第三話 殿中にて

 笛の音、鈴の音が暗闇の中で反響する。太鼓が鼓膜を揺らし、合わせて花の香りが鼻を掠める。陽の光が肌に触れ、手の内に汗が滲んだ。


 どうやら春が来たらしい。

 

 八幡やはたは瞼を開ける。

 目の前には太陽に照らされた舞台。その中央に、おきなの面を被った男がいた。

 拍子に合わせて片足を上げ、男はくるりと回って見せる。床に散らばった桜の花弁が、それに合わせて舞い上がる。袖がひらめき、縫い込まれた金糸が光を反射して輝いた。面の下から紡がれるのは春を寿ぎ、世の安寧を願う祝詞のりとである。

 繰り広げられるきらびやかな舞から目を逸らし、八幡は小さく肩をすくめた。


「舞うてるのが女やったらなぁ」


 八幡はぼそりと呟いた。彼の周りに座る貴族たちはみな舞台に目を向けている。満足気に笑みを零し、目の前で繰り広げられる舞に惚れ惚れと見入っている。


 舞台も観客も華がない。


 ずらりと並んだ、夢見心地な顔を一通り眺めてから、八幡は舞台を挟んだ向かいに目を遣った。

 屋根の下の席にも貴族たちがひしめいている。その奥には帝がおわすのであろう、垂れ下がった御簾みすが見える。

八幡は思わず苦笑した。どいつもこいつも、浮かべているのは人形のような笑顔。まったく気味が悪い。


「これはこれは」


「ふふ、臭いますな」


 ふと隣から声が聞こえた。どこか嘲笑を含んだ囁きに、八幡は目を細めて右隣を見遣る。

そこには恰幅の良い壮年の男が、悠然と口髭を撫でていた。

「おや、錦上きんじょう殿」

八幡がその名前を呼ぶと、男はしゃくを口元に寄せた。へらりと笑ったその目尻に、紅葉のような皺が刻まれる。

十坏とつきの獣どもなぞ眺めて何になるというのです、八幡殿。まさか今更取り入ろうとでも?」


殿中主でんちゅうしゅの大半を占める大貴族やさかい。錦上殿こそ、舞に目奪われてはいずれ食いつぶされてまうんやないの」


 朝廷では、貴族の中で限られた者のみが中心部たる殿中でんちゅうへと入り、政について協議することができる。その者たちを指す呼称が殿中主でんちゅうしゅである。


 今話している八幡と錦上も殿中主の一員だが、残りの席はほぼ十坏氏が占めており、千古の政は十坏の独裁状態となっていた。

「何を言うかと思えば」身を乗り出した錦上は瞬時に口を歪めた。


「十坏も一枚岩ではないでしょうに。聞きましたか?」

「何を?」


「また十坏氏の遠縁が行方知れずだとか。毒殺か、暗殺か、追放か。いずれにせよもうこの世にはおりますまい」

「……おお怖や」


「それも他ならぬ十坏長門のご指示だと。同じ十坏氏でも消されるやもしれぬ、と噂が立っている様子」


「摂政殿のご指示?」


「ええ。十坏も長くは保ちますまい」


 錦上は口角を上げた。

こういった噂話を好むのがこの男である。ペラペラとなんでも話す様は見ていて危なっかしいが、情報源にもなりうるためか周りから人が離れていかない。この男自身それもよく分かっているようだ。

 

「それに、長門の甥──冬成ふゆなりと申しましたか、彼も失踪したとのこと」

「失踪、か。これはまた、きな臭くなってきよったなぁ」

 勺の下で漏れた呟きは太鼓の音にかき消された。

「おや、八幡殿」

「うん?」錦上が舞台を勺で指した。

「丁度終わったようです」

八幡が目を向けると、翁面の男が深々と一礼をした。


──翁が顔を上げた次の瞬間、桜が舞い上がった。


貴族たちの間からどよめきが上がる。

あっという間の出来事だった。

どこからともなく突風が吹き、瞬く間に花弁が視界を覆い隠していく。花嵐が過ぎた後、あとには花の香りが残った。


「困りましたな」

 錦上が空を仰いでポツリと漏らした。

うつつに連れ戻される瞬間の虚しさは、未だ慣れない」

「錦上殿は今までずうっと現にいてはったやろ」

 青空は厚い雲に覆われていた。辺りに散っていた桜の花びらは跡形もない。

 そして、あの舞人は姿を消していた。先ほどの舞が幻であったかのようだ。

「当然か。幻を見とった訳なんやさかい」

 八幡は舞台を見下ろした。

 中央に座っていたのは、三味線を抱えた一人の男。顔に着けているのは翁ではなく、目を細めて笑う若い男の面。確かあれは「延命冠者えんめいかじゃ」と言うのだったか、と八幡は内心で独りごちる。

 男は白い羽織を頭から被っているため、顔も体つきも確認できない。

「恐ろしいですなぁ」

 錦上が舞台に座る男を見据えた。


「三味線でも琴でも琵琶でも、奏でれば立ちどころに曲の風景が現れる。今の舞の幻も三味線一本で……いやはやどうやって見せたのか」


 妖術かなにかかな、とおどけて言って見せる錦上の横で、八幡は顎に手を当てた。

「宮廷専属の【楽師がくし】の称号を貰い受けたようで。行事限定ではありますが、殿中主以外で殿中に出入りできる唯一の男です。人手不足の今、一人で演奏が済むならありがたいことですが」

「錦上殿」

「はい?」

「あん男の名前、なんて言わはったか」

錦上は目を瞬かせ、「はて」と勺を額に当てた。

「確か【道弦どうげん】と。無論芸名で、本名はいまだ誰も知らぬとか」

「おや、錦上殿でも分からへんか」

「残念ながら。ああしかし、確か──」


「見事。御見事である」

 二人は黙り込んだ。八幡は即座に視線を向かいに走らせる。十坏の貴族たちが並ぶ中でゆらりと黒い影が揺れた。


 噂をすればなんとやら。言葉を発したのは十坏氏の中でも頂点に立つとまで言われる男、十坏長門だった。


 くまが色濃く残る顔が曇天に晒される。ぴくりとも動かないその顔はまるで彫刻を思わせた。底なし沼の暗い瞳が男を捉え、口が動いた。


「他に類を見ない見事な演奏よ。こと楽器に置いて、そちの右に出る者はこの千古のどこを探してもおらぬであろう。御上おかみもお喜びである」


 儀礼的な賛辞に、道弦は三味線を下ろして平伏した。

(名も、顔も明かさぬ奏者。まあ獣の巣窟なら隠すのは当然か)

先代、先々代の帝の御代にも道弦という男はこの殿中を訪れ、演奏を披露しているのだという。【道弦】が芸名であることから、代替わりしているのだろう。帝の加護により守られた都、それも殿中に入ることが出来たのであれば、彼は人である。……おそらくは。

 好奇の目を一身に集めた男は、伏せた顔をわずかに上げる。


「恐悦至極に存じます」

低くくぐもった声が面の下から漏れた。

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