第五話 流るる霞【其の弐】

「この中をどうやって進むんだ、晴子は」

 汗をぬぐい、道常は悪態をついた。


 家を出てから数刻。白い霧をかき分けてもかき分けても、視界が晴れることはない。

 一寸先どころか足元まで瞬く間に霧が絡みつく。慎重に進んでいたつもりだったが、気づけば方角が分からなくなっていた。どこを進んでいるのか、どこから来たのかさえ分からない。一応まだ山の中ではあるはずだ。恐らくは。

 この中を意気揚々と進み、挙句の果てには魚を釣り上げて帰ってくる晴子が恐ろしい。以前訊ねてみたところ、「道は皆が教えてくれるから」と清々しい笑顔で答えを返された。「私じゃない、皆のおかげ」とも言っていた。


 冗談じゃない。


 皆というのは十中八九妖達のことだろう。晴子は謙遜しているが、妖と仲良くできること自体類いまれな彼女自身の才能だ。対して自分はどうか。

 父がこの山の妖と結んだ約定により、手出しをされることはない。が、話しかけられもしない。正直に言って、妖と共に外に出ていける彼女が羨ましかった。

 腹の底からこみ上げる、粘着質な不快感。道常は纏わりついた感情を振り払い、片足を動かした。濡れた音が耳に届く。


 大丈夫だ。今回は幸いにも、どっちに進むべきか分かっている。

 この濡れた感触と、奥から香る酒の匂い。この痕跡に従って進めば辿り着けるはずだ。


「……にしても、これは」

 道常は顔をしかめた。行先に迷うことはないものの、齢一七、酒に慣れていない道常にとっては些か刺激が強かった。

「くそ、頭が痛い」

 こんなに強い酒だったっけ。ぼやけてきた頭にそんな疑問が浮かぶ。まあいいか、と緩む頭が思考を放棄する。

 ふらつく足が止まらない。それでも進むしかない。

 そんな彼は、投げられた石礫がぶつかるまで、頭上に居た客人に気が付かなかった。


「痛っ」


 鋭い痛みに、道常は後頭部を押さえた。

 なんだこれは。石だ。どこから降ってきた?


「命拾いしたな、小僧」

 今度は声が頭上に降る。見上げると、やせ細った木の上にぼんやりと黒い影が見えた。

「これで気づかぬようなら次は岩を落とそうと思ったぞ」

「誰だ」

 ゲラゲラと甲高い笑い声がこだまする。

「誰ときたか。見えぬからと小粒が見栄を張って」

 風がごう、と唸った。あれだけしつこかった霧が嘘のように晴れていく。突如鮮明になった視界に、道常は目を瞬かせた。

「ほうら。これで見えたろう、わっぱ

 周りと比べ一段と背の高い木の上。そこに、一人の天狗が胡坐をかいていた。

 黒い翼を折り畳んだその影は、扇を仰いで寛いでいる。飛び出た金の目玉がきょろりと此方を向き、カチカチとくちばしが鳴った。


加々良山かがらやま烏天狗からすてんぐ、殿」

「応とも」


 道常は眉根を寄せる。これは、まずい所にかち合った。

「まずい所に?まずいとはなんだ、【道弦どうげん】の子」

 猛禽の瞳が愉快気に細められた。


 ──妖の中にも人の心を読む輩がいるようで、加々良山の頂点に座す烏天狗もその一人である。道常は「しまった」とほぞを噛んだ。今になって思い出した。

 なんと余計な能力なのだろうか。しまいには相手の思惑を知ったうえでかまをかけ弄ぶのだから、趣味が悪いことこの上ない。


「……烏天狗ともなれば、私の内心など手に取るように分かるでしょう」

「ほお、小粒がかまをかけるか」

「事実を申したまでのこと。天狗殿こそ、この私に何用ですか」

「道弦の息子、それも引きこもりが外に出たとなれば、誰だって見に来るだろうよ」

 普段はこちらに話しかけもしないくせによく言う。

「貴殿の他には誰もいないようですが」

われがいるではないか」

「それは分かります。しかし他は」

「吾の意こそ加々良の総意」

 道常は口をつぐんだ。横暴にも程がある。金切り声で堂々と言い放った天狗は木の幹にもたれかかる。

 

