第六話 流るる霞【其の参】

 ふらつく足。霞む視界。ふわふわとあらぬ方向へ漂う思考。

 頭痛がひどい。目が潤む。道常は目をきつく閉じて立ち止まった。

 匂いだけでここまで酷くなるなんて。天狗の言った「品のない匂い」の意味が分かる気がする。息を吐き出すと、ぶるりと身体が震えた。


「……天狗といえば」


 ふと思い出し、道常は袂を探る。取り出したのは先ほど投げつけられた天狗の扇だった。

 開くと、シミ一つない真っ白な面が現れる。なんの柄も描かれていないのに、これはこれで綺麗だと思えるのだから不思議だ。


 彼は何故これを自分に投げつけたのだろうか。道常が持っていても何も文句を言ってこなかったのだから、おそらくは渡したという解釈でいいのだろう。


 死出しでの旅に出る小僧への餞別せんべつのつもりだろうか。そこまで考えて、彼は眉を寄せる。

 絵巻物に描かれる天狗の扇はもっと大きく、けばけばしかったような。


「まあ、いいか」

 袖にはすでに匂いが移ってしまった。代わりにこれで鼻を隠せば、すこしは匂いもマシになるかもしれない。

 道常は扇を開いたまま、顔半分を隠した。小さな沢の音が耳に届く。

 視線を上げた彼の目に、白い輝きが飛び込んできた。


 なんだあれは。


 白一色の輝きが、花畑のように広がっている。道常は足早に近づいて目を凝らした。

「……魚?」

 思わず扇子を顔から離した。酒に交じり、生臭い匂いが鼻をついた。


 おびただしい数の、死んだ魚の白い腹。


 吐き気がこみ上げ、道常は慌てて扇を構えなおす。

「……ん?あれ」

 不思議なことに──あの、吐き気を催す匂いがしない。彼は目を瞬かせた。

「もしかして、この扇が?」

 きりきりと頭を苛んでいた痛みが嘘のように引いていく。

 天狗はこの状況を見越して、この不思議な扇子を自分に手渡したのだろうか。


(見殺しにする気はないと、そう考えていいのか)

 喉を鳴らし、道常は慎重に片膝をついた。

 敷き詰められた魚の隙間から、揺らぐ水面が見える。

 恐らくこれが、天狗の言っていた酒の池だ。

 なら、蟒蛇はこの池に──



 水面に浮かぶ白い腹が、ふとかげった。

 息が止まる。

 大きな水音と共に、しぶきが頭にかかった。



「久方ぶりのにえにしては……貧相な」



 地の底から這うしゃがれ声が脳を揺らした。


「肉もない、骨ばかりのの子なぞ一口にも満たん」



 生温かい風が顔に吹きかかる。道常はゆっくり視線だけを上に動かした。

 

 大蛇が、首をもたげてこちらを見下ろしている。


 父や天狗の背を優に超える大きさの頭部。

 木を数本束ねてもまだ足りない太さの胴。

 赤や青、黄、様々な色に輝く不可思議な鱗が身体全体をびっしりと覆っていた。

 頭部に埋め込まれた翡翠色の目玉が、自分を捉えて離さない。


「余に対し貢物すら惜しむとは、この山の程度が知れるというもの」


 駄目だ──これは駄目だ。


 話し合い、交渉?全くばかげている。

 こいつは蟒蛇なんてものじゃない。人を喰らい、どこぞの土地で恐れられた大蛇おろちだ。その証拠に、目の前の小僧は【酒と同じく捧げられた贄】としか認識していない。


 道常は戦慄した。


 まさかあの烏天狗、自分を贄として差し出すつもりでここに来させたのか。

(……いや、それは違う)

 道常は首を横に振った。

 傲岸不遜なあの天狗に限って、自身がへりくだるような真似をするはずがない。


 こわばって動かない足の代わりに、死に物狂いで頭を回転させる。不思議な扇子のおかげか、先ほどより頭がはっきりしているのが唯一の救いだった。


 どうする。──どうする。


 戦おうにも武術など会得していないし、何なら晴子の方が体力は上だ。残されているのは口しかない。

 何を言えばいい。下手に口を滑らせればその瞬間丸呑みにされる。かと言って何も言わなければ贄としてあっという間に腹の中だ。

 何故天狗は自分を行かせた。自分に何かあるからじゃないのか。


「──まあ、何もないよりは幾分かましか。あの酒だけでは物足りぬと思っていた」


 視界が明滅する。

(ええい、ままよ)

