第二話 霧の屋敷

「ヤマメにアユ、ウナギも釣れた!」

 ──霧の中を、軽やかな足取りで進む少女が一人。


 右手に大きな釣り竿を抱え、左手には魚籠びくを引っ提げている。まだ幼さが残る整った顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

「ふふん。釣りも山菜採りも、兄様あにさまには負けないんだから。帰ったらびっくりさせてやる」

 そう意気込んだ彼女は、慣れた様子で山道を歩く。三歩先も見えない濃霧だというのに、彼女に迷う様子はない。踏み固められて出来た道に入ったかと思えば、鼻歌を歌いながら獣道を突き進んでいく。

「父様はいつ帰ってくるかな。次のお土産はなんだろ。かんざしくし?絵巻物だったら嬉しいな」

指折り数えてから少女は首を捻る。しばしば都に出かける父を待つのは寂しくて嫌だ、と駄々を捏ねた時期もあったが、慣れた今では父の土産が楽しみとなっていた。そんな彼女の言葉に、兄は呆れた顔をしていたが。

「また書物だったりして。難しいのばかりで頭痛くなるのよね」

 兄に頼めば、分かりやすく読み聞かせてくれるだろう。そこまで考えて少女は眉間に皺を寄せた。

 そうだ。今、彼に頼み事はしたくないのだった。


「何よ。『父上も言っていただろう。都に行くまでの道は危険だと。今の歳じゃお前は無理だ』なーんて。私よりも釣り下手なくせに」


 少女に説教臭く言い聞かせる、彼のしかめっ面が頭に浮かんだ。

 大仰に偉そうなことを言っていたが、兄ほど山に不向きな人間もいないだろう。

 釣りは坊主、見つけてくるものはすべて毒草や毒キノコ、さらに山道には迷う、そもそも体力がない。そんな彼はいつも家に引きこもっている。得意なものと言えば料理くらい。山の中に放ったら先に死ぬのは彼の方に決まっている。

 そんな兄に「今のお前では都行きは無理だ」なんて言われても説得力がない。


 きつく寄せられた眉間の皺を思い浮かべ、少女はべぇっと舌を出した。

「いいじゃない。綺麗な着物着て、華やかに暮らして、ついには男の人に見初められて、そこから始まる、恋!」

彼女はえいと小石を蹴飛ばした。軽く蹴ったつもりだったが、存外足に力を入れすぎたらしい。勢いよく跳ねて飛んで行った小石を追うと、視界の端に小さな屋敷が映る。慣れ親しんだ、少女が住む家。

 ──一瞬、挿絵の宮廷がそれに重なった。

「……いいなぁ」 

 彼女にとって、今の暮らしに不満はない。釣りも山菜採りも、家にある絵巻物や書物を読み漁るのも楽しい。父や兄との生活も楽しい。

だけど、夢ぐらいは見てみたい。胸中に描いた華々しい生活につられ、少女は口を開いた。


「都に行ってみたいなぁ」


 遠い願いを吐き出してから、彼女は口をつぐむ。虚しい心地を頭を振って誤魔化した少女は、家に向けて駆けだした。



「兄様!」

釣り竿を立てかけて少女が声を掛ける。

すると、書斎の窓が開き、少年が顔を出した。精巧な人形かと見まがうほど端麗な顔立ち。窓枠から身を乗り出した彼の鼻に、黒髪がぱらりと掛かる。


晴子はるこか。おかえり」


 妹の姿を確認したらしく、黒い瞳が僅かに細められた。

 兄の道常みちつねは昔から感情が顔に出にくいところがある。いつも不機嫌か無表情かのどちらかで、笑ったところはめったに見ない。いらない勘違いを招くから笑っていた方がいいのではと言ってはみたが、「笑う必要がない場で笑顔を作る意味はあるのか」と逆に聞き返されてしまった。

