第四話 流るる霞【其の壱】

 戸口に立った晴子が振り向いた。


「じゃ、兄様。留守番よろしく」

「うん。いいか晴子、ちゃんと」

「日の入りまでには戻ること!でしょ」

「……分かってるなら、まぁ」


 いいか、と息を吐いた道常。底抜けに明るい笑顔を咲かせた晴子はがらりと戸を開ける。

「行ってきます!今日も期待してていいよ!」

「はいはい。怪我しないようにな」

 手を振り返しながら、門へと駆けてゆく妹を目で追う。飛び跳ねる影が霧の向こうに消えたのを確認し、道常は戸を閉めた。


 妹に内緒で温めていた『都行きに晴子を同行させる計画』が本人に知られた、その翌日。彼女はいつも以上に元気よく釣りに出掛けて行った。

 「都に行きたい」と一言も漏らさず、父が帰ってこないと不平を言うこともなく。

 あの一件から気味が悪いぐらい行儀よくなった彼女を思い返し、道常は眉根を寄せる。


 人はあんなにも変わるものなのか。いっその事、先に暴露した方が良かったのではないだろうか。

 

──とんでもない。

 道常は頭を振る。


「あんなこと、晴子に言えるわけがないだろ」


 今思い出しても恥ずかしいというのに。また熱を持ち始める頬を叩き、頭から恐ろしい考えを追い払う。道常は台所に向かった。

 結果的に、彼女が元気になったのだから良い。

 そう自分に言い聞かせる。そうだ、晴子が元気であればそれでいいのだ。


「さて、今日の夕飯はどうするかな」


 気持ちを切り替え、彼は戸棚を開けた。万が一晴子の成果が無かったとしても、干し魚や乾物を使えば何とかなる。「問題は調味料」と中を覗いた彼は空の瓶を見て、うなだれた。

「……そうだった。醤油は父上待ちか」

 

 

 道常たちが暮らす加々良山かがらやまに商人は滅多に来ない。濃霧で道が危ういだけではない、物の怪の餌食になってしまうからである。

よって、食料の調達方法は三つに分けられる。


 一つは、晴子による現地調達。魚や山菜が主となる。


 一つは、妖たちとの取引による恩恵。

 ただし、命が一つしかない人間にとっては危険な賭けに変わりはない。もちろん、道常や晴子たちは取引できず、そういったことはこの屋敷の主である父が受け持つ役目となっていた。


 そして最後に、都からの調達である。

 加工に複雑な工程を必要とする調味料は、流石に上記の方法で調達するのが難しい。妖にも作れないものはあるらしい。よって、仕事で都に行く父の道遠みちとおに買ってきてもらうわけだ。


 麻袋を取り出し、中を覗き込んだ彼は思わず悲鳴を上げた。


「うわっ」

 やらかした。自分の失態に天井を仰いだ。

 

 「塩が、ない」

 