 「皆烏天狗に遠慮している」と言われても不自然だと思うほどに、辺りはしんと静まり返っている。この天狗が何かを隠しているのは間違いない。


 ──仕方が無い。


 それでも話す気がない天狗の様子に、道常は腹を括った。

「……昨晩、我が屋敷の酒が飲み干されておりまして」

 彼がそう切り出すと、待ってましたとばかりに金の双眸がぎらりと光った。

「ほう」

「父が貴殿より賜った酒を、断りもなく盗むなど許されることではございません。後を追うべく、地面に続いた跡を辿ってここまで来た次第です」

 頭上でパチリと音が鳴った。なんだと思い見上げれば視界が何かで遮られ、今度は額に鋭い痛みが走る。

「痛っ」

 反射で落ちてきたそれを掴み、道常は目を瞠った。手のひらには白い扇がおさまっていた。先程まで天狗が持っていた扇である。

 持ち主はというと、空いた手で徳利とっくりと盃を取り出し、呑気に手酌を始めていた。

「成程。吾の与えた酒となれば黙っているわけにはいくまい」

「犯人をご存じなのではないですか」

「知らん」

 意を決して切り込んだ彼の言葉を、天狗はバッサリと切り捨てた。

「ここ千古せんこの地において、交わされた約束を破ればどうなるか。それを知らぬ愚物がこの山にいるとでも?」

「しかし、あの跡は確実に」

 妖のものだろう。そう言いかけた時、頭の中に一筋の閃光が駆け抜けた。

「……さては外から何か来ましたか」

「小粒にしては頭が回る」

 天狗の目が弧を描く。「その小賢しさに免じて教えてやろう」と尊大にのたまった烏天狗は、木の上から身を乗り出し、内緒話を始めるかのように背を屈めた。

「千古の西の果てより、蟒蛇うわばみが逃げ込んだらしい」

蟒蛇うわばみ?」

「吾に断りもなく潜り込んだのだ」

 確か大蛇の一種だったような、と道常は記憶をこねくり回す。そういえば、蔵から続いていた跡は蛇がのたうち回ったような形状をしていた。

「さらにあやつめ、この先に勝手に池を作って潜んでいる」

「蛇が池を、……自分で、ですか?」

「ただの池と思うでないぞ。自身の胃液を吐いて作った、酒の池よ。おかげで酒臭くてかなわん。魚を寄せては酔わせ、周囲の木々も枯れ果てる。つつけば何が出るか分からぬと、物の怪どもも穴に逃げ込みおった」

