第15話 バイト
「ひー。さすがにきつかったー」
もみじは山頂に着くや否や、縦に真っ二つにした丸太を組み合わせたようなベンチに倒れこむようにして座り込んだ。
ノーフレームの眼鏡をはずして汗をぬぐいながら、今期推しのアニメキャラがデザインされた団扇であおいで風を送っている。ここに知り合いはいないから、問題ない。
ここも山アニメの聖地のひとつのためか、デフォルメされたフィギアであるねんどろいどを置いて一人で写真を撮っている男性がいた。年齢は三十代くらいだろうか。
僕ももみじの後ろに腰掛けて伸びをし、背中を後ろにそらす。
「昔行った高尾山と比べるとずいぶんときついねー」
「まあね。高尾山より標高は高いし、道もきつい。でも……」
白い馬のような巨大なオブジェが設置されている山頂から、周囲を見渡した。
高尾山と違って近くに大きな建物も山もないので視界が大きく開けており、この季節は山の緑が輝くような色を放っている。
山頂の下草は浅緑、稜線は若葉の新緑。さらに木の種類で微妙に緑色に違いが出るのが面白い。遠くにぽつんと見える竹藪は翠色だ。
「景色はいいね……」
額やうなじに栗色の髪を汗で張り付かせたもみじが目を細めて見入っていた。
山に登るのはきつい。足は痛いし、息は切れるし、喉は渇くし、学校や町中と違って近くにトイレすらない。
でも山頂に登れば街中にいては決して見られない景色が見える。味わえない風がある。
景色を見て、風に身を任せているだけで来てよかったと思える。
「それに安心できるねー」
もみじが周囲に視線を巡らせた。
「うん。木とかきれいな空とかを見てると、ほっとする」
「それもあるけど、そうじゃなくて。あたしが言ってるのは、人間の方だよ」
もみじの顔が陰を帯びる。コンプレックスとか、トラウマとか、そういうのを必死に隠して隠してそれが習慣と化してしまったような顔。
もみじはそれから堰を切ったように話し始めた。
「学校だと必ずリア充グループというか、陽キャって感じの人が目に入るから。そういう人を見てるのが、辛くて。青春してますって言う感じの人を見ると、怖くて」
「キラキラしてる感じの人、特に同年代の男女が妬ましくて」
「葛城さんは悪い人じゃないけど、常に場の中心にいるっていう感じを見てると、自分が下の人間に思えてくる。クラスの影響力だって段違いだし。あたしが何を言っても耳を貸さない人たちは、葛城さんの言うことなら聞いて、本当だって思って、さらに葛城さんの言葉をSNSで流す」
「あたしと喋ってる内容はそんなに変わらないはずなのに、なんでここまで扱い違うんだーって、ときどき無性に叫びたくなって」
「だからこの前の時、谷風と顔を合わせづらくて、友達なのに何もできない自分が申し訳なくて、上手く言葉が出なくなって」
もみじはそこで言葉を切り、あらためて周囲を見渡す。
オブジェがある山頂にも、眼下に広がる芝生のエリアにも、近くの茶店にも、いわゆるリア充っぽい人はほとんどいない。いてもごく少数で、彼らがこの場の主役ではない。
「そういう人がまずいないから、ほっとする。中年や老人、家族連ればっかりだからあくまで『他人』って目で見られてラク」
僕はそんなもみじを止めることもなく、黙って見ていた。
喋り終わって、後悔したような目で僕を見たもみじ。
僕は何も言わず、予備で買っておいた麦茶のペットボトルを差し出した。
もみじが飲み終わって、少し落ち着いたところを見計らってそっと声をかける。
「僕で良ければ、また話聞くよ」
もみじの目にうっすら涙が浮かんだような気がしたけど、すぐに満面の笑みを浮かべた。
もみじの愚痴を聞いて、彼女が落ち着くのを見計らってから景色を堪能した後は、山頂の小屋で茸、山菜など具沢山の蕎麦を注文する。もみじも同じものを頼んだ。
いただきます、をするときにもみじが軽く頭を下げる。すごく綺麗な頭の下げ方なのでびっくりしたくらいだ。
そういえば、以前屋上に続く踊り場で話した時もお辞儀がすごく丁寧だった。躾がしっかりしている家なのだろうか? それにしては娘のオタク趣味に寛容だけど……