「兄様。また父様の書物読んでた?」

「……まぁ、そんな所だな」

 窓に近づいて訊ねると、なぜか兄の目が逸らされた。いつもと違うよそよそしい態度に、少女──晴子は片眉を上げた。

「兄様?」

「今日は大物でも釣れたのか?」

 さらに訊ねようとした所、兄の質問に遮られる。今日の成果について言い当てられた事に晴子は目を丸くした。

「何で分かったの?」

「『兄様』って呼んだ声がいつもより弾んでたから」

 分かりやすいんだとそっけない声で返され、晴子は手元の魚籠を覗き込んだ。

「私分かりやすいって。ホントに?」

 水中ではウナギたちがぬるぬると動いていた。返事はない。当然である。


「大方ウナギでも捕れたんだろ」


 そんな彼女の様子を見てから、兄は頭を引っ込めた。

「ええ、何で当てるの。自慢しようと思ったのに」

 ぱたりと書斎の窓が閉められる。しばらくしないうちに家の奥から足音が響き、玄関の引き戸が開かれた。

 草履を足に引っ掛けて歩み寄る兄の裾に、墨が付いている。書斎で彼がしていたのは読書ではないようだ。書き物だろうか。

(父の楽譜でも書き写していたのかな)

 内心首を傾げた彼女から、兄は魚籠を受け取って中を覗き込んだ。

「ちょっと考えれば分かる」

「あぁもう、つまんない。兄様は全部お見通しなんだもん。捕って来たのは私!私なのに」

 何だか自分が下みたいだ。むくれる彼女の頭を、兄が軽く撫でた。

「言われるまでもなくお前は俺の自慢だよ。凄いじゃないか」

 そう言って、彼は微かに頬を緩めた。珍しい表情と飾らない率直な賛辞。瞬間、彼女の顔が耳まで一気に赤く染まる。


(う、どうしよ)

 晴子は俯き、茹で上がった頬を何度も擦る。今までそんなこと言いもしなかったくせに。

 舞い上がった気持ちを落ち着けようと深呼吸を繰り返す彼女を眺め、兄はポツリと漏らした。


「釣りの腕だけは」

「ちょっと」


付け足された言葉に顔を上げると、兄は魚籠を手に家の中に戻るところだった。「今日はウナギにアユか」と呟く声が弾んでいる。

「分かりやすいのは兄様もでしょ……兄様ったら!」

 返事はなく、抗議はむなしく白い空に吸い込まれた。彼の鼻歌を最後に家の戸が閉まる。表情にあまり出ないだけで、感情がないわけではないらしい。晴子は慌てて兄の後を追った。