 話を聞く限り、妖たちはやはり天狗ではなく来客に怯えて姿を隠したらしい。

 天狗というのは案外強がり、いや見栄っ張りなのだ。


「もしやこの強い匂いは」

「……まさか天狗われの酒などとは言うまいな?この品のない匂い、奴の臭気に決まっていよう」

 傲慢な顔を歪め、天狗が吐き捨てた。

 今の話から考えると、この匂いの先に居るのは十中八九【蟒蛇うわばみ】だろう。

「……」

 目眩がした。

 自分が探していた犯人が、手に負えない大蛇だった、それだけではない。天狗がわざわざ自分に話しかけてきた理由がここで分かってしまった。

 恨みがましい目で睨み上げる道常を愉快気に眺め、天狗は徳利をかたむける。

「理解が早いのは良いことだ。そうさな、もう少し気が回ればよいのだが」

「私にその大蛇を何とかできると、まさか天狗殿はそうお思いですか」

「できるかどうか?はは、おかしなことを」


 瞬間、ぞわりと肌が粟立った。悪寒が背筋を駆け上り、道常は天狗を見上げたまま息をのむ。


「するしかなかろう」


 ガラリと変わった頭上の気配。目の前に居るのは人智を超えた不可解な存在であると、そう思い知らされる。


「この加々良と約定を交わした道弦が留守なら、お前が出るしかあるまい」

「……この山の頭領は」貴方でしょう。口から出かけた言葉の続きは、天狗のひと睨みによって喉奥に押し込まれた。

「吾の酒を盗まれるなどという愚行を許した貴様の罪、ここで裁いても良いのだが」

 駄目だ。道常は目を閉じた。この頑固な天狗はどうあっても譲らないらしい。

 父がいればなんとかなったのだろうか。気が遠くなりそうだ。

(……たられば言っても仕方がない)

「天狗殿」

 盃を呷った彼が悠然とこちらへ目を向けた。

「死んだら恨みますよ」

「ほお、小粒の恨みか。楽しみにしておこう」

 ──なにが楽しみだ。人間を大蛇にけしかけておいて偉そうに。

 唇を固く引き結び、道常は天狗に背を向けて歩き出した。白い扇を握りしめると、きりきりと竹が軋む音が鳴った。

 道常の心は読めたのだろうが、天狗は何も言ってこない。自棄だとバレているのだろう。


 ああくそ、全くとんでもない事になってしまった。



 ◆◇◆



 ──ここで時は少しさかのぼり、舞台は加々良山から西へ移る。


 紅霞こうか山からさらに西に進むと、柵と堀に囲まれた広大な土地が現れる。公卿ではなく、武家衆の支配する領土である。


 強大な武士団、そして強固な結界に守られたこの土地は千古内でも有数の安全地帯といえよう。実質、住処を追われた人間の避難場所として機能しており、場合によっては妖の跋扈する土地を奪い領土を広げることもある。

 都を外的から守ること、人間の保護を最優先とすること、そして何より、都への服従を朝廷と約束することで、彼らは独立に近い状態を保っていた。


 その土地の名を【灯里とうり】と言った。


「くそ、霧でよく見えん」

 小さく舌打ちが漏れる。乳白色の景色を忌々し気に眺めた後、長身の女性は頭を振った。

「連絡はまだか。こんな事になるんならアタシも同行すればよかったな」

 黒髪を掻き上げた彼女は、振り返って視線を下げる。眼下に広がるのは人々がせわしなく行き交う灯里の町。

 自身が立っている物見やぐらは灯里の端にそびえている。かたや生命力あふれる騒がしい街、かたや生命の気配が少しも感じ取れない霧の中。視線をずらすだけでここまで景色が違う。


 ──つまらない。


 大きなため息が漏れた。

 自分だけ安全圏に残されたこの状況に苛立ちが募る。待つことしかできない歯がゆさで身体が裂けそうだ。

 この状況を作った人物に思いをはせる。相手は自分より6つ年下の少女。彼女の主人であり、──この領土を統治する長である。


「あのお姫様おバカ、何が『町の面倒を見るのも大事』だ。アタシと離れるのが嫌ってのが本音じゃねぇんかい」

羽々はば様!」

 手すりに頬杖をつき項垂れる彼女に、背後から声が掛かった。

「討伐隊が戻りました」

 その言葉に、女性ははじかれた振り返る。若い男がはしごから顔をのぞかせている。

「【ヌシ】はどうなっ……いや、安否が先か。どうだ、皆は」

「全員無事です。数人軽傷を負いましたが、ひと月もすれば完治するとの事」

 羽々と呼ばれた女性は、ひとまず安堵の息をついた。やぐらに登ってきた男は膝をつき肩を大きく上下させたあと、小さく息を吸う。汗だくの喉がごくりと動いた。

「……残念ながら、ヌシには逃げられました」

「なんだって」

 声が裏返った。思わず詰め寄った彼女に頭を下げ、男が言う。

「泉にて奴を誘き出し、秘酒【浮瓢箪うきびょうたん】を用いて弱らせるまではうまくいきましたが、深手を負わせるにはいたらず。突如風雨を起こし、視界が眩んだ隙をついて逃げたとの事」

