ふたりのサンゴ

ノザキ波

ふたりのサンゴ

 その男は、サンゴと呼ばれていました。


 本当の名前は誰も知りません。そして当人も忘れてしまったようでした。ですから、怠け者、だらしがない人という意味の「サンゴ」と、いつの間にかそう呼ばれるようになったのです。


 サンゴはとても長生きで、彼の住む町がまだ荒野であったころからすでに、今と変わらぬ姿でそこにいました。そして先ほど述べたように、怠け者でした。日がな一日海を眺めてはあくびばかりしている、そんな男でした。怠け者のサンゴでしたが町の人から嫌われているわけではありません。ですが好かれてもいませんでした。一切働かない代わりに一切迷惑もかけない、そんな男でしたから、つまりは、誰もサンゴを気にしていなかったのです。サンゴもそれでいい、いえ、それがいいと思っていました。


 そんなある日のこと、いつものようにサンゴが海を眺めていたときのことです。


「こんにちは。」


 サンゴに話しかける者がありました。もちろんサンゴは返事をしません。面倒くさいですから。その物好きは、真っ黒な髪と瞳をしていて、一目見ただけでこの国のものでないことがわかりました。


「ぼく、珊瑚というんです。」


 サンゴは、そこではじめてゆっくりと体を起こしました。ほんのちょっとだけ好奇心がわきました。ですから何か月かぶりにサンゴは言葉を使ったのです。


「怠け者なのか」


 異国の少年は、サンゴが言葉を返してくれたことがうれしくてたまらない様子でした。何がそんなにうれしいのか、サンゴには見当もつきません。


「いいえ。ぼくの国では、海の動物の名前なんです。サンゴさん、ぼくとお話しませんか。」


 それを聞いたサンゴはまた面倒になってきて、もう一度寝転がって、また海を眺め始めました。ですが少年は、それを肯定と取ったのか、勝手に話し始めました。サンゴは、追い払うのも疲れるのでただぼんやりと少年の話を聞いていました。


 ですが段々、少年の話に引き込まれていきました。彼は生来の病気を治すためこの国の祈祷師に会いに父に連れてこられたそうなのですが、彼の生国の話が面白いのなんのって。季節が四つあるだの、あまりに多くの花が咲くから山の色が変わるだの、雨が凍って積もるだの、どこまで本当かわかりませんが、とにかく不思議で、サンゴはいつの間にか彼の話に夢中になっていました。そのうちに日はすっかり落ちていました。少年は、名残惜しそうに、


「そろそろ帰ります。」


 といいました。サンゴはどうやるんだったかと懸命に思い出し何年かぶりに笑顔を作りました。


「またおいで」


 少年は、ぎこちないサンゴのそれとはまったく違うキラキラした笑顔になりました。


 それから毎日、少年はサンゴのもとを訪れました。サンゴは、彼と会うたびに温かい気持ちでいっぱいになっていきました。何百年かぶりに感じるそれは、なんという名前だったでしょう。思い出しました。それは「楽しい」といいました。


 そんなある日、珍しく浮かない顔で少年がやってきました。祈祷の効果がなかったから、また別の国へ行くのだと、彼は寂しそうに言いました。


「いつになったら、ぼくの病気は治るんでしょう。」


 サンゴは、少年の肩に手を置くと、ゆっくりと笑いかけました。少年と会った頃のぎこちない笑みではありません。少年のようにキラキラの光ではないですが、やわらかい光の笑みでした。


「私は長生きだ。治るまで待っているよ。」


 少年は、笑うことができませんでした。涙をぽろぽろこぼしました。いつか病気が治ったら、もう一度必ず会いに来ます。彼は、何度も何度もそう言って泣きました。お別れの日、彼は「珊瑚」のかけらを持ってきました。もう一度会えるまで、ぼくの代わりとして持っていてほしいと、少年は笑顔でいいました。サンゴも笑顔で受け取りました。


 あれから、どれだけの月日が流れたのでしょう。サンゴは今も待っています。珊瑚のかけらを見つめながら。

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ふたりのサンゴ ノザキ波 @nami_nozaki

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