 昨日の夕飯で景気よく使ってしまったのだ。まだもうひと袋あるものだと思っていた。


 袋の中身はすっからかん、ひと舐めしたら終わる程度しか残っておらず、夕飯二人分を賄える量には遠く及ばない。

 ウナギにアユかと好物に浮かれ、大盤振る舞いした自分が今となっては腹立たしい。


「参った。あと一週間どう切り抜けよう」


 戸を閉めた彼は床に座り込んだ。一週間という期間が肩に重くのしかかる。父の帰りが待ち遠しい。なんだ結局晴子と同じじゃないかと、道常は内心で舌打ちした。


「いっそ酢漬けかトウガラシで辛味尽くし……だめだ晴子が泣く」


 そもそも彼も辛味は得意ではないのだ。

 塩と醤油が封じられた今、魚をどう調理すればいいものか。

 次々に浮かぶ調理方法をあれではない、これではないと切り捨てながら道常は立ち上がった。


「ひとまずは……煮込むしかないか。酒ならまだあったはず」


 壁に掛かっていた鍵を取る。裏口から出て向かった先は小さな蔵。父が取引の末に得た食料が備蓄されている。その蔵の前に立ち、──道常は絶句した。


 戸が、開いている。


「は」

 呆然と立ち尽くすこと数秒。我に返った道常は慌てて扉に駆け寄った。


 中に飛び込んだ彼の鼻をついたのは、つんとした、それでいて頭がふらつくような甘い匂い。

 薄暗い奥を見遣ると、酒樽が全て横倒しになっていた。戸口に至るまでの床が濡れて黒ずんでいる。


「──」


 言葉が出ない。ゆっくりと唾を飲み込めば、その音が嫌というほどはっきりと自分の頭に響いた。


 甘ったるい匂いに眉を寄せ、道常は倒れた酒樽を起こした。

 文字通りのカラだ。身を乗り出し、手を伸ばすと空を切ったてのひらが底につく。幻覚だと思いたかった。


 酒が盗まれた。それどころか飲み干された。信じられない事実に呆然としてしまう。


 ここが平地ならまだありえるだろう。しかし、こんな危険な山に野盗や盗人が入り込める訳がない。とすれば考えられる可能性は一つ。それに思い至った道常は眉を寄せた。


「……妖か?まさか」


 確かこの酒は、「この山で偉い天狗から貰った酒だ」と父が自慢していたシロモノだ。それを飲み干した?天狗の顔に泥を塗るも同然の行為を、よりによってこの山の妖が?ありえない。実際、過去にこんなことは一度たりともなかった。


「……う、痛……」


 せ返る酒の匂いに吐き気を覚える。

 駄目だ、上手く考えられない。

 痛む頭を押さえ、道常は外に出た。


 地面を見下ろす。足跡はない。蔵の床と同じく黒ずんだ道が出来ており、蛇がのたくったような軌跡を描き透垣まで伸びている。

 犯人は屋敷の外に逃げたらしい。気づけば足が道を辿っていた。


『──あ!兄様、そっちじゃないって!』

『仕方ないなぁ。釣りは私一人で行くわ。兄様は道に迷うから』


 妹の言葉が頭に浮かんでは消えていく。迷わない妹がおかしいだけじゃないのか。そう言い返そうとした言葉を飲み込んだのを覚えている。


 今、この跡を追ったとして、日の入りまで戻れる保証はない。妹を心配させてしまうかもしれない──その懸念を振り切った。


 とにかく、犯人だけははっきりさせねば。

 父の沽券にもかかわるし、今後同じことが繰り返されたらと思うと黙ってはおけない。

ゆっくりと息を吸う。


「よし」

決意の言葉を吐き出すと、彼は門に手をかけた。


◆◇◆


 足にもやがまとわりつく。乳白色の霧が木々の間を流れている。

 いつものことだ、慣れている。晴子は空を仰いだ。


 絵巻物に見るような青空はない。黒っぽい木々から覗く空は厚い霧に覆われて、白灰の色が広がっている。もう日は高く昇っているはずなのに、太陽すら拝めない。

 日光が微かに差し込む場所もあるものの、本物の青空は生まれてこのかた見たことがなかった。


「ヒメサマ。今日も釣りですか」


 立ち止まった晴子の耳に声が降る。空から目を戻すと、木の枝に子猿がぶら下がっていた。


 ──正確には猿ではなく、老人の顔をした、猿に近い物の怪。尻の部分についた口から、ケタケタ笑い声が上がる。

 兄が読んでいた曲の書物には【老猿おいざる】と表記されていた。確か、人を遥かに超えた才知を持つのだとか。

 しわくちゃの顔をさらにくしゃりと歪め、妖は彼女に問いかけた。


案内あないはいりますかな」

「お願いします」

「結構、結構」

 動じた様子もなく頭を下げた彼女を見て、老猿はご機嫌に頷いた。

「いつもの釣り場へ?」

「うん」

「それでは」

 了承の言葉を残し、老猿は霧の中へ消える。するとどうしたことか、彼女の足元の霧がみるみる内に引いていった。地面がはるか先までくっきり見える。晴子は歓声を上げて足を踏み出した。