 震える喉を振り絞り、道常は声を絞りだした。


「申し遅れました。道弦どうげんが子、定道常さだのみちつねでございます」


 瞬間、大蛇の動きがとまった。


「これは面白い。にえがひとりでにしゃべるとは」

「何の贄かも分からぬままではいかがなものかと思い、名乗った次第でございます」

「奇妙な贄よ」


 大蛇の頭が近づいた。頭上にひと際暗い影が落ちた。


「何の贄かなど、食ったあとでは何も変わらんだろうに」


「食事を美味いと思うのは自身の心です。干からびた食材が実は貴重なものだったと、知ると知らぬでは食った後の気持ちが大きく変わりましょう」

「……随分と口の回る」

 大蛇がさらに顔を近づけた。

「面白い。なれの口がどこまで回るか見ものだな。四肢を千切ったとしても同じように小賢しくしゃべるのか──待て」

 ずい、と寄った翡翠色の瞳に、道常の顔が歪んで映った。


道弦どうげん。道弦と言ったか?」

「は。この道常、確かにそう申しました」

「道弦とは、どこかで……ああそうか。あの琵琶弾きか」

「仰る通りでございます」

 道常が顔を伏せたまま言った。

 都へ行く道中、父はしばしば妖相手に演奏を披露していたらしい。そのため、妖の間では彼の知名度は高いと聞いた。

 父の自慢話はあながち間違いではなかったということだ。道常は胸を撫で下ろした。

 

「まさかご存じだとは」

「その白々しい態度を止めろ。……だがまぁ、知っているのは確かだ」

 アレの奏でる音はなかなかに良いものだった。そうポツリと漏らし、大蛇は目を閉じる。

「このわれが人間を見逃すほどには。また弾きに来るとは言っていたが、ついぞ訪れる事はなかった」

「……父はまだ存命です」

「知っている」

 大蛇の目が見開かれた。


「あの人間どもがわれを追い出しおったのだからな!」


 突如、大蛇の雄叫びが耳をつんざいた。池の水が高く波打ち、森が惑うように唸る様は、まるで嵐の前触れを見ているようだ。

 舞い上がった水しぶきと魚たちが、雨となって降り注ぐ。ぽかんと口を開けた道常に、大蛇は怒りが煮えたぎる瞳を向けた。


「厄災からずっと守ってやったのだ──この、われがだ!人間どもは今まで通り貢いでいれば良かったものを、あの【灯里とうり】などと言う所の連中が横槍を入れ、挙句の果てに全て奪いおった。おかげでわれはこのような所に……」

 逃げる、とは矜持が邪魔して言えなかったのだろう。代わりに大蛇は尻尾を大きく打ち鳴らした。


 はて、と道常は首を傾げた。

(トウリ?聞いた事がない)

 かろうじて地名だという事は分かる。

 どうやら、大蛇は土地を守る代わりに贄を要求してきたが、「トウリ」という別の土地の人間に攻め込まれて追い払われたらしい。

 それでここまで逃げてきたのか。怒り狂う大蛇をぼんやり眺め、道常は感心した。

 何はともあれ、この大蛇を追い出すなんて余程のつわものに違いない。


「……話が逸れた」

 大蛇の一声で、道常は現実に引き戻された。大蛇が目を細める。

「辺鄙な山まで来てしまったが、贄が出るならよしとしよう。お前の他にも人はいるだろうからな」


 人──言われて瞬時に、妹の事を指しているのだと分かった。


「お待ちください」

 扇を握りしめ、道常は顔を上げた。

 口を開けた途端、酒と魚の生臭い匂い、そして錆びた鉄の匂いが一気に入り込んだ。


「この山に住まう人間は、私と妹、そして父の道弦の三人のみ。妹も私と変わらぬ身体つき、到底貴方様の腹を満たすものではございません」

「おおどうした。今更命乞いか?」

「この山は天狗様をはじめとした妖達の住まう場所。寄りつこうとする人などいるはずもない。私どもを喰ったとして、その後の生贄は?妖を喰いますか」

「なるほど。人間の贄は用意できんと」

 自分の言いたいことは伝わった。

 そのはずなのに、何故自分の背はこうも粟立っているのだろうか。


「では仕方ない。なれの申す通り、その後は妖どもを喰らうしかあるまい」


 しくじった。

 道常は唇を噛んだ。


 この山の頂点に君臨する者に、はたして外から来た妖が従うのか?