「今まで恐れられただけのことはあるか……待て、助力を申し出てきた紅霞山の鬼どもはどうした」

「は、それが」

 男が縮こまる。

「我々の鬼への態度が鬼どもの不信を招いたようで……」

 羽々は天を仰いだ。「表に出すなとあれほど」

「ええ、討伐隊の面々も特に気を回しておりました。しかし鬼どもは途中から『取り繕ったところで誤魔化せると思うてか』と怒り出しまして……ヌシと対峙した際も、奴ら傍観に徹していたそうです」

「これだから鬼は信用ならんと姫に進言したのに」

 鬼の申し出に対し、長たる姫もいい顔はしなかった。ヌシ──大蛇という危険と鬼の危険を天秤にかけ、結局彼女は鬼の助力を受け入れた。

「その結果がこれだ。で、あの大蛇はどこへ逃げた」

「天高く飛び上がり、雲の中を駆け抜け遠く東へ向かったとの事」

「ひとまずは追い払えたという事か。……万が一のため守りを固めるか」

「は」

「アタシはあのお姫様に報告に向かう。お前は下がって討伐隊の世話に向かえ」

「羽々様。もう一つお耳に入れていただきたい旨が」

「なんだ」

 立ち上がってやぐらを去るはずの男が、彼女に耳を寄せた。

「……討伐隊の尾身蔵之介おみくらのすけ様からです。あの場に、紅霞山の朱呑しゅてんがやってきたとの事」

「な」

 羽々が驚きの声を上げ、そのまま言葉が途絶える。

「あの引きこもりが直々に?」

「は」

「……ああそうか、ヌシが作った酒の泉目当てか?」

 ヌシが作り出す酒の泉はたった一口で人を泥酔させる。大の酒好きで知られる紅霞山の頭領、朱呑がこれを逃さないはずがない。

 ヌシの討伐は人間に任せ、自分は危険を冒さず、酒だけせしめていくつもりだったのだろう。

 そう思った彼女に対し、男は首を横に振った。

「酒の泉に関しては部下の鬼どもに『好きに取れ』と言ったきり、自分は手を出さなかったそうです」



 ──討伐に手を貸さなかった貴様らが、何を。

 討伐隊隊長、尾身蔵之介おみくらのすけが鬼の形相で詰め寄ると、朱呑しゅてんはへらりと笑って肩をすくめた。

「やや、これは失礼した。だが、人のみで物事を成すことを美徳とする貴殿らの方針を聞けば、こちらが手を出すなどという野暮ははばかられた」

 いやはや残念無念と、大げさすぎる反応に苛立ちが募る。

「助力を申し出たのは貴様らであろうが」

「ああその通り。それゆえ、貴殿らの尻拭いはしてやろうと思うてな」

「尻拭いだと?」

 応よ、と朱呑は笑みを深めた。

「あの蛇は天をつたい、東の果てへと逃げ落ちた。だがまぁ、貴殿も察している通り、安泰とは言い切れまい。憎しみに身を焦がし、復讐に舞い戻るかもしれん」

 あの傲慢さを鑑みれば、想像に難くない。反論がない彼の様子を見た朱呑は言葉をつづける。


「と、いう訳で、儂があの蛇を追おう」

「は」

「言ったろう?尻拭いと。ヌシとやらが死ぬまで、貴殿らは安心できん。かと言って追う事も出来ん。対策は守りを固めるくらいだろうよ。違うか」

「紅霞山の頭領たる貴様が?山ががら空きになると、わざわざ我らに伝えてどうする」

「ハ、貴殿らに後れを取ろうものなら、紅霞山はとっくに妖どもに支配されとるよ」


 愉快気に肩を揺らした彼は、突如尾身の襟を掴み引き寄せた。息を詰める彼の耳に口を寄せ、朱呑は囁いた。


「あの蛇が巣食っていたのは灯里の外の土地であろう。蛇を時をかけて山まで追い詰め、討伐し、どさくさに紛れて土地を灯里の領土として占領する。ああ、貴殿らの言い分では【保護】か?まああそこには弱った人間しかおらんからな。どんな言い分であれ反対などされるはずもない」