 毎度のことではあるが、何度見ても霧が晴れる様は気持ちがいい。


 歩きながら森の中に視線を送れば、木々の間を駆ける影が目に映った。


 空にまで突き抜けた巨大な影。枯れ木のように細く折れ曲がった影。獣のように蠢く影。木々のざわめく音に混じり、子供の笑い声が聞こえてくる。

 なんだか楽しくなった彼女は、笑い声につられて歌いだした。


「こなた、かなたに浮かぶ月、いと美しと、狸惚れっ」

「──来る夜来る夜も空見上げ、それでは足りぬと、手を伸ばすゥ」


 彼女に応えるように、森の中からも歌声が響いた。

 月をなんとかして盗もうとする狸の歌。父がいない時寂しくて泣きだした彼女に、兄が子守唄代わりに歌ったもの。

 めげない狸があまりにもかわいくて、以降、ことあるごとに兄にねだり、歌ってもらっていたのである。

 いつも道行く途中で歌っているから彼らも覚えたのだろう。

 黒い影がひょこひょこ踊り出し、それがなんだかひょうきんで、晴子は小さく笑い声を漏らした。


「ふふ、……あれ?」

 がさりと音がした。振り返ると、後方の茂みが震えている。

小さな手足がにょっきりと生え、やがて茂みから飛び出したのは小人だった。

 背は足首ほど。顔はなく、ぽっかり大きなうろの空いた顔が彼女を見上げる。「あなたも来たの」と声を掛けると、彼女に合わせるように横を走り始めた。


「ヒメサマ」

 風の音に交じり、子供特有の高い声が聞こえた。風穴の空いた顔が口のように伸び縮みする。

 この妖も、時折一緒に釣り場に行ってはやんややんやと囃し立て、魚をねだる観客の一人だった。

 真っ黒い顔の穴に、サワガニが吸い込まれていくのを初めて見たときは驚いた。魚籠を蹴飛ばしかけ、危うく獲物をパーにするところだったのを覚えている。


「今日は魚釣れないよぉ」


 回想に浸っていた彼女は、予想外の言葉に立ち止まった。


「え」

 なんで、と疑問を口にする前に、小人は「あのねぇ」と続きを話す。間延びした声が脳内に反響する。まるで、鐘の音のようだ。


「外から怖い奴来たよぉ。それで魚逃げちゃったぁ」

「怖い奴?あなた達に怖いものがあるの?」


 妖にはおよそ似つかわしくない言葉を耳にし、晴子は思わず聞き返した。すると、今まで周りでどんちゃん騒ぎしていた影たちも小人に同意するようにざわめき始める。

「手ぇ付けられないくらい怒ってるよぉ」


 ……一体何がこの山に来たのだろう。興味津々にその怖い奴はどこにいるのかと尋ねたら、小人の頭がぶるりと震えた。


「ほっとこうよぉ、釣り行こうよぉ。ヒメサマ死んじゃうよぉ」


頭をぶるぶる振動させながら、小人は彼女の手を掴んでぐいぐいと引っ張った。

魚が釣れないかもと言っておいて何故釣り場に行かせようとするのか。抗議しようと思ったが案外彼の腕の力は強く、なすすべもなく引っ張られていってしまう。


「あなた達は大丈夫なの?」


周りの影に聞いても返事はない。しかし少しの間をおいてから歌の続きが聞こえ始め、気にしない方がいいと暗に察した彼女は抵抗を止めた。


