第2話

 街を見下ろす小高い山。


 その斜面を切り崩し校舎が段々と連なるようにして建てられている青明せいめい学園は、麓よりの旧校舎であるA校舎と文化部棟のあるA区域、それに頂上よりの新校舎であるB校舎と、運動部棟、それに広いグラウンドの敷かれたB区域とにそれぞれ分かれている。A校舎とB校舎は、三階と一階で繋がっているという不思議なつくりをしていて、校舎間でも移動は比較的行えるようになっている。


 だが、現在俺が向かっている施設は、B区域の向こう、学園の一番頂上寄りにある建物であり、校舎外を歩かされることも含め、美術部室のあるA区域からはそこそこの距離がある。そのうえで多少の高低差があるものだから、学園内の移動にしてもそれなりの運動量を要してしまう。


 普段であればそのくらいの欠点など、あの場所の充実した設備に比べれば見逃せてしまうものなのだろう。そう、普段であれば。


 体育の授業で泳ぎにいくわけでもなしに、ただ人に物を届けにいくだけの理由で軽く山登りをさせられている現状は、俺の意見を簡単に転向させ得るものだ。やはり規模は小さかろうが、主要施設は小さく一つにまとまるべきだろう。


 そうこうと頭の中で愚痴を募らせているうちに、俺の目の前に大きなガラス窓が張り巡らされた建物が現れる。


 プール棟。屋久先生に詳しく聞くのを忘れていたが、水泳部が活動する場所といったらここしかないだろう。


 25メートル6レーンのサウナ、温水シャワー付きの室内プールも相当なものだが、このプール棟には、学園内の人間すべてに開け放たれた入浴施設が併設されている。しかも何と温泉かけ流し。受験案内のパンフレットでこれを見つけたときの驚きといったらなかった。


 それは他の生徒も同じであったようで、去年の一学期開始当初のプール棟のバスルーム人気は凄かったそうだ。しかし、このバスルームの使用時間が帰宅部、文化部、運動部によって厳しく区分されていることや、一年生のホームルーム教室がA校舎に集まっていることもあって、時が過ぎるにつれ、わざわざこのプール棟に足を運ぶ生徒は数を減らし、汗を流しに来る運動部の生徒や、風呂好きの人間などが使用するに落ち着いた。どうやらこれが例年通りの流れであるらしく、今年も同じようなことになっていたとか。


 そういえば入学してからこの方、ここにお世話になったことはなかった。先生のおつかい改めパシリを遂行することが今回の主目的ではあるにしろ、せっかく来たのだから、一度は使用してみたいものだ。ちょうど今は一般生徒の利用可能時間だったはずだ。


 そうと決まればことは急げ。時間が過ぎる前にとっととことを済ませてしまうことにしよう。


 プール棟のエントランスで靴と靴下を脱ぎ、プール利用者用の男女更衣室に挟まれた通路を進んでいって、スライドドアを開ける。


 広々としたプールサイドにはスポーツタイマーとおそらくメニューが書かれているのであろうホワイトボードが置かれているが、意外なことに人影はどこにも確認することができない。


 もうちょっと様子を見てみようと、蒸された空間に若干の不快感を煽られながらも進入していくと、プールの真ん中のレーンに人の身体をしたものがぷかぷかと浮いているのが見えた。


 うつぶせで、ピクリとも動かない、少女の身体。


 それはどう見ても生きている人間には見えなくて――


「だっ、大丈夫ですかぁああああ!!」

「むわあっ、びっくりしたぁ!」


 勢い余って水に飛び込んでしまおうかという俺を前に、水死体と化してしまったかと思われた彼女が突然動き出したもんだからさらに驚いてしまう。


「えーっと……、君、どちら様?」


 こっちをうすぼんやりとした目で見つめてくる少女。その身なりは当然水着であるが、おそらく学校指定のものではない、競泳水着だ。


「へ……? えっと、その、屋久先生から頼まれて、書類を渡しに……」

「書類? 書類……。――ああ! 書類ね。待ってた待ってた」


 俺のちぐはぐな説明にも合点がいったみたいで、少女は急いでプールサイドまで泳いできてくれる。


「わざわざ持ってきてくれたんだ。ありがとね」


 俺を見上げるようにして彼女が明るい笑顔を向ける。キャップを外して解かれた茶髪のショートカットは正しくスポーツ少女らしい快活さを感じさせるが、その下の肌に密着した水着はきちんと胸の双丘を強調していて妙に艶めかしい。


「えっと、さっき死んだみたいに浮いてたのは?」

「あー、あれね。驚かせちゃったみたいで悪かったんだけど、私、水中が大好きでさ。すんごいリラックスできるもんだから、練習に疲れると、ああして浮いたまま寝ちゃうんだよねえ」

「……、あれ、寝てたのか」

「うん、まあね」


 当たり前のごとく返されるが、人間は水に顔をつけたまま寝られる生物ではないはずだ。何かがおかしい。


「あ、自己紹介してなかったね。あたしは一年のあおはる。この水泳部の部長兼副部長兼書記兼その他雑務兼平部員」

「権力が集中しすぎているなあ」

「あははー。期待の大型新人! 孤高のソロプレイヤーってね」

「要は他に部員はいないってことね。でも規定だと部活を維持するためには少なくとも四人以上は必要なはずじゃ……」

「特例ってやつよ。ほら、私、優秀だから」

「あー、そういうことか」


 言われてから気付く。この学校にはその特例なるものがあり得るのだ。その最たる例が葉吹だった。


「青明学園独自の学生奨励プログラム。勉強以外の活動で並外れた成績を修めるものに学費の大幅な免除と部活動における多大な援助が約束されている。何もかもが無名だったこの学校を私が選んだ理由もそれ。何より施設が良かったしね」