 そんな訳がない。

 

 大蛇はその場に固まる道常を嘲笑った。

「まずなれを喰らえば、少しは動けるだろうよ。後は……──」

 その後に続くはずの言葉が、続かない。


 道常が顔を上げると、大蛇は首を空に伸ばしてあらぬ方向に目を遣っていた。その瞳孔が大きく開いている。

 (何を見ているのだろう)

 道常は大蛇と同じく山頂に目を向けてみたが、やはり何も見えなかった。


 妖?烏天狗?どれも違う気がする。あの天狗以上に傲岸不遜な大蛇が、驚愕と──たった少しの恐怖をその瞳に浮かべるなんて、この山の者ではありえない。


 大蛇が再びこちらを向いた。

「……ふむ。成程、これでは露骨に動けんな」

 先ほどと正反対の言葉に道常は眉を寄せる。蛇の目からあの恐怖の色は消えていた。

「監視のつもりか?いや違うか。あの鬼の事だ、酒が狙いに決まっている」

「……鬼?」

 大蛇から目を逸らし、道常は頭を巡らせた。


 ──ここは妖の支配する山だ。なのに鬼がいる?何故。どうやって入ってきた?烏天狗は知っているのか。


「喜べ小僧。贄はやめだ」


 彼の疑問を知ってか知らずか、大蛇が言った。「貢物で我慢してやる」

「貢物、ですか?」

 大蛇が頷いた。

「酒でどうだ。以前、人間どもも贄とともに捧げていた」

「酒……」

 また酒か、と道常は内心唸る。人も鬼も妖も酒が好き、という所が唯一の共通点なのではないだろうか。自分にはその良さが分からないが。

「恐れながら、その、……貴方様はご自身で酒を造っておられるようですが」

なれは己の汗を飲み水と言うのか」


 成程、そういうものか。


 仕方がない。後先なくなった彼は言われるがまま頷いた。「承知いたしました」

われの寛大な心に額を擦り付け感涙にむせぶが良い。ああ、だからといって魚は持ってくるなよ?この通り腐るほどある」

 大蛇は池に浮かぶ一面の魚たちを顎で示した。

 この量、もしや山に住むすべてなんて言わないだろうな。そうではないと信じたい。そうであったら困る。非常に困る。

 (──何にせよ、贄が必要なくなったのはありがたい)

