第2話 A子〜貴方がいないと

A子は、佑一さんより10歳若かった。お店の後輩だ。あの頃佑一さんは40歳を超えて、仕事も脂がのり、いよいよ身を固めようと思うんだ、と、私に囁いた。


私は貴方なら大丈夫、きっと素敵な女性が見つかるわ、と言った。聞こえるはずはなかったけど、彼は静かに私に笑いかけ、実はね、もう現れたのかもしれない。今夜はデートなんだ。ここに寄るから、鯉子、彼女を見てくれよな、と言った。だから1日そわそわしながら、私は彼を待っていた。


私の住んでいるこの井の頭公園の池は、夜はライトアップされて、たくさんのカップルたちが行き交う。ベンチに腰掛けて愛を語らう人たちの話はたいていくだらなくて笑っちゃうけど、中には深刻なことを話している人たちもいる。例えば、、、あ、この話はまた。佑一さんが来た。


連れているA子は、背が小さくとても華奢でなんとものすごく美人だった。なんと、というのは、佑一さんの女性の好みを知っていたから。彼が好きになるのはいつも母性を感じるような優しい可愛らしい人で、美人なタイプは苦手、といつも言っていたから。なのにA子はとても美人だったので、私は、すぐにわかった。きっと彼女の方から言い寄ってきたのだ。


「お返事を聞かせてください。私は佑一さんが好きです。尊敬してます。」

「ありがとう。だけど、君、いま、男の人と暮らしてるんだよね?」

「はい。でも数ヶ月前からうまくいってなくて。受け入れてもらえるなら私、あの家を出ます。」


彼がチラチラ私を見る。私は必死で尾びれを振った。だめ!だめよ!その女は、男がいないと生きられない、寄生系ダメ女よ!貴方には向かない!だめよ!


「その、一緒に住んでる人の事をなんとかするのが先なんじゃないかな?なんだか、こんな状況で先を考えることは僕にはできない」

「私、実家は遠い上に縁を切られているんです。だから、住むところは他にないし、帰るところもないんです。一緒に住んでると言ってもその人は今はただの同居人です。引っ越し費用が溜まったらすぐにあの家は出ます」


私はこれ以上ないくらい尾びれを振った。


「気持ちは嬉しいけど、引っ越しが本当に終わったらにしよう。それまではいい飲み友達ってことでよろしく」


よし!さすが佑一さん!必死で尾びれを振った甲斐があり、彼はきちんとA子とは距離をとった。じゃあ帰ろう、と駅の方へ進もうとした彼のジャケットの裾をつかんだA子の伏せた長い睫毛が、濡れている。まずい!これはまずい!振り向く佑一さん。そっと顔を上げるA子。涙がピンク色の頬を伝う。驚く佑一さん。私は滅多にしない水上ジャンプをした。


じゃぼん。


私の懸命のジャンプも虚しく、A子は佑一さんの胸に飛び込んでいた。


それからしばらくの間、佑一さんは姿を見せなかった。私はすごく心配しながらこの池から出られない自分を呪っていた。佑一さんを待ちながら、いつもご飯をくれていたあの橋の周りをウロウロしていると、A子が大きなバッグを抱えて颯爽と現れた。ずいぶん急ぎ足だ。すると、それを追って1人の男が走ってきてこう言った。

「だからなんでこんな急に出て行くなんていうんだよ。俺たちうまくいってたじゃないか。一体なんでこんな急に、、、」

「はあ?急じゃねえよ。お前会社リストラされて何か月経ってんだよ!私のバイト代で家賃払うくらいならでてったほうがマシなんだよ」

「たしかに今月で貯金無くなるっていった。だけど、だから今必死で就活してるだろ?大丈夫だよ、お前に金出させるような真似は絶対しないから。だってお前は俺がいないと生きていけないだろ?」

「別にあんたじゃなくてもいいの。わかんなかった?」

「だってお前いつも、私は帰るところもない、貴方がいないと生きていけないって、、、」

「とにかくもう、私のことは忘れて。もう住むところも決めたし、この荷物で引っ越しも全部終わりだから」

「おまえ、金もないのに吉祥寺なんて家賃高い街にどうやって、、、おまえまさか、男?」

「あんたにはかんけーないっしょ。もう着いてこないで。さよなら」

A子は走って消えていった。

男はしばらくぼーっと立っていたが、携帯になにやら書き込んで、天を仰ぎゆっくり一つ深呼吸をして、きた道をたしかな足取りで帰っていった。


佑一さんが危ない!

私は焦って池の中に張り出してきている桜の枝に激突しそうになった。

いや、佑一さんはもうきっと、あの女にメロメロだろう。「貴方がいないと、生きられないの」と言われて。

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