さようなら、約束

「すごいな……」

 第一部室棟についた蔵之介は、その壮観さに唖然と立ち尽くしていた。

 第一部室棟と呼ばれるその建物は、さながら大型マンション。綺麗に白く塗装されたその建物は十階建てで各階に部屋があり、それぞれが部室となっているらしい。

 恋ヶ峰学園は広大な敷地を誇っており、第一校舎や第二校舎、各部室棟、体育館など……このように巨大な建物がいくつも並んでいる。

 改めてでたらめな学校だな……。

 蔵之介は半ば呆れながらぽつねんと突っ立っていたが、本来の目的を思い出し、自分の両頬を叩く。そうだ、そんなことはどうでも良い。数研の部室へ向かわねば。

 数研の部室は703号室らしい。マンション内に入ると、観葉植物の置かれたおしゃれなエントランスは広々としていた。設置されたソファーでは、男女が楽しそうにおしゃべりをしている。エントランスをそそくさと通り抜け、奥にあるエレベーターへと乗り込み、7階のボタンを押す。

 チーン、と音が鳴り、エレベーターが7階に到着した。右手にずらりと扉が並んでおり、一番手前側の扉を見ると、「701 ジャズ研究会」と表記されている。

 はやる気持ちを抑えながら、蔵之介はゆっくりと次の扉へと進む。

「702 ボードゲーム研究会」

 この、隣だ……。あれだけ早足だったのに、なぜか今は恐る恐るとした足取りで進む。

「703 数学研究会」

 あった。本当にあった。

 心臓の鼓動が速い。ようやくだ。ようやく小野寺先輩に会える。震える手でインターホンを押す。僕が尋ねてきたら、一体小野寺先輩はどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。いつものように優しく微笑んでくれるだろうか。

 そこでふと、いやな想像が頭をよぎった。小野寺先輩が数研に入ってない、という可能性はないだろうか。

 蔵之介にとっては色鮮やかな、消えることのなかった約束である。ずっとその約束を糧に、がむしゃらに走ってきた。しかし小野寺にとってはどうだろうか。いや、人との約束を軽視する人では決してないが、例えばやむにやまれぬ事情があって数研に所属できていない可能性はある。

 やばい、と急激に不安が溢れてくる。

「はいはーい」

 そこで、突如目の前の扉が開いてしまった。

「……どちら様?」

 現れた男に、内心驚いた。派手に染められたシルバーの髪。耳にはいくつもピアスが空けられ、怪訝な目で蔵之介をじろじろと眺めている。

 あまり人を見かけで判断したくはないが、とても数学が好きな人種には見えなかったのである。

「もしもしーし?」

「あ、失礼しました。巽蔵之介と申します……一年です」

 呆けてる場合じゃない。小野寺に会うために、ここまで来たのだ。

「見学希望と言いますか、その……小野寺美桜さんという方はこちらにいますか? 中学の時の先輩でして……」

 しどろもどろになりながら説明する。まずい、これではまるでストーカーだ。不審者として追い返されたりしないだろうか。蔵之介は不安になったが、

「おお〜! 小野寺ちゃんの後輩ちゃん? マ?」

 男は急にテンションが上がったかと思うと、「そういうことならどうぞ」と蔵之介を招き入れる。

 いる。小野寺先輩がいる……!

 あの約束を、覚えていてくれたのだ。忘れてなどいなかった。

 それだけで感無量、感動のあまり両手を広げ天を仰ぐが、男が怪訝そうな顔で見ていたので、慌てて我に帰る。

「失礼します……」

 そそくさと玄関へと足を踏みれると、横に巨大な靴箱が設置されており、そこに10足近くの靴が収納されていた。

「今ちょうど小野寺ちゃんもいるからさ」

 はぁ、と言いながら内心、小野寺ちゃんなどと軽率に呼ぶこの男に少しの不快感を覚えた。自分は小野寺のただの後輩でしかないのだから、どうこう言える立場ではないのは分かっているが。小野寺様と言え。最低でも。

 靴を脱ぎ、男の後に続いてフローリングの短い通路を進む。右手や左手にはドアがあるが、おそらく普通のマンションと同じようにトイレやバスルームだろう。男は正面にあるドアへと進み、ドアノブに手をかけた。

「おおう……」

 ドアの向こうに広がる部屋は、存外広かった。20畳くらいあるだろうか。

 部屋には十数人ほどのメンバーが、いくつかのグループに分かれ、各々好きなことをして過ごしていた。

 大きなテレビでゲームをするグループ、トランプをするグループ、集まって談笑するグループ……。部屋は、それぞれの笑い声で大いに賑わっていた。

「……」

 なんだか、想像していた数研とはちょっと違うな……。

 皆一様に髪を染め、派手な服を着ていた。高校生とは皆こんなもんなのか……? 

 なんだか自分の格好に少し気後れしていると、

「お〜い、小野寺ちゃ〜ん」

 不意に、蔵之介を部屋へと案内した男が、談笑しているグループに向かって小野寺の名を呼んだ。

 蔵之介の胸がどきり、と跳ねた。

「小野寺ちゃんの中学の後輩っていう子が来てるよ〜」

 いるのか、本当に。

 やっとだ。やっと、会える。

 積もる話が山ほどある。ここに入学するために苦労したことも、数研の部室がなかなか見つからなかったことも。全部あなたに会うために頑張ったんですよと伝えたい。もちろん、数学の話もしたい。


「巽、くん……?」


 困惑した声。間違えようのがない、小野寺の声だ。変わっていない。

 しかし、困惑しているのは間違いなく蔵之介の方だ。

「えっと、小野寺先輩……ですよね?」

 小野寺の姿は蔵之介の知る小野寺から遠くかけ離れ、別人のようになっていた。

 芸術的なまでに繊細だった黒髪のストレートヘアは、ミルクティーベージュに染められ、柔らかなウェーブのかかった巻き髪ヘアに。化粧っ気のなかった顔も別人、天然の真珠のようだった瞳は、人工の輝きによってギラギラと装飾され、淡い桜色の唇は真紅のリップによって染められていた。白くて小さな耳には、ピアス。胸元のボタンは色っぽく外され、スカートは短く裾上げ。

 声を聞かなければ、それが小野寺だとは分からなかったかもしれない。それほどまでの、変貌。

「……」

「……」

 気まずい沈黙。まずい。せっかく会えたのだ。なにか言わなければ。

「ひ、久しぶりですね小野寺先輩。覚えてますか? 僕のこと……」

 動揺を取り繕うように、努めて明るい声を出すが、

「……本当に来ちゃったのね」

 小野寺は苦虫を噛み潰したかのような顔。

 なぜ、そんな顔をするんですか?

 嬉しくないんですか。僕は再開できて嬉しいです。あの約束のために、ここまで努力してきたんですよ。

 言いたい言葉は、しかし声にならない。喉に詰まってそのまま胸へと逆戻り。胃もたれしたみたいにもやもやした不快感が残るだけ。

「えーと……数研に入部希望ってことで、良いんかな?」

 男の先輩が、二人の様子に困惑しながらも、蔵之介に尋ねた。

「は、はい。入部希望です」

 再び流れた気まずい空気に耐えられず、その助け舟のような言葉に飛びついた。

「勉強はどれも好きですが……特に数学は昔から得意です。普段どんな活動をしているんですか? コンクールとかには出られているんですか?」

 そうだ、数学。自分と小野寺を繋ぎ止めるもの。しかもここにはこんなにも部員がいるではないか。二人っきりでないのは寂しいが、これはこれで、きっと楽しい高校生活が送れるに違いない。

 しかし、

「……」

 今度は男の先輩が沈黙。口をあんぐりと開けたままポカン。なんでそんなまぬけな顔をしているんだ……と思っていると、ややあって「プッ」と吹き出し、

「ちょ、マジ! 冗談きついって!」

 爆笑を始めた。その笑い声に、他の部員達もなんだなんだとわらわら振り返る。

 なぜ笑われているか分からずに、蔵之介は呆然とする。どこが、この男の笑いのツボに入ったのだろう。

「本当に数学なんてやるわけねーじゃん。ダルすぎ〜」

 男は「はー、ウケる」と目元の笑い涙を拭う。

 意味がわからず、蔵之介は助けを求めるように小野寺を見た。

「巽くん、ここは恋愛を学ぶ学校よ」

 あまりにも突き放すような、小野寺の冷たい声。

「数字の羅列なんて解いて、どうするの」

 言葉が出なかった。何を言っているのか、理解できなかった。信じられない言葉が、一番言って欲しくない人の口から出た。

「この学校で名前通りの活動をしているサークルなんてほとんどねえよ」

 男の先輩がククッ、と笑いを堪えながら言う。

「野球部は野球なんかしないし、サッカー部はサッカーなんかしねぇ。皆恋愛のことだけさ」

 なにも言