 事情を話せば、あの烏天狗も酒を分けてくれるだろう。


 考えに耽る彼に「ああそうだ、おい小僧」と大蛇が声をかけた。

「何でしょう?」

なれの小屋に置かれた酒、あれは美味かった」

 他人の酒を勝手に飲み干しておいていけしゃあしゃあと。──なんて言えるはずもなく。口から出かけた文句を喉の奥に押し込んだ。

「はあ。……あれを貢げば良いと」

「いや、持ってくる必要はない」

 道常は首を傾げた。「はい?」

「酒を零されても困るからな。なれの……そうだ、胃袋まで借りるか」

「はい?」


 胃袋まで、借りる。不穏な言葉に寒気を覚える。


「約定を交わすのがこの国の習わしだったな。われはここにおとなしく居座る。ものはついでだ、哀れななれに力も貸してやろう。その代わり、われに一生酒を貢げ」

「お待ちください、胃袋とは」

 彼の抗議は再び振るわれた尻尾に遮られた。

「ここでなれを平らげても、誰も文句はいうまい」

 前方に大蛇、後方に崖。

 飛び降りる方が気は楽だろうが、目の前の蛇はなんと命を保証するとのたまっている。約束まで引っ提げて手招きをしているのである。

 どちらを取るかは明白だった。


「……お受けいたします」

 背に腹はなんとやら。長い沈黙ののち、道常は額を地面につけた。


 ◆◇◆


「まさか生きて戻ってこようとは」


 池を離れて帰路についた道常を、傲慢な金切り声が出迎えた。

 見上げると、木の枝に烏天狗が腰かけていた。行きと全く同じ体勢で悠々と酒を呷るその姿には、呆れを通り越して尊敬まで覚える。

「おかげさまで。死にかけましたが」

「五体満足の癖して何を言う。なにはともあれ、小粒の身でようやった。褒めて遣わそう」

「光栄です」

 道常は袂から扇を取り出し、天狗の方へと掲げた。

「お貸しいただいた扇のおかげで、安全に進む事が出来ました。こちらはお返しいたします」

「貸した?吾は貴様にものを貸した覚えはないぞ」

 道常は一瞬面食らったが、黙って扇を袂に戻した。相手がくれるというのだ、遠慮なく貰っておこう。


「酒を貢ぐという話だったな」

 天狗が顎に手を当てた。盗み聞きとはいい度胸ですね、なんて死んでも言えない。

「ご存じでしたか」

「うむ。あの蛇に手渡すのは業腹だが仕方あるまい。褒賞としてくれてやる。あの貧相な蔵に突っ込んでおいた。好きなだけ使え」

「ありがたき幸せ。……一つ、お伺いしたいのですが」

「なんだ」蛇騒動が落ち着いて安堵したのだろうか。上機嫌な烏天狗は唐突な質問にも気を悪くすることはなかった。


「あの大蛇は、この加々良山に鬼がいると申しておりました。酒好きの鬼だそうで……烏天狗殿はご存知でしょうか」

「鬼だ?」

 満足げな顔から一転、天狗は顔をしかめた。

「鬼は総じて酒好きであろう」

「そうではなく」

「鬼がこの山に住み着いているわけがない。貴様もよく知っていよう」

「では、鬼も外からやってきたという事ですか?大蛇の酒池を追って」

「吾がそうやすやすと鬼の侵入を許すと思うのか」

 天狗が吠えた。思わないから聞いているのだ。

「第一、鬼の住む領域からかけ離れているのだ。自ら進んでここまで徒歩かちで来る輩など……」

 天狗の声が急激にしぼんでいく。道常の耳に届かないぐらいの小声になり、ついには烏天狗一人で考え込んでしまった。

「いや、……そういえばいたな一人……酔狂な……それが本当だと……まだ生きていたとは」

「烏天狗殿?」

 烏天狗は我に返った様子で顔を上げ、道常を睨みつけた。

「貴様が気にすることではない。さっさと家に戻るがいい」

 この話はしまいだとばかりに手をひらひらと振る天狗。閉口した道常は、追及を諦めて一礼した。

「では失礼します」

 天狗の返事が聞こえない。目線を上にやると、先ほどまでいた筈の天狗の姿はきれいさっぱり消えていた。


「まあ、いいか」

 とくに気にすることでもない。足を踏み出した彼はふと違和感を感じ、立ち止まった。


 酒の匂いがしない。


 池から離れる時はそんなこと気にする余裕もなかったが、扇を仕舞っても頭が痛くならないし、吐き気も寒気もしない。

 

「慣れた?いやまさか」

 首を横に振り、道常は再び歩き出した。


 さっさと帰ろう。妹が帰ってくる前に戻って、夕飯の支度をしないと。

 ああそうだ、烏天狗の言っていた酒も確認しないと──その後風呂に入って──


「あれ」道常は首元を押さえた。声がかすれている。


「何か……喉が、乾いて──」



 ◆◇◆


「ただいま!」


 晴子は威勢よく家の戸を開けた。


 あの【朱呑しゅてん】という人いや鬼と話した後のこと。随分と辺りが暗くなっていた事に焦ったが、何とか日暮れ前までに家に戻ることができた。


(もうだめかと思ったけど、全力疾走したら間に合うものなのね。良かったわ)

 兄から大目玉を喰らわずに済む。ただでさえ今日は魚の収穫が無いのだ。失態を重ねることだけは避けたかった。

(代わりに山菜取ってきたし、これでいい……よね)