 尾身の驚愕した視線を受け、朱呑の目が細められる。


「文句を言いそうなのは都だが……ああそういえば、十坏とつきと言ったか?貴殿らと同じく、人のみの繁栄を掲げる、鬼妖きよう排除派の者たちが朝廷にいたな。随分と仲が良いようではないか」


 襟を掴む手が緩む様子はない。朱呑はなおも言葉をつづけた。

「最近、西北の土地で軍備を整えていると風のうわさで聞いてな。確か、その土地の名は【灯里】と言うそうだ」

「……我らが帝へ反旗を翻すとでも?」

 朱呑は首を横に振った。

「鬼どもが騒いでいたよ。十坏と結託して我らを消すつもりなのではないかと」

 尾身は隠した拳を強く握りしめた。動揺が悟られないように、顔に力を籠める。

 鼓動は伝わっていないだろうか。心臓が口から飛び出そうだ。あの金の瞳が、自分の心の内を見透かしているような気がしてならない。

 尾身はつとめて平静に口を開いた。


「……それは面白い」

「面白い?」

「紅霞山の頭領ともあろう者が、そのような荒唐無稽な噂話を信じるとは」

 驚いた、そう言って相手の顔を窺う。

 どんな形相をしているのかと思いきや、意外な事にそこにあったのはきょとんとした間抜け顔だった。目を何度か瞬かせた後、朱呑は襟を掴んだ手を放す。

「我らの山は要でもあるからな。警戒しておくに越したことはない」

 緊迫した空気が解ける。これ以上追及する気はないらしい。

 尾身は乱れた襟元を正す。それを見た朱呑が苦笑した。


「我らの助力を受け入れた貴殿らのひめに礼を言おう。心配せずとも約束は守る。あの蛇が灯里に手を出せんようにはしておくさ」

 ひらりと手を振り、朱呑は尾身に背を向ける。

「できれば末永く、良き友人でありたいものだな。儂とて、貴殿らと平和に酒を飲みかわしたいと常々思っているのだが」


 返事は返せなかった。その前に、朱呑が忽然と姿を消していたからである。




「……何が平和に酒を飲み交わしたいだ」


 灯里の姫がおわす護城、その大広間。


 羽々の報告を渋い顔で聞いていた武家衆の一人、荒田行武あらたゆきたけが吐き捨てた。

 精悍な顔つき、筋骨隆々とした身体。元荒くれ者のこの男は、灯里を守る武士として仕えても荒っぽい性格は変わらない。

 姫はそれでいいと笑っていたが、どうも不安がぬぐえない。先程まで苛ついていた自分を棚に上げた羽々は、目の前に座る【お姫様】を見遣る。

 華やかな衣に身を包み、真剣な表情で耳を傾けていた彼女は、荒田をいさめようとはしなかった。


「あの飲んだくれの昼行灯、釘を刺しにわざわざ出てきただけか」

「それはそうでしょう。我らが兵を挙げた際、矢面に立つのはまず紅霞山でしょうから」

 荒田の言葉に被せるように発言したのは吉里義人きりよしひと。若いながらも頭脳明晰な彼は、会議でも参謀として意見を求められる事が多い。ただなぁ、と羽々は内心ため息を吐く。

