第1話

「いけるだろ。これは」


 数学の補習プリントの裏面にびっしりと書かれた文章。

 それをぼけーっと興味なさそうに眺めていた利根とねぶきは、ふー、と大きくため息をつく。

 そして、そのいつから切ってないのか分からない灰がかった長い長髪をかきあげて、何もかもがめんどくさそうに気だるげなゆるい目つきを、俺の魂のこもった訴状とともにこちらに向けると、


「じゃ、来年も一年生頑張って」

「おい待て。何で俺がもう一年留年することが確定している」

「むしろ何でこれでいけると思ったのかが疑問なんだけど」


 そう言って、進めていた絵の作業の方に戻っていく葉吹。

 それをそのまま放置できるはずもなく、俺は彼女の顔の前に紙を広げて演説を続ける。


「お前はバカにしきっているがな。この訴状を押し通すことができれば、この学校の、いや、ひいては日本の教育システムの革命に繋がるんだぞ。全国の数学という魔物に脅かされる高校生諸氏を救う第一歩になるんだ。救済だ。救済なんだよこれは!」

「救済なら既にその紙の表面になされてるでしょ。他ならない数学教師によって。あーだこーだ言ってないで、とっとと補習終わらせちゃいなよ。あとその紙すごく邪魔」


 葉吹が紙を手で払いのける。


「待て待て、その補習をやる必要をなくすための訴状だ。これが通ってしまえばこんなもの、ただの紙っぺらに過ぎなくなる」

「あっそ。なら留年だね」

「ねえ、結論出すの早くない?」

「早いっていうか、最初から出てるでしょ、こんなの。どこの教師が赤点取った人間の補習を取り消すことに賛成するって言うの。蛍がそのプリントに書いてある問題を解く。それだけで問題解決なんだからそれでいいじゃん」

「いや、そもそもこの補習プリントというシステムは信用ならないんだ。日頃授業中寝まくってる俺のことを、数学の田村がいいように思っているとは到底思えない。これは恐らくヤツによる仕返しであり復讐。俺を苦しめることで奴自身のストレス発散をしようって魂胆だろうよ」

「完全に自業自得じゃん。田村先生もこんなのに付き合わされて可哀想だ……」

「こんなの、とか言うな」


 説得力増強のため、身内からでも仲間を増やしていく作戦だったのだが、誘う相手を間違えたようだ。

 俺の話など完全に話半分にキャンバスに筆を打ち付けていく。

 もともとめんどくさがって聞いていた面もあって、彼女の作業に対する集中度は右肩上がりに伸びていく。何とも悔しい限りだ。

 葉吹が絵の世界に没入していくなかで、ふと美術部室の全体をぐるりと見渡してみる。


 壁一面に描かれた、異様極まるオブジェクトの数々。


 外界との接点は入口と天井に開けられた小さな天窓だけというこの孤立した空間は、それらによって彩られることで、学校でありながら異界じみた雰囲気を醸し出している。

 よく見れば、オブジェクトは人の身体だったり顔だったりするのだが、まるで時空が歪められたみたいにぐにゃりと曲げられていることによって、かろうじてその原型をとどめるに至っている。

 どれもこれもが現実世界における正しい形を成していない。

 しかしこれが葉吹の内なる世界からしてみれば正しい姿なのだろうということは、彼女のその迷うことなき気迫のこもった筆遣いから見て取れるが、驚くべきはその全てが彼女における「落書き」だというところだ。


 利根葉吹は天才だ、といつかどこかの偉い評論家が口にしたらしい。

 天才。

 単純明快すぎるその言葉がその業界の権威から発せられることによって、利根葉吹という才能は瞬く間に崇高な価値を帯びるようになった。

 ここはそんな天才の才能を際限なく引き出すために設けられた、彼女だけのための部屋。

 ウチの学校には美術の授業はないのに、わざわざなんてのが設けられている点からして、学校側が彼女にどれだけ期待をかけているかが測れるというものだ。

 葉吹は現在、生保会社の主催する大きな公募に向けた作品作りに尽力している最中である。ネットでその優勝賞金を見てみたが、正直いち高校生が持ってちゃいけない金額だった。