「ああもう、分かったから。釣り場行く。行くから、引っ張らないで」




 枝をかき分けて獣道を抜けると、目の前に沢が現れた。霧の中で光が屈折し、川の水面がきらきらと輝いている。水の流れる音が心地よい。

 妖たちの知る、秘密の穴場の一つ。

 湿った空気でへたる髪を後ろに撫でつけ、晴子は耳を凝らす。なんだか今日はいつもより静かだ。


……おかしい。いつもなら顔を覗かせるはずの河童も見当たらない。

「……大丈夫、大丈夫」

 今日は別の川にいるのかもしれない。そう自分を納得させ川辺に居座る岩に登ると、彼女は早速釣り糸を垂らした。





「ふぁ、あ。おかしいなぁ」

 今日八回目のあくびをして、晴子は手元を見下ろした。釣り糸を垂らしてどのくらい経ったのだろう。釣り竿はいまだ沈黙を保っていた。昨日は大漁だったのにも関わらず、だ。

 魚が釣れないかもといった小人の発言は本当だったらしい。


 兄に「期待してていいよ」と自信満々に言って出てきた手前、晴子としてはどうしても空の魚籠を持ち帰りたくはなかった。一匹くらいは、と粘ってみたが、垂れ下がる糸はうんともすんとも言わない。


 本当に、魚は逃げてしまったのだろうか。もう少し話を聞いてみようと周りを見回してみて、ぎょっとした。


 ここに連れてきてくれた妖たちはどこへやら、煙のように消えてしまったのである。


「えっ」


 思わず立ち上がる。その拍子に、水面から釣り針が浮く。大声で何度も呼びかけても返事はない。ただ自分の声が、川辺に反響するだけだった。


「帰っちゃったの?」


 先程までのことを思い返して、途中から彼らの声がしなかったことに今更ながら気が付いた。沢の音を彼らの話し声と勘違いしていたのかもしれない。


 じゃあ、釣り糸を垂らしてから今までずっと一人だったのか。自覚した途端、急に心臓を締め付けられる心地がした。

 帰る時は一人でも平気なのに、釣りの時に囃し立てる仲間がいないだけで心細い。


「う……」

 喉から嗚咽が漏れる。瞼が熱い。目に何かがこみ上げ、じわりと視界が歪んだ。

 

「待ってよ」

 返事はない。


「兄様」

 たまらず、震える声で兄を呼んだ。兄がこんな場所まで来るわけがないのに、馬鹿みたいだ。


『お前は俺の自慢だよ』


 ふと、彼の声が聞こえた気がして顔を上げる。もちろん、彼がいるはずもない。昨日言われた言葉が頭を過ぎっただけだ。

 唇を噛み締め、彼女は釣り糸を巻き上げた。魚籠を持って岩を降りる。


「まだ、川上の方にいるかもしれないし」


 ここにいたって仕方がない。日暮れまでまだ時間はあるのだ。川沿いを行けば妖たちの案内がなくたって大丈夫。川を遡って奥へ行こう。

 雫のつたった頬を叩く。「よし」と気を吐いて、彼女は砂利の中を歩き始めた。




 森の枝葉がざわめいている。苔に足を滑らせつつ、折れた大木を乗り越える。汗と霧、石にぶつかり跳ねる水で、髪はおろか服までもびっしょりと濡れていた。

 この濃霧のせいでどれだけ進んだのかも分からない。随分進んだ気はするが──

 

