いざ約束の地へ②
「私、恋ヶ峰学園に進学しようと思うの」
真夏の数研部室内は強い日差しに照らされ、冷房をつけていても暑さが肌を焼き、汗が滲んだ。
放課後の校庭では運動部が盛んに声を上げており、セミの大合唱と共に、閉め切った窓からもその音を漏らしていた。
「え?」
蔵之介は、メガネの奥で優しく光る小野寺の瞳を見返した。まっすぐでサラサラと美しい黒髪は、夏の日差しをキラキラと反射して眩しく輝いている。半袖の制服からのぞく腕は、透き通るように白く、彼女の美しさを一層際立たせていた。
「冗談ですよね?」
「冗談じゃないわ」
鈴の音のように愛らしく、耳に心地よい声で小野寺は笑った。
「なぜです⁉︎ あんな低俗な学校に……」
「毎年、卒業生はあらゆる分野でめざましい活躍をしているわ」
「それでも……!」
言葉に詰まり、俯いた。言葉にできない、恐怖のような感情が蔵之介を襲う。
小野寺はとても頭が良かった。蔵之介は自分より勉強のできる同世代の人間に、それまで会ったことがなかった。さらに小野寺は、会話の中でもその賢さが言葉の一つ一つに現れており、なにより、他の中学生にはない気品があった。冗談ではなく女神のように気高く、美しかった。
恋愛を学ぶ、などという俗物的なことは、この人には相応しくないと思った。この聡明である種、無垢な人が、凡俗に変えられてしまうのが怖かったのかもしれない。
気まずい沈黙が、しばし部室内に流れた。さっきまで気にならなかったセミの声が、やけに大きく響く。
「『年をとりすぎてはだめなのだ。数学では、観察や熟考だけでなく創造性が重要だ。創造する力や創造しようという意欲を失った者は、数学からさしたる慰めを得られない』」
突然、歌うようにささやかれた言葉に、蔵之介はのっそりと顔をあげた。
「……ハーディですか」
「卒業すればどんな夢も叶うとまで言われているあの学園が、一体どんなものなのか、私は知りたいの」
まるで不器用な後輩をからかうように。ダメな後輩を諭すように。
小野寺は優しく笑った。
「創造性を忘れてはダメよ、巽くん」
きっとその時の蔵之介は情けない顔をしていたのだろう。迷子の子供のような、きっと、今にも泣き出しそうな顔だ。
「大丈夫、私は私。変わることはないわ」
蔵之介の不安な心を見透かしたかのように、落ち着かせるような声音で言う。蔵之介は強く、拳を握りしめた。
「なら、僕も……僕も恋ヶ峰学園へ行きます」
意を決して、小野寺へと向き合った。それが正しい選択なのかは分からなかったが、気付けば、そう言葉にしていた。
小野寺ちょっと驚いたみたいに、目を大きく見開いて蔵之介の目を見つめ返した。しかしすぐにまた微笑んで、
「恋ヶ峰学園にも数研はあるみたいよ。……先に入って、待ってるわ」
嬉しそうにそう言った。
そうして翌年、彼女は見事恋ヶ峰学園に入学した。
それから、蔵之介は死ぬほど努力した。数学や英語といった通常の教科は自信があったが、恋ヶ峰学園の入試には、それに加えて恋愛のテスト、及び面接があるという。
女子と付き合ったことなど当然なかったので、あらゆる恋愛心理学の本や、論文を読み漁った。しかしそれら知識だけでは実践力がないと思い悩んだ末、あまりにも画期的、天才的な秘密の特訓を考えついたのだ。
この特訓が、この学園に受かる決め手となったのは、間違いないだろう。
それぞずばり……毎日、五人の女性とデートをする作戦!
……ただし、脳内で。
この方法を思いついてから試験の日に至るまで、毎日欠かさず、脳内で五人の女性と様々なシチュエーションでデートをした。来る日も来る日も悪戦苦闘し、時にはフラれ、涙で枕を濡らす日もあった……。
しかし、この妄想……もといイメージトレーニングが功を奏し、無事に恋ヶ峰学園に受かることができたのである。
ちなみにこの妄……イメトレはクセになってしまい、実はいまだに毎日……いや、そんなことはどうでも良い。
入学してから、様々な教員に数研の部室の所在を尋ねて回った。この学園はあまりにも部活動や同好会の数が多すぎるため、なかなか知っている教員がおらず苦労した。
しかし、ようやく。昨日の放課後、廊下を歩いていた教員イケメンに尋ねたところ、数研の部室が第一部室棟にあることがわかった。その時はもう遅い時間だったため……なにより、心の準備がまだ出来ていなかったため、一日待った本日、とうとう胸をはずませながら第一部室棟へと向かっているのである。
中学時代、小野寺とたった二人で数研に所属していた。彼女はいつも優雅に窓際で本を開いていた。話しかけると、優しい目で、声で、静かに笑う。部員が少なくて寂しいなんて気持ちはなかった。むしろ、小野寺と二人で数学について語り合う日々はあまりにも甘く、幸福だった。
ここでもまた、同じような日々が過ごせる。
第一部室棟までの距離が、もどかしかった。
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