 

 そんな天才様の横で、かたや数学ごときにひいひい言わされて、留年の危機に瀕している俺に、才能なんて言葉は程遠いだろう。

 しかし、補習なんて数学教師の術中にはまらず、かつこの赤点という窮地を脱せる方法を俺は今右手に握っているのだ。あとは、もう少し、俺の主張を後押ししてくれる同調性力がいてくれれば――。


「うーす、やってるかい、利根」


 気だるげな口調で美術室の横開きのドアを開き、美術部顧問の屋久やくづきが入ってくる。

 国語教師。28歳。独身。現在彼氏不在。


「――シュッ!!」

「ひィ!!」


 頬にかすった何かがそのまま床に突き刺さる。何だこれ!?。


「おっと、すまない。何やら私の品格が絶望的に貶められている気がしたもんだから、つい手元のひらがなの『し』を投げてしまったよ」

「何で『し』なんて持ち合わせているんだあんた!!」

「はっはっは。んで、さっきの続き、ぜひ聞かせてほしいものだなぁ、内田くん?」


 できれば声に出して、と先生の目が怪しく光る。何だこの教師、心でも読んでるのか。


「先生、あんまり美術部室を傷つけないでください」

「おっと、利根すまないな。それで、出来はどんな感じだ?」


 床に突き刺さった『し』を回収すると、先生は葉吹のもとに寄ってくる。

 出るべきところは出て、引っ込むべきところは引っ込むという無駄に抜群のプロポーション。からの、大人っぽい綺麗な茶髪をかきあげる仕草や、絵を覗きこもうと腰を折り曲げた姿勢からくっきりと浮かび上がる体のラインの美しさたるや、男子として目を離すことができない。否、してはいけないと思う。


「お、今度は合格。『無駄に』を省けばな」


 だから心を読むなって。


「ふむぅ……」


 手を口に当て、じっくり絵を観察する先生。

 美術の授業がないため美術講師不在の青明学園において、屋久先生は国語教諭だが、大学での専門が『タイポグラフィ』という文字における美術分野みたいなものだったらしく、『美術』のところだけ教員の間で都合よく切り取られ、葉吹という才能お化けを生かすための場所づくりのために、見事人身御供を食らった張本人である。