 息を整え、顔を上げる。瞬間、晴子は目を輝かせた。


「滝だ……」


 しぶきを上げる白い水柱。荒い息とともに吐き出した呟きは、ごうごう唸る水音とともにかき消された。

 しばし滝に釘付けになった彼女は我に返り、首を振る。辺りを見回したが、今までと同じく誰もいない。滝の音以外には何の音も声も聞こえなかった。


「皆どこ行っちゃったんだろう」


 外からこの山に来たという【怖い奴】に皆怯えて隠れてしまったのだろうか。理由はどうあれ、【怖い奴】が今の状況に関係していることは明白だった。


「……何よ怖い奴って。この山に来たからには皆に挨拶するのが礼儀ってものでしょ」


 ふつふつと湧いた怒りに任せ、晴子は地団駄を踏む。枝が落ちていたらしく、パキリと気持ちのいい音が鳴った。


「何に怒っているかは知らないけどね、あれでしょ、ええっと……やつあたり、そう、八つ当たりって奴じゃない!いい迷惑だわ、全く」


 刀を振りかざすかの如く、釣り竿を振り上げる。まるで御伽草子の主人公になった心地に、晴子は声を張り上げた。


「誰かは知らないけど、加々良山の定家さだけ一員、この晴子が成敗してやる!」


 えい、と釣り竿を振り下ろそうとして──ぐいと後ろに引っ張られる感触に、首を傾げる。頭上を見上げて、彼女は「あ」と目を丸くした。


 木の枝に釣り糸が絡みついている。


 晴子は慌てて釣り糸を手繰り寄せようとするが、枝は僅かにしなるだけで折れそうもない。背伸びをしてもあと少しの所で届かず、手が空を切った。


「あれ、あれ?」


  飛び上がったが葉っぱから垂れた雫が目に入り、ぎゃっと悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

 頼みの綱である妖たちはいない。目を押さえて唸る晴子の脳内で、焦りばかりがぐるぐると渦巻いている。

 

 どうしよう。ああ私のバカ。あんな調子に乗ってるからこんなことに──



「取ってやろうか」



 微かに掠れた、それでいてよく通る声が鼓膜を揺らす。


 彼女の手に重なるように白い腕が伸びてきて、一瞬時間が止まった気がした。

 

 地面に影が落ちる。耳元に白い吐息が掛かる。

 ──後ろに誰かがいる。分かっていても、なぜか身体は雷に打たれたかのように動かない。


 そうこうしているうちに兄に似た、それでいて筋肉質な手は釣り針を掴み、絡まった釣り糸を器用に外していく。


「ほれ」


 朱色の袖が視界を過ぎたかと思えば、さっきの手が目の前に突き出されていた。血管が浮き出て骨ばった手の甲。


綺麗だ、と思った。


「どうした。要らん手伝いだったか?」


 僅かに困惑した声の響きに、晴子はようやく後ろを振り向いた。


 少し垂れ目気味の、金に輝く双眸が彼女の目を奪う。


 朱の着物の上でひらめく、肩から羽織った若葉色の衣が印象的だった。

 

──白銀の髪を揺らした青年が彼女を見下ろしている。


 額には一本の角が生えていた。妖だろうか。初めて見る人だ。もしかして外から来た【怖い奴】だろうか。

 疑問が頭に浮かんでは消えていく。口が思うように動かず、半端に開いた状態のまま固まっていた。


 恐怖はない。驚きもとっくに消え去っている。

 しかし、彼女は動けなかった。


 ──端的に言えば、見惚れていたのだ。

 滝を背に凛と立つ、涼やかな顔をしたその男に。


 鼓動が痛いぐらいに響いて鳴りやまない。それでも、彼女の目は青年に吸い込まれたかのように釘付けになっている。


  ああ、なんだっけ。何を言おうとしたんだっけ。


 頭がうまく回らない。彼の手からぶら下がる釣り針が光って、ようやく「お礼を言わなければいけない」ということに思い至った。

 手をぎこちなく動かして、ようやく彼から釣り糸を受け取る。


「……あ、ありがとうございました」


  深く頭を下げると、頭上で低い笑い声が落ちた。


「ほう、ちゃんと礼は言えるか」

 青年と目が合う。口角を上げた青年は目を細め、値踏みするように少女を見つめている。


「いやなに、随分呆けた顔をしていたからな。怖がらせたかと思った」

「怖い?」

 想定もしていなかった言葉に思わず聞き返す。するとその反応が意外だったらしく、青年は目を丸くした。


「まさか小娘、怖くないと?」

「助けてくれた人を怖がるの」

「見て分からんか?わしは鬼だが」


 言われた言葉に、ああと納得した。そうか、角が生えた彼は鬼だったのだ。確か御伽草子に出てきた気がする。呑気にそんなこともあったと思い返していると、鬼の青年はまた愉快気に笑い始める。目元に少し皺が寄り、それですら色香が漂うのだから不思議だ。