それとも、バイトに関係しているのだろうか。
蕎麦の具は、胃に優しい具材ばかりなので疲れた体でも食べやすい。
冷たいと胃腸にくるので、夏だけど温かいそばを選んだ。
僕は七実を入れるけど、辛いのが苦手なもみじは入れない。
休憩して、おなかが落ち着いてくると会話が弾んでくる。
とりとめもないこと、くだらないこと。
時間の無駄だとさえ思っていたこともあった「会話」というものが、今は楽しく感じる。
今ならば、聞けるかもしれない。答えてくれるかもしれない。
でもせっかくの楽しい空気を壊してしまうかもしれない。
それでも、知らないままは嫌だから。
彼女をもう、疑いたくはないから。
中学の時にいじめられて、裏切られた経験。だから隠し事をされるのがたまらなく嫌だっ
た。
だから僕はもう一度尋ねる。
「バイト、どう? 上手くやってる?」
もみじの箸を動かす手が止まる。その瞬間、空気が凍り付いたのを感じた。
やってしまった。
空気が読めないから、空気を壊してもフォローの仕方がわからないから、ぼっちでいじめのターゲットにされるのだろう。
もみじの反応が怖い。
キレるのか、無言で席を立つのか、そして僕と二度と話さなくなるのか。前みたいに何も返さずに曖昧に笑うのか。
でも、もみじの反応は。
僕が想像していたどれとも違っていた。
「ま~、ぼちぼちかな…… みんな、いい人だし…… 結構きついけどね。頭下げることも多いバイトだし。研修でだいぶお辞儀の仕方とか、言葉遣いとかは指導されたけど」
その言葉を聞いて、もみじの苦笑いしながらも答えてくれる様子を見て。
すごく安心した。
胸につかえていた重しがすっと抜け落ちたように、心が軽くなる。
何のバイトかは詳しくは教えてくれなかったけど、会話の内容から察するにヤバいバイトではなさそうだ。
今はこれで十分だと思った。
前よりも、もみじが答えてくれたことが嬉しかった。
踏み込んでも、拒否されたり白けられたり見下されたりしないのが嬉しかった。
なぜ今回は少しだけバイトについて、少しだけ話してくれたのか考えたけど。
葛城さんのこととか、色々あって、気まずくなって、それでも関係が途切れなくて。前よりもお互いに信頼できる関係になっていた、からだろうか。
もみじと陣馬山に行った次の日。
授業の合間に、また薬師寺さんが廊下で話しかけてきた。おしゃれなのか自己満足かはわからないけれど、不自然に長い睫毛が目に付く。
「それで、純子とはうまくいってるしぃ?」
軽い笑顔でそんな風に聞いてくる。
ここ数日、僕と葛城さんについていやにお節介を焼いてくる。
最初は相談に乗ってもらってありがたかったけど、何度も続くと何か裏があるんじゃないかと思えてくる。
自分に得がないことで誰かのために努力する人なんて滅多にいない。
それに本気なのか、冷やかしなのか。ギャルは判断が付きにくい。
いつもは彼女にビビってしまうけど。
「まあ、普通に話してるけど」
でももみじと陣馬山に行って、雄大な自然に触れてだいぶすっきりしたせいか今日ははっきりと返事ができた。
「それだけだしぃ?」
薬師寺さんはまなじりを吊り上げ、声のトーンを落とす。
どうしてギャルっていうのは、こう仕草が大仰なのか。
見ててイライラしてくる。
「うん。それじゃ」
僕はそれだけ言って話を打ち切る。そろそろ次の授業だ。
「ちょ、ちょっと待つしぃ」
薬師寺さんが僕の前に立ちふさがってくる。
彼女はバスケ部なだけあって敏捷で、無理に通り抜けるのは難しいだろう。
でも。
「あんまり長い間話してると、阿久津先輩に悪いから……」
少し声の調子を落とし、俯き加減で言うと。
「そ、それもそうだしぃ」
彼女もそれ以上、僕に絡んでこなかった。
初めて口で、彼女に勝てたと思った。
薬師寺さんから見えない角度で、僕は小さくガッツポーズをする。
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