 要するにこの教師。


「やべえ、全然分からん」


 ド素人である。


「ははは……。こんな顧問で済まないなあ利根」

「いえいえ。こちらこそ、先生の犠牲あっての活動ですから、お互いさまです」

「さらっと犠牲とか言わないでくれ……。しかしまあ、よく描けている、ということは分かるぞ。ほら、ここの人参なんか本物そっくり――」

「先生、それ人参じゃなくて破壊と衝動のメタファーです」

「……」


 オゥ……、とつまる声が聞こえてきそうな顔を、しかし、先生はごほん、と咳払い一つで取り直してみせる。


「ま、まあこの調子で作業を進めていけば、出展は間に合いそうだな」

「はい。あとは右下一角の塗りと、上部に気に入らないところがあるので少し修正を加えれば……」

「よし、こっちの方は大丈夫みたいだな。んで」


 と先生が俺の方に向き直った。


「そっちのもじゃいの」

「モップ氏、先生がお呼びに」

「お前だバカ」


 ぐわし、と自慢の天パごと頭を掴まれる。割とボリューミーだからか、抑え込むように少し強めに掴まれた。


「補習はどうした」

「なんで先生が知ってるんすか」

「これでもお前の担任だ。各教科ごとの赤点の有無くらい頭に入っている。数学の補習があることは帰りのホームルームで知らされていたからな」

「くっ……、情報社会……」


 現代日本を恨むことしかできない俺の頭に、しかしすぐに名案が浮かんだ。


「先生。俺は何もただ補習をサボっていただけじゃないんです。これを見てください」

「ん……?」


 俺から手渡されあの名演説に先生が目を通す。

 先生だって国語教師だ。俺の心に訴えかける文章に誰よりも深く感動してくれるに違いない。

 一分ほど沈黙したあと、先生はため息をつき目元を抑え始めた。

 きっと感極まって涙してくれているのだろう。絵画派の葉吹にはうまく伝わらなかったこの文章のすばらしさを深々と噛みしめていらっしゃる。


「内田……」


 肩に手を置かれる。

 その目には間違いなく、高い志に胸を打たれた感慨を持ち合わせて――


「来年は私も一緒に一年生してやるから頑張ろうな」


 いなかった。むしろ、可哀想なものを見る目だった。


「ったく、素直に勉強してくればいいものを、どうしてお前はこう、回りくどい方法しかとることができないんだ。以前の数学の特別講習のときも、単位が出ない授業だからって思いっきりサボりやがって」

「だって単位出ないですもん」

「たとえ出ないとしてもあれは必修なんだよ。まあ確かに、必修の科目に単位が出ないっていうのもどうにかしてるとは思うが……。それでもまあ、みんな一応は受けているものなんだから」


 そう言って頭を抱えながら、先生は再びため息をつく。


「不器用に生きるよなあ、お前」

「先生に言われたくはないです」


 頬を撫でる一陣の風。床にささっていたのはひらがなの『ら』だった。


「とにかく、このプリントはちゃっちゃと終わらせて、私と一緒に職員室まで行くぞ」

「えー、でもこのプリントの問題、半分も分かんないんですけど……」

「くっ、あー、分かった! 私も一緒に解いてやるから、ほら、そのプリント寄越せ」

「マジですか! ありがたやありがたや」


 そうして美術室にて、横で葉吹が作業に勤しむ中、俺たちは黙々と問題を解き始めた。

 美人女教師との放課後マンツーマン授業。何てエロい響きか。

 しかし現実とはただ辛いものでしかなく、文系である先生が持ち合わせる数学の知識には限りがあり、どうしても分からないところは田村教諭の温情に任せるところとなった。


「そういえば」


 先生のガチ監視のもと、用紙にペンを走らせるだけのロボと化した俺をわき目に、休憩していた葉吹が話を切り出す。


「最近はやってるって噂の制服泥棒、学校側は何もしてないんですか?」

「制服泥棒?」

「しゃべるな。書け」

「はい」


 冷酷な目つきと声。なに、俺囚人か何かなの?


「放課後、部活中なんかに被害にあう生徒がほとんどだって耳にしましたけど、心配になります。私だって女の子ですし、こんな閉鎖空間に一人取り残されてたら、飢えた性欲魔人が襲い掛かってくるかもしれないですし。きゃー、怖い」


 おい、そんな「魔人第一号発見」みたいな目でこっちを見るな。

 怖がってないのは丸分かりなんだよ。そんな高低差ゼロの淡々とした悲鳴上げられたら性欲魔人だって襲う気失せるわ。


「制服泥棒、か。確かに帰りのホームルームで私自ら注意を促したし、利根が聞いた噂も間違ってはいない。だが、どうにも不可解な点もあるんだ」

「不可解な点、というと?」

「普通の泥棒であれば、単純に目的の物品を持ち去って犯行は終了となるだろうが、ウチの場合、どうにも趣向が違うようで、持って行かれた衣類の代替品が新品のまま被害者のロッカーに置かれていて、しかも後日盗まれた衣類が被害者のロッカーに戻っていたりするって話だ」

「へぇ、わざわざ盗んだものを返してくれるなんて、親切な泥棒ですね」

「その親切心があったら、そもそも盗らないでくれって話だがな。しかし、おかしな話だろう? わざわざリスクを犯してまで盗んだ衣類をそのままもとあった場所に返すなんてな。なくなったと思っていた衣類が、数日後には何もなかったかのように戻ってくるものだから、生徒の方からは神隠しだ、いや制服隠しだ、なんて騒がれているんだが、利根は知らなかったか?」

「はい、私友達なる存在に恵まれていませんので」


 声の抑揚もなしに無表情でそんなことを答える葉吹に対して、屋久先生はぎこちない苦笑いを浮かべることしかできない。


「教師側としては、一度生徒の所持品がなくなっている以上、生徒の言い分を無下にすることはできないのだが、これに関しては、犯人の目的がいまいち掴めず困っている。わざわざもとあった場所に盗品を返しに来る泥棒など聞いたことがない」