◆◇◆


 絶妙な焼き加減と塩加減。晴子の成果は美味な夕食となって食卓に並んだ。料理の腕は確かなのに、何故兄は材料を取ってくるのが下手なのだろう。

「ほら」

訝しみながら箸を置いた晴子の目の前に、白い手が伸びた。

「食べ終わったなら皿渡して」

「はあい、……あ、そうだ。兄様」

 皿を渡した後、晴子は何か思い出したのか、立ち止まって兄に声を掛けた。席を立とうとした兄が彼女に顔を向ける。

「父様はいつ都から帰ってくるの?」

皿を床に置き、兄は首を傾げて唸る。

「今までの日にちから考えると……あと一週間じゃないか?」

「ええ、一週間?」

 彼の返答を聞いた瞬間、晴子の表情が萎んだ。

「ここから都まで五日はかかる。行って帰ってだから十日。さらに向こうに泊まるからもっとかかると言っていただろう」

「知ってる。知ってるけど」

「父上だって晴子に会いたいと思ってるよ。土産だって買って戻ってくる。楽しみじゃないのか?」

「楽しみに決まってるけど」

 父に会うにはあと一週間も待たなくてはならない。その事実が晴子に重くのしかかる。その様子を見ていた彼は眉を寄せ小さく息を吐いた。


「ここで待てないようじゃ晴子に都は当分無理だな」


「なっ」

 効果てきめん。床に突っ伏していた晴子が鬼の形相で起き上がった。

「片道で五日かかると言っただろう?たった一週間も待てずに駄々をこねるようなら都なんて行ける訳がない」

「……う」

 晴子は口を開いたものの、反論が思い浮かばずに口ごもる。彼の言っている事は正しい。正しい、のだが。

「いつまでも自分ばかりではいくつ歳をかさねたって同じだ。お前は一生山の中だな」

この言い方はあんまりだ。

「……兄様の」

 涙を溜めた目で睨み付けると、兄の瞳が微かに揺れた。


「兄様の、馬鹿あっ!」


 怯んだ彼に思いっ切り怒鳴りつけると、晴子は居間を飛び出した。

「おい、晴子!」

 兄の呼び止める声が聞こえたが知るものか。わざと大きな足音を立てて走り、彼女は書斎に飛び込んだ。


 ◆◇◆

 囲炉裏の火がはぜる。少年──道常はどこか遠い目で妹が去った戸口を眺めていた。

 「……少し、言い過ぎたかな」

 呟いたところで思い直し、首を横に振る。

 晴子は少し都に夢見がちな所がある。この前だって絵巻物を読んだ後に「都に行けばこんな素敵な恋ができるのか」と騒ぎ出してうるさかった。もちろん、道常も都に行ったことはない。しかし、あの絵巻物の話が絵空事だということぐらい彼にも分かった。

 例え彼女がどんなに釣りを得意としても、……彼より運動神経が優れていたとしても、あんなに浮かれていたのでは都までの道中何があってもおかしくない。あれくらい厳しく言った方が丁度いい。

「父上が土産を持って帰ってくれば少しは落ち着くだろうけど……」

頭が痛い。道常は片手で顔を覆った。


 父は楽器を演奏する楽人がくじんである。それも、宮廷に仕え、殿中に出入りできるただ一人の【楽師がくし】なのだそうだ。

 年の初めになると父は決まって都に出向き、その祭事で春を寿ことほぐ為に様々な演奏を披露する。それを父はずっと繰り返している。年初めから数えて一か月に一度、この山を出て都に行き、二週間後に土産を持って帰ってくるのだ。

 帰りを待つ間、自分は平気だったと言えば嘘になる。だから晴子の気持ちも痛いほどよく分かる。


「かと言ってこのままだとまずいな。何か機嫌を取れるものは」

 どうにか彼女の機嫌を直せないかと考え始めた道常は、そこではたと気が付いた。

「晴子、一体どこに行ったんだ?」

 家の外ではないはずだ。夜は外に出るなと口を酸っぱくして言ってあるし、玄関の方から音はしなかった。晴子が出ていった戸口を眺め、頭を働かせる。家の中……走り去っていった方向は家の奥?閉じこもることができる場所、となると。