 玄関に魚籠びくと釣り竿、カゴをおろす。

 いつもならすぐ来てくれる兄の姿が見えない。晴子はきょろきょろと家の中を見渡した。

兄様あにさま?」草履を脱いで玄関に上がる。

「寝てるの?」


「──晴子か、おかえり」

 少し遅れて、兄の道常が台所から顔を出した。

「遅かったな。怪我はないか」

「うん、大丈夫」晴子は内心で胸をなでおろした。「ごめんね兄様、今日は魚が釣れなくて」

「だろうな」

「だろうな?」

「ああいや」道常が慌てて首を横に振った。「なんでもない」

 ぐつぐつと鍋の煮立つ音が聞こえる。つんとした、それでいてふわりと甘い香りが漂った。そうか、料理中だから声が聞こえなかったのか、と晴子は納得した。


「晴子」

 話を切り替えるように、道常が声を大きくする。

「味を見てくれないか」

「はあい」珍しい。普段は兄ひとりで味見もこなすのに。

 晴子が駆け寄ると、兄は鍋から汁をすくって彼女に差し出した。

「ん」

 汁を舐めた途端、晴子は顔をしかめた。

「まずかったか?」

「不味いっていうか、……兄様、お酒入れすぎじゃない?」

 ぴりりと舌を指す感覚の後、甘みと苦みが同時に襲って頭をガンと揺らす、年始に味わったあの味。

 晴子は鍋の中を見た。昨日彼女が釣った魚を使っているのだろうが、これでは魚というより酒の味だ。

「そうか」

 指摘を受けた道常は、困ったような表情を浮かべ、おたまに目を移した。

「ごめん、失敗した。味がわからなくなって」

「それは別にいいけど、兄様、疲れてる?」

「そうかもしれない」

 道常は額に手をやった。ふわり、とまたあの甘い匂いが香る。


 鍋の中からじゃない。彼自身からだ。


「……お酒臭い」

 晴子が言うと、彼の肩が僅かに揺れた。その反応で彼女の疑惑が確信に変わる。


「兄様。──お酒飲んだでしょ」


 途端、彼は肩を大きく揺らした。おたまから汁がこぼれ、床に飛び散った。

「……何を」

「だって口からこの鍋と同じ匂いがする。兄様どれだけ飲んだの?」

 兄は答えなかった。口を一文字に引き結び、必死に視線を鍋の中に逃がしている。

「兄様」

「……喉が、乾いて」耳を澄ますと、かろうじてそう言ったのが聞き取れた。


 晴子はぽかんと口を開けた。あの常に冷静かつ真面目な兄らしからぬ発言。信じられない。目の前にいるのは本当に兄か。


「呆れた。酒は水じゃないって父様ととさまも言ってたでしょ」

「仰る通りです」

 唇を噛み締めながら、道常が俯いた。反論がないあたり自覚はあるのだろう。久々に兄を正論で言い負かした彼女だが、今は兄らしくない失態にただただ衝撃を受けているばかりだった。


「酔っ払いが台所に立っちゃダメ。そりゃ味も分からなくなるわ」

「酔ってない」

 道常が弾かれたように顔を上げた。

「酔っ払いは皆そう言うんです。父様がいい例です。第一、兄様酒弱いでしょ」

「そ、うだけど。いや違うんだ、本当に酔ってない。その証拠に味噌汁の味は分かったし」

「ほら」と道常は、今度は山菜の味噌汁をすくって寄越した。


 味を見ると成程、いつもの味だ。

 晴子は味噌汁の鍋を見て、それからぐつぐつ煮立つ魚の鍋を見て、それから挙動不審の兄に目を戻した。


「怪しい」

「だから」


 道常は諸手を上げた。その必死な表情に、一周回って哀れとすら思う。

「俺が酔った場合、立っていられなくなるのは分かってるだろう?」

「この前の年始め、たった二杯飲んだだけで『寒い』って言って寝ちゃったしね」

「その話はしなくていい」

 道常が声を張り上げた。

「酒は飲んだけど、別に俺は酔ってない。大丈夫だから」

 なおも疑いの目を向ける彼女の背を押し、道常は台所から追い出した。

「味見はもういいから待っててくれ」

「……ほんとに酔ってない?」

「俺はお前に嘘はつかない」

 間を置かず、はっきりとした返事が返ってくる。


(本当かしら。ここまで言うのだったら嘘はついていないだろうけど)


 それはそれとして追及したい、いや追及せねばならない事は山ほどある。

 最後にもう一度睨むと、

「じゃあお前が今日魚を釣りにどこまで無茶して行ったのか、聞いても構わないな?」

 ──と思わぬ反撃を喰らったため、晴子はしぶしぶ居間に引っ込むこととなった。

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