 あの、人を物としか思っていない冷たい双眸が気に食わない。姫への忠誠は本心だということだけは分かるものの、羽々は苦手意識がぬぐえなかった。

 鋭利な目をさらに細めた彼は、顎を撫でて言う。


「灯里が出来る前からあの山に居座っていた鬼です。我々の企みが見透かされないとは流石に私も思っていませんよ」

「つまりさ、ええと、よく分かんねぇんだけど」


 おずおずと手を挙げたのは原康太はらこうた。姫と同じ年、十九歳という最年少で武家衆にのし上がった彼は、まだ子供っぽさの残る顔をしかめた。


「アイツは俺たちに良い顔をしておきたいってことか?」

「ええ。貴方にしてはよく頑張りましたね」

「褒められた気がしねぇ……」


 不貞腐れる彼を尻目に、吉里は話をつづけた。

「とは言え、ヌシ、いえこの呼び名はもう適切ではありませんね。あの大蛇に手を出させないと言った彼の言葉は信じてよいでしょう。いくら彼とて約束は守らねばならない。これには人も鬼も妖も例外はない。大蛇の心配はないと言っていい」

「羽々が言っていた、守りを固める話は?」

 沈黙を保っていた青年が、厳かに口を開いた。隠密を生業とする彼は黒装束に身を固め、さらには口まで覆っている。暗い顔からは感情が全く読み取れない。

「敵は大蛇だけではありませんから、固めるに越した事はないでしょうね」

 隠密の青年──世良せらが顎を引く。

「とは言え十坏氏が行動を起こすまで、ことは慎重に進めねばなりません。しばらくは保護した者と土地を含めた内政に徹するべきです」

「他のとこはどうするんだよ。餓えのあまり……人が人を、食うしかねぇってとこもあるって聞いたぜ。もっと早く動かねぇと手遅れになるだろ」

「いえ、心苦しいですが、これ以上はこちらの財力が持たない。原君の考えも分かりますが、ここは耐えねば、灯里の者まで共倒れになる」

 ぴしゃりと言い放たれ、原は言葉を飲み込んで俯いた。

 吉里はその目を広間の奥に向ける。


「いかがですか、我らが主」


 齢十九。姫と呼ばれる可愛らしい顔に浮かぶ、凛とした表情。どこまでも澄んだその双眸はまさしく城主にふさわしい威厳を兼ね備えていた。

「──まずは、羽々。ご苦労様でした」

 小ぶりな口から流れる涼やかな声。羽々は深く頭を下げる。

「私も、朱呑殿の言葉は信用してよいと思います。でなければ人が都との行き来などできるはずがありませんから。大蛇は朱呑殿に任せましょう」

 荒田が平伏した。

「吉里の進言については悩ましい所ですが……世良に、朝廷について探りを入れてもらいました。十坏の中でも長門ながかど様を始めとする排除派と反対派で対立が深まっている、そして反対派の貴族たちが次々に行方知れずになっていると」

「長門様が躍起になっているというのですか?」

「ええ。そろそろ動きがあるでしょう。すでにその発言力は白翁御大もしのいでいますが、不安因子は取り除いておきたいと思っている──長門の思惑は大方このようなところでしょう。世良も吉里も同じ見解です。ですから原、もう少しの辛抱です」

