃった。炎の上がってきた方向から見て、火の手は井戸の近く。この時刻にいるのは光秀だけだと!」
「あ、いや、それは、そのぉ……」
震える両手を突き出し、なんとか否定しようとする光秀。
そんな彼の胸倉を蘭丸は引き千切るかのようにつかみ、引き寄せる。
「まさかお前がそんなことをするなんて夢にも思わなかったぞ、光秀。我々は信長様に見出され、目をかけて頂いた。その恩を忘れたか!」
目を剥きだすように血走らせ、蘭丸は胸倉をつかんだ手を怒りに震わせる。
今にも全身から炎を吹き出しそうな激高を全身に浴び、光秀は舌が回らない。
「ち、ちが、本当に、違うの……!」
「なんでお前のような、き、恩知らずが今の今まで信長様の魂(パンツ)を……許せぬ!」
そこかよ。
しかもキンカ頭って言おうとしたよね。
そのとき、再び木の折れる音が響いた。見上げた先、信長のいたところは、もう炎しか見えない。
蘭丸は目を見開いた。力任せに光秀を突き飛ばし、音程の定まらない悲鳴を上げ、頭を振り乱しながら闇の中へと消えていった。
「光秀様!」
楽しそうな声がした。一人の侍が鉄砲を振り回しながら走ってくる。
「は? 何? どうしたの?」
戸惑う光秀の前に膝をつき、侍は言う。
「光秀様、本能寺は我ら明智軍が包囲致しました!」
「は? なんで?」
素っ頓狂な声を上げる光秀に、侍は首を傾げる。
「言ったじゃないですか。信長様の茶会の最後を盛り上げるために、一万の兵を準備しろと」
忘れていた。
「まさかこういうことだったとは。流石は光秀様です」
ん?
光秀は目を丸くした。
侍は高らかに宣言する。
「これより明智軍は御殿に鉄砲を撃ち込みます!」
「なんで!」
光秀は焦った。そんな物騒なことなど、今回に限っては一切頼んでいない。
「何をおっしゃいますか。これは光秀様がお作りなった好機ではございませんか!」
こいつは何を言っているんだ。
咎めたくても声が出ない。
「まさか信長の就寝を待って火を放つとは。腰抜けの武将どもは皆逃がされ、残るは奴一人。この炎の中なら生存も絶望的でしょう。そうなれば、天下人はあなたです、光秀様!」
光秀は青くなった。
侍は勘違いしている。
これは謀反ではない。
ただの仕返しなのだ。
「敵は本能寺にあり!」
「いやいや、ちょっと待って! そうじゃないって! 本当に違うの!」
侍が鉄砲を天に向けた。
まるでそれが合図かのように、銃声が鳴り響く。
炎に照らされた夜空に銃弾が飛び交う。
全身が震え上がった。まぬけに歪んだ口からは乾いた息しか出てこない。
天下人?
自分が?
まさか。
いっそのこと蘭丸が消えた闇の中に、自分も今すぐ走って逃げ出したい。
光秀は信長がいた場所で暴れる炎を吸い込まれるように見つめていた。
続けたい。
1582 春水栗丸 @eightnovel0808
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