「なるほど、儂の名も知られていないか。ま、こうもド田舎だとそれも仕方あるまいて」


「貴方の名前?有名なの?」

 否定の返事がないということはそうなのだろう。加々良山が侮辱された気がしないでもないが、今の彼女には、彼と話したいという欲望が勝っていた。


 掠れた声が心地いい。愉快気な笑顔に目が吸い込まれる。少々砕けた、やたらと老人くさい口調だと思ったが、何故か彼の纏う雰囲気に合っている気がする。


 老人なのか青年なのか分からない、不思議な気配。

 兄や父とはまた違った空気を纏う青年に対する興味が、晴子の喉をくすぐった。


「儂を知らずとも、鬼の恐ろしさは流石に伝わっておるだろ。怖くないのか」

 晴子はゆるゆると首を横に振った。

「では何故呆けていた?恐怖以外には考えられんが」


「見惚れていた、から?」


 ──馬鹿。

 口に出した瞬間、晴子の中で後悔がせり上がった。世間知らずと兄に揶揄された彼女でもこれは分かる。そういう事を初対面で言うもんじゃない。


 みるみる内に頬を赤く染める彼女を見て、彼はぽかんと口を開けた後。


「……は、」

 堰を切ったような高笑いが滝壺に響き渡った。

「な、何」

「いやぁ悪い。しかしな、はぁ──これは、ふ、ふふ」

 一度笑いを堪えようとするが、再度噴き出してしまう青年。

 何が可笑しかったのだろう。おかしいことを言ったと晴子自身も自覚はしているが、何もそこまで笑うことはないではないか。


 唇を一文字に引き結び俯く彼女を目にし、彼はようやく笑いを止めた。どうやら笑い上戸らしい。


「ああ──笑った笑った。初めて言われたぞ、そんな事」

 どこか嬉しそうに頬を緩めた男は、身を屈めて、俯いた晴子に目を合わせた。


「……怖いもの知らずの小娘に教えておこう。儂は紅霞こうか山の朱呑という」

「こうかやまの、しゅてん」

 言われるままに、彼の言葉を反芻する。朱呑はご機嫌な顔で頷いた。


「今はそれだけ覚えてくれれば良い。何、儂も笑わせて貰ったしな。知らぬことを咎めはせんよ」


 彼女の目を金の双眸が捉える。

 外から来たの、と尋ねると、朱呑はまた頷いた。


「……もしかして妖たちが言っていた【怖い奴】って貴方?」

「さぁな。ただ話も通さず来たから、迷惑をかけたことに変わりあるまい」


 朱呑が涼しい顔で肩をすくめる。

 全く迷惑かけたと思っていない顔だが、もしかしたら、この朱呑という男は怖い奴ではないのかもしれない。少なくとも、彼女にとっては怖くはない。

考え込む晴子に、今度は「なぁ」と朱呑の方から声を掛けた。


「所用があって、しばらくここに滞在することになってな。──お前がいいなら、またここに来て儂の暇つぶしに付き合って貰えんか」

「え」


 思わぬ提案に、晴子は目を瞬かせた。

 弧を描くその瞳に彼女自身が映る。鳩が豆鉄砲を食った顔、とはこの顔を言うのだろう。

 晴子は手元を見下ろした。あんなに絡まった釣り糸はいつの間にやら綺麗にまとめられている。


 あんなにしぶきを上げていた滝の音が遠い。彼に目を戻した晴子は、やがてゆっくりと頷いた。

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