「と、すると、蒼井は水泳の大会で優秀な結果を修めたりしていたのか」

「優秀、なんてモンじゃないよー。全国大会とか世界ジュニアとか、バリバリ出場、入賞圏内だったんだから」

「へえ、そいつはすごい」


 特待生制度。推薦入学。そういった方式は私立の学校でよく取られているが、この青明学園において、推薦入学者への優遇措置は甚だしいものである。県内の一私立校だったこの学校が、青明学園と名を変えただけに留まらず生徒の数を伸ばせたのも、その熱意あってのことだろう。かつての面影はどこへやら、今のこの学園はあらゆるエリートを要請するための鍛錬場として機能している。


「それで、その書類、多分大会の出場申請用紙なんだろうけど……、えっと――」

「内田蛍。二年だ。すまん、まだ言ってなかったな」

「わわっ、先輩だ。タメ口きいてスミマセン」

「いいよ。そういうの慣れないから、普通にタメで」

「じゃあ、内田くん。あのね、その書類に提出期限みたいなことが書いてあると思うんだけど」


 俺は紙面に書いてある項目に上から目を通す。


「提出期限……、これか、って、9月5日……、今日までじゃないか!」

「あははは……、観月ちゃん、前回もギリギリに提出したのに、懲りないなあ、まったく」


 蒼井は大きくため息をつくと、今度は仰向けになって水面に身体を浮かせる。あの教師に苦労をかけさせられる仲間として、そのやりきれない思いには激しく同意せざるを得ない。


「内田くんさあ……。これから学校の方に戻るんでしょ?」

「まあ、風呂に入った後にはなるけど」

「旅のお供に、おひとついかがかな」

「これ以上にいらないお供なんかを、人はお荷物って言うんだよ」

「いやさ、私、一回水に浸かるとしばらく陸に上がれない質でね。今は疲れてるから休んでるけど、ちょっとしたら、メドレーも再開したいし」

「いやいや、たった今、屋久先生のパシリが終わったところだってのに、もう一回パシられるってのもなあ……」

「じゃあ、更衣室で私のロッカーを物色する権利を与える」

「行ってこよう」

「手のひらの返しっぷりが、もはや清々しいな……」


 思春期のたまもの。「更衣室」という魅惑の言葉が招いた脊髄反射。

 男子高校生の心理をつかむ真理。性欲を煽る。よく分かってるじゃないか蒼井め。


「いや……、つい口走っちまったが、本当に大丈夫なのか?」

「筆記用具は私の荷物の中にしかないだろうし、そっから適当に取り上げて、埋めてくれればオッケーだよ。あっ、私の種目、800メートル自由形と400メートル個人メドレーね」


 なんと軽い。一介の男が女子更衣室の敷居をまたぐ一大事が、こんな軽い返事で許可されていいものだろうか。同意はとれたが俺の理性はまだちゃんと機能しているぞ。


「まあ脱いでるものとかは、あんまりじろじろ見ないでいただけると……」

「――シッ!!」


 一瞬である。

 蒼井のほんの少し赤らめた顔。

 その一瞬に、風が頬をかすめた、と思ったら全速力で駆けだしている俺がいた。

 後ろの蒼井にまで気を回せる余裕はないが、あまりの瞬発性にあっけにとられているに違いない。

 おそらく、俺の人生でもっとも速く自力で移動しているのが今であった。

 更衣室までのまっすぐな直線を疾駆し、スライドドアを最小限の動きにて開閉、普段は左に曲がるはずである分岐点を今日は右に曲がれることに喜びを噛みしめずにはいられない。

 僥倖。世界中の男たちの中で、今、一番幸福なのは俺だと断言できるほどだ。

 妄想が留まるところを知らない。

 ロッカーの中、プールバッグやスクールバッグの上に彼女の着ていたものたちがたちが重ねられていて、その中には蒼井の肌に直接触れていたであろうあれも混ざっているはずなのだ。

 全国の男の子が愛して止まない悪魔のごとき魅惑の一枚、『パンツ』もな!

 プール室から女子更衣室へとつながるスライド式のドアを開く。女子特有のアロマな香り、なんてものはするはずもないが、猛る俺の期待感がまるで匂いが漂っているかのように錯覚させる。


「パンツだ!! パンツをよこせ!!」


 甘い誘惑に惑わされて、更衣室で一人雄たけびをあげる哀れな男子高校生。

 その姿がどれだけバカで滑稽であろうと、今の俺を止める動機には一切ならない。なぜならそこに、下着が、パンツが、あるからである。登録用紙? そんなものは知らん。

 壁に沿って並べられたロッカーの中から使用形跡のあるものを探そうと中に立ち入る。

 昂る俺のリビドー。足取りはやけにふわふわしたものになって。

 そんな半分夢見心地な気分でいたものだから、次の瞬間に俺の目の前で起こった現象を俺が理解するに至るまでには、少々の時間を要したわけであった。


「ハァ……、ハァ……、ハァ……、ハァ……っ!!」


 開け放たれたロッカーと、その前で固まったように立ち尽くしている一つの人影。

 目出し帽に上下黒のジャージ姿。


「ハァ……、ハァ……、って、へっ!?」


 大きな呼吸音はそのままそいつが興奮の真っただ中にあることを意味しているのであり、


「人!? いやっ、これはっ……、あのっ、違くてですねっ!!」


 そして、その両手にこぼれんばかりに抱え込まれたブラウスやらスカートといった制服の山の頂上にちょこんと座する一枚の布。純白にして、潔白にして、神聖不可侵な、絶対防壁。

 断言しよう。俺が求めてやまなかったあの蒼井陽のパンツが、どこぞの誰とも知らぬ人間によって持ち去られようとしている最中であった。

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