「警察とかには話さないんですか?」

 警察、という単語が出ると屋久先生は若干気まずそうな顔をして、

「その提案は既に教師陣の中から出されたのだがな……。まあ、何だかんだあって、警察にはお世話にならない方針でいくことになった」

「ほー」


 何だかごまかされたような答え方だったが、葉吹がそれを詮索するような真似はしない。自分の身に危険が及ぶ可能性があるにも関わらず、あえて突っ込まないのは、大して脅威に思わないからか、それとも単純に興味がないからか。こいつの性格から鑑みるにおそらく後者だろうとは思う。


「学園側としては最終的に中の人間でどうにかしていく予定だ。生徒たちにはロッカーに鍵をかけるなど自己管理を徹底してもらいたいということはホームルームでも言ったが、こうして生徒側の不安要素が取り除けていない以上、教師として申し訳ない限りだな」

「いえいえ。自分の着ているものなんて、自己管理が当たり前なんですから。危機感の薄い私にはいい薬になるくらいですよ」


 そんなふうに俺を置いてけぼりにして、先生たちの会話は勝手に一段落する。

 補習のプリントの方は休憩中の葉吹の気まぐれもあって、何とか答案の体を成す程度には空欄を埋めることができた。

 最後の問題を解き終えると同時に先生に襟を掴まれ、職員室へと連行される。

 数学の田村教諭の前で「単位ください」と土下座をし、教諭を若干引かせたことで補習の件は何とかなった、という感じである。


「土下座する必要あったんですかね」


 補習の件が片付いた後でも先生は俺のあとをすたこらとついてきた。この教師実は暇なんじゃないだろうか。


「こういうのは押しが強い方が勝つんだよ。覚えておけ」

「先生は強すぎますけどね」

「黙れ小僧。ふざけたことを言ってると仕事を増やすぞ」

「仕事?」

「私がただでお前を手伝ったと思うか? 世の中そんな甘くないぞ内田。君にはいくつかの『ご奉仕』を用意してある。君の大好きなプレイだろう」

「俺はされる側がいいです」

「ならこれから好きになるといい。良いものだろうよ、人の役に立てることに快感を覚えるというのは」


 役に立つというと聞こえはいいが、要はパシリだよなあ。

 と声にならない声をかみ殺していると、先生は手元のファイルから一枚の紙を俺に手渡してくる。


「これを水泳部の生徒に渡してきてくれ。大会の申請用紙なんだが、選手にどの種目で登録するのか聞きそびれてしまってな」

「え、水泳部の顧問もやってんすか」

「ああ。この学校は部活がやたらと多いからな。顧問につく教員の数にも限りがあるから、意外と重複している先生は多いぞ」

「へ、へえ……」

「何だお前、私が暇を持て余したニート教師だとでも思ったのか。用が済んだのについてくるから構ってほしい寂しい人間なんだな、とでも思ったのか」

「いえ……、滅相も……」


 食い気味に突っかかってくる先生がすごくめんどくさい。てか『ニート教師』て、矛盾。


「例のお騒がせな泥棒のことだよ。学校に不審者が徘徊している可能性があるのに、女子生徒をあんなところに一人で置いておけるわけがないだろう」

「あー、泥棒、泥棒ね」

「ホームルームで気持ちよさそうに机に突っ伏している内田君にはなじみのない話だったかな?」

「スミマセン。懺悔しますからその怖いくらい屈託のない笑顔をやめてください」


 俺の日頃の行いはこの人につつがなく見透かされているようだった。

「じゃあ、よろしくな」と言って、最終的な僕の返事も聞かず、屋久先生は美術部室へと戻って行ってしまう。

 手に持った一枚の紙っぺらとともに廊下に一人、虚しく置いていかれてしまった俺は、善意とは果たして何なんだろうと、妙に思索的なことを考えながら、とりあえずは水泳部の活動場所へと向かうのだった。

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