「はっ……いてっ!」

 原が床に頭をぶつける。

 何故こんな時にそういう気の抜けることをするのか。いやまあ、そういうやつが場を盛り上げるのか。羽々は姫を見遣る。

 彼女は一瞬だけ微笑みを浮かべると、顔を引き締めた。

「妖や鬼に虐げられる世を変えて、人が笑顔で暮らせる世を作る。私たちが動く目的を、決して違えないよう。然るべき時に向けて、速やかに準備を進めてください」

「はっ」


 平伏した一同を見下ろし、姫は立ち上がって部屋を出る。衣擦れの音が遠のいて、羽々をはじめとした面々は大きく息を吐き出した。

「どうした原」

「……なんか」

 羽々が声を掛けると、姫が去っていった戸口を眺めていた原が振り返る。

「姫様、遠くの人になっちまったなーって」

「そりゃ」

 城主になったんだから当然だ。そう言おうとしたが、何故か羽々も言葉に詰まった。

 代わりに応えたのは荒田である。

「もうすぐ兵を挙げるって重大な時が近づいてんだ。気い抜けた姿なんぞ見せらんねぇだろうよ」

 そう言うと、荒田は頭を掻く。

「今はそういう時なだけだ。気に病むこたねぇ。俺らがあの姫さんにしてやれるのは支えるってことだけだ。ま、むしろあのちんちくりんがよく成長したと感心するぜ俺は」

「ふむ。荒田が至極真っ当な事を言うとは。明日は槍でも降りますか」

 うるせえやい、と即座に言い返すあたり、荒田も原とあまり変わらない──とは言わないでおいてやろう。

 羽々が目を逸らすと、密かに広間を出ようとする黒装束が目に入った。

「世良」

「……何だ」

「また都に潜るのかい」

「最近になって状況の移り変わりが激しい。逐一探らねば期を逃す」

「そうか。夜には気を付けな」

「気遣いは無用。……では御免」

 素っ気なく答えた後、世良は姿を消した。

「ま、質問に答える辺りはアイツも成長したっていえるだろうが」

 独りごちる彼女の肩を、吉里が叩いた。

「羽々殿」

「何だい?」

「尾身殿の報告について気になる点が」

 声を潜めた辺り、他には聞かれたくないことなのだろう。廊下に出ると、彼はようやく口を開いた。

「朱呑の動向についてです」

「アイツは大蛇を仕留める、って話だろ?」

 羽々が眉を寄せた。「アンタも任せておこうって言ったじゃないか」

「ええ。ですがどうにも気がかりで。……あの鬼は、本当に大蛇を『仕留める』と言ったのですか?」

「……なんだって?」

「貴女と尾身殿の話を聞いた限りでは、あの鬼は『後を追う』『手は出させない』とは言いましたが、『とどめを刺す』『仕留める』、奴の息の根を止めるような言葉はひとつも言っていない。どうも妙なのです。警戒をするわりにはわざわざ山を開けて、頭領自ら東に向かう点もおかしい」

「約束は守るって言いたかっただけじゃないのか」

「……姫様には報告しませんでしたが、世良がもう一つ掴んだ情報がありまして」

 吉里がその長身をわずかに屈める。

「数日前、十坏長門様の甥、十坏冬成とつきふゆなり様が放落ほうらく(※千古の都を出て落ち延びること)したと。なんでも長門様に追放されたと言われていますが……」

 彼の話が読めない。つまり、と目線で続きを促すと、彼はさらに声を潜めた。

「その冬成様は護衛兵を付けて都を出たらしい、と」

「護衛兵というのは」

「長門様の私兵数名です」

「その冬成様ってのは追放されたわけではない?」

「話が早くて助かります」

 吉里は満足気に頷いているがそれどころではない。

「どこに向かったんだ。まさか」

「ええ。東の方に落ち延びた、と言われています。……偶然にしてはおかしいと思いませんか?」

 東に逃げた大蛇。その後を追った紅霞山の頭領。そして、すでに都を立ち、東へ向かった十坏長門の甥。

 ──出来すぎていることは分かる。東に何かがあるのかもしれない、そう思ったが都を挟んだ東側は既に妖の巣窟だ。私兵数名でなんとかできるものではない。

 鬼妖きよう排除を掲げる長門と鬼である朱呑は相容れない。協力して妖を一掃しようなんて展開にもならないはずだ。

 彼女の困惑を見て取ったのか、吉里が頷いた。

「私にもこれが何を意味するのかは、まだ。今は姫様のおっしゃる通り、準備を進めるほかありませんが……」

「東にも警戒しておけ、と?」

「ええ。私も監視はさせておきます。姫様には余計な心配事をさせたくないので」

 話は分かった。だが、と羽々の顔ににまりと笑みが浮かぶ。

「心配させたくないか。アンタも随分お姫様に甘くなったねぇ。ええ?」

「はは、貴女には及びませんよ」

 一瞬目を丸くした彼は、すぐに元の涼やかな笑顔を浮かべた。




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