「まさか」


 瞬く間に血の気が引いていく。嫌な予感がすると同時に、ドタバタと騒がしい足音が近づいてきた。


◆◇◆


「兄様なんてっ嫌いだ!」

 書斎の戸を力任せに閉めて、箒をつっかえ棒にする。これで兄も入って来れまい。    壁にもたれて息を吐くと、合わせて涙も溢れ出て来た。

 一生山の中。彼に言われた事がぐるぐると頭の中を回っている。

「馬鹿、馬鹿、……ばかぁ」

 絵巻物の中の人達は、誰も彼もが輝いていた。彼女はあんな生活がしてみたいと夢を見ていた。もちろん今でも夢に見ている。

 今の歳では無理。なら、大人になったら行けるのだろうか。

 この前の大喧嘩の後、そう思い直して釣りに没頭していたというのにこれである。


 悔しい。兄にあんなことを言われた事が──自分が彼に言い返せなかった事が、悔しくてたまらない。

 晴子は裾を握り締めてほぞを噛んだ。ここまで言われたのだ。兄に何かやり返してやらないと気が済まない。

「……っそういえば兄様、ここで何してたんだろ」

そう言えば、聞いてもはぐらかされたのだった。部屋を見渡すと、机の周りに紙が散らばっている。いつもの兄らしくない散乱ぶりに、晴子は眉をひそめる。

 晴子が帰ってきた時、彼は慌てて部屋を出たようだ。そのあとも掃除を忘れていたらしい。推理が進むにつれ自然と口角が上がる。

「私に隠し事なんていい度胸ね、兄様」

 にまりと笑い、晴子は部屋の探索を開始した。


「散らばってるのは……なんだ、父様の譜面じゃない。これは琵琶、えーと、これが琴、三味線に……うわ、笙まである」

 父の後を継ぐべく勉強していると言っていたが本当らしい。どの譜面にも赤字で書き込みがされている。

「頑張りすぎじゃない兄様。ちゃんと寝てるの?」

 思い返せば、少し彼の目元の隈が濃くなっている気がする。今度ちゃんと注意してやろう、と晴子は意気込んだ。

「自己管理すら出来ないようでは父様の後を継いで都に行くなんて到底無理ね……っと。うんうん、これでいこう」

 散らばっている紙をまとめていくと、一冊の冊子が目に入った。

「あれ?こんな書物あったっけ」

 父の土産の書物より綴じ方が雑である。紙を紐で無造作に纏めただけのようだ。表紙には題目も書かれていない。

「兄様お手製?何かな」

 表紙を捲る。書かれていた内容を見て、晴子は思わず口をぽかんと開けた。



「兄様!」

「晴子、──お前まさか書斎に」

 探す間もなく、兄は廊下にいた。晴子が駆け寄ってあの冊子を突き出すと、彼の肩が大きく揺れる。晴子は息を吸い、冊子を開くと大きく口を開けた。


「『──都までの道順。父上曰く、あやかしたちに道を用意してもらうため野盗の心配はないらしい。険しい道のりの様だが晴子の脚力なら問題ないか』」


 読み上げられたのは冊子に書かれた文面。瞬間、兄の目が大きく見開かれた。冊子を奪おうと伸ばされた手を躱し、晴子は次ページを捲る。彼女が読める箇所は少ないが、これでも効果はあったらしい。


「待て、晴子」


「『夜間の移動は無論厳禁。都についてからも決して目は離さないようにする事。問題は彼女が余計な駄々をこねないかどうか。十中八九こねるだろうが事前に言い含めておけば大丈夫だろうか。心配だが』」


「晴子」


 彼の声に焦りが混じる。今までに聞いた事がない声だ。明らかに動揺している。良い気になった彼女はさらに朗読を続けた。

「『殿中へは入れないだろうが町の散策は許されるだろう。次の都行きの際、父上に晴子の同行の許可を』」


「もういい」


 音読を止め、晴子は目を上げる。

 兄は晴子から顔を逸らし、手で覆っていた。隠しても分かるほどに耳が真っ赤だった。

「もう分かったから。頼む、それ以上は止めてくれ」

「兄様。弁解なら今聞きますよ」

上目遣いで彼を見ると、指の隙間から覗く目が泳いでいた。先ほどから珍しい兄の様子が連続で見られて非常に心地良い。

「……次の父上の都行きには俺も同行できる。その時お前は家に一人に、なるから」

 そこで言葉が切れ、喉仏が上下した。意を決したように目を閉じて息を吸うと、兄は顔から手を離した。


「お前も同行させて貰おうと父上に掛け合うつもりだった!どうだこれで満足か!」


 顔を赤くして言い放った兄に、晴子が飛びついた。


「兄様っ!」

「うっ」


 突然抱きついた彼女を支えきれず、道常は妹ごと廊下に倒れ込む。痛い、と彼の悲鳴が上がった。

「なんで言ってくれなかったの」

「言ったらお前絶対浮かれるだろ」

後頭部を押さえ、道常が言い返した。その頬がまだ赤い。

「そりゃもう。嬉しいもの!」

 晴子は廊下に倒れたまま、力いっぱい彼を抱きしめる。そんな彼女を横目で見ると、道常は小さく息を吐いた。

「来年になるまで待てるか?」

「待つ。ううん、待ちます!」

「本当に?あと一か月だ。一週間の比じゃないぞ」

「大丈夫!兄様が都に連れて行ってくれるんでしょ?待てるよ!」

 その胸に顔をうずめた晴子の耳に、「そうか」と安堵したような小さな呟きが届いた。

 道常が晴子の頭を撫でる。優しい、柔らかな感触が伝わり、彼女はさらに頭を摺り寄せる。

「なら俺も頑張るから。来月まで我慢しろよ」

「うん!」

 晴子は顔を綻ばせて頷いた。

 

 ────嵐の前触れがやって来ることも知らずに。

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