第9話 山頂

葛城さんのテンパりぶりも落ち着いて、やがてさわらび山よりずっと大勢の人でごった返す山頂に到着する。でも山頂の広場はずっと広く、蕎麦屋が数件に観光センター、立派な公衆トイレに標高がかかれた碑と色々な施設がそろっている。

家族連れ、お年寄りの夫婦などが青づいた紅葉や桜の木にカメラを向けたり、展望台から見える富士山をバックに写真を撮ったりしていた。

「すごい眺め…… 富士山が、あんなにはっきり見える!」

 柵につかまって富士山を眺めていた葛城さんが、目を輝かせて感嘆の声を上げた。

 この声を聴けて、この顔を見られただけでも今日は彼女を連れてきた甲斐があったと思う。見せてあげられて本当に良かった。

 飯能町からよりもくっきりと見える、山頂に積もった雪の隙間から赤茶色の地肌がのぞく夏の富士山。

 緑色一色の近くの山々から突き出るようなその威容は、心にじんわりと染み渡るような何かをもたらしてくれる。

 富士山は日本の象徴という表現は決して誇張ではないと思う。

 だからこそ太古の昔から崇められ、今は富士山を観光に訪れる外国人も多い。

 初めて富士山に登った時、山頂で雪のように真っ白な雲海と、それを染め上げる茜色の朝日を見ながら「ジャパン・イズ・ビューティフル」と感嘆していた人を今でも思い出す。

 葛城さんも、富士山の威容に見入っている。

 自分と同じものを見て、同じような感動を抱いている。

 それを間近で感じられることが、こんなにも嬉しいことを初めて知った。

 周囲の喧騒も、話し声も聞こえなくなるほどに富士山と葛城さんに意識が集中していく。感動に身を任せて、嫌なことをすべて忘れていく。

 でも、変わらないものなんてない。

「少し雲が出てきたね……」

 登り始めたころは快晴だった空。今、風上から徐々に出てきた灰色の雲が太陽に覆いかぶさろうとしていた。 

「山の天気は変わりやすいから。昼ごはん食べて、少し休憩したら降りようか?」

「さんせー。どこか、座れそうなところは……」

 葛城さんが首を巡らせて、周囲を観察する。

 休日なだけあって数少ないベンチは屋根のないものまで、すでにいっぱいだった。腰掛けるものと言えば木を植えた周囲を覆う石くらいしかない。

 でも葛城さんは、嫌な顔一つせずそこに座ろうと勧めてくれた。日差しで炙られた石は、結構熱かったけど座っているうちに慣れた。

 葛城さんはお茶の入ったペットボトル、僕は麦茶を入れたマイボトルを出して口をつける。しょっちゅう山に登るとペットボトル代だけでも馬鹿にならない。

 それからお互いにザックから昼食を取り出した。

 僕は自分で握った梅、おかか、しゃけのおにぎり。一つ一つが海苔でくるまれ、僕の拳ほどの大きさがあった。

 葛城さんは学校でも使っていそうな弁当箱に、色とりどりのおかずを詰めていた。

「おにぎり三個…… 豪快で男の子って感じだね。お母さんが作ってくれたの?」

「いや…… 自分で作った。お母さんは昨日夜勤だったから朝帰ってきて、疲れてすぐ寝ちゃったし」

「そういえば以前、お母さんが看護師だって言ってたっけ。立派だね」

「まあ、ね…… だから簡単な料理なら作れる。山に登るときは、昼食は自然に早く作れておなかに溜まるおにぎりが多いね」

「でもそれだけだと寂しくない?」

 葛城さんはミートボール、ひじきの煮物、プチトマト、卵焼きなど色とりどりのおかずと僕のご飯の白と海苔の黒だけの二色のおにぎりを見比べて言った。

 あ、そうか。

 いつも一人で行くから気が回らなかった。

 自分は色とりどりの食事で、相手が質素だったら気になるよね。

 葛城さんは自分のお弁当と、僕のおにぎりを見比べながら少し申し訳なさそうなかおをしていたけれど、その顔をいたずらっぽいものに変えた。

 赤いプラスチックのお箸で、卵焼きを一つ挟む。

 そのままうっすらとリップを引いた光沢のある唇へと持っていき。

 その直前で箸を止めて、向日葵の花のように明るい笑顔で僕の下へ差し出した。

「はい」

 彼女のいたずらっ子のように細められた、やや切れ長の瞳が僕のことを見つめている。僕と彼女の間には、赤い箸に挟まれた卵焼き。

 どこかで見た光景だけど、決して僕が体験するはずのない出来事。それが今目の前で起こっている。

 事態の急転についていけなくて、僕は一瞬思考がフリーズした。

「あーん、だよ?」

 具体的にどうするかは言ってくれたけど、頭が追い付いていかない。

 なんで? なんでこんなことを?

「一度やってみたかったんだよね~。谷風君、あたふたして面白―い」

 葛城さんはやや切れ長の目を細めて笑う。

 でもそれは、僕のことをバカにした笑い方じゃなくて。

 純粋に楽しい、って思ってるのが伝わってくる。

 だから、僕も我慢できた。

「はむっ」

 恥ずかしいのを、我慢できた。

彼女の卵焼きは、甘い味付けだった。  

 僕がそうするとは思っていなかったのか、今度は葛城さんが真っ赤になった。

「た、谷風君……」

 はじめて、僕の意志で彼女を照れさせることができた。

 あの自信に満ちていつも輪の中心にいる葛城さんが、今は一人の女子として顔を真っ赤にして、目を伏せてうつむいている。

初めて彼女に勝った、と思った。

 だけど。

 彼女が真っ赤になった顔を見ていると、僕のほうまで恥ずかしくなって。顔が熱くて、彼女と目を合わせていられない。

 結局、最後には勝った! っていう感じはしなかった。

ふと、辺りが暗くなる。山の緑もくすんだように陰っていた。

空を見上げる。灰色の雲が晴天を覆い始めて、日はすでに雲の裏側に隠れていた。富士山の手前に見える緑色の山にも影が落ちている。

「そろそろ帰ろうか」

 てきぱきと空になったお弁当箱やペットボトルをザックにしまい、背負おうとする。

 雲も厚くなっていないのに、さっきより周囲がさらに暗くなった気がした。

 同時に、背筋にぞっとするものを感じる。

 それは、僕がよく味わってきたもの。

恐怖という感情。

でも今回のそれは、山という大自然から感じるものじゃなくて。

「おい、何でお前、葛城とこんなところで一緒にいやがる」 

 街が好きで、休日にわざわざこんなところにいるはずのない阿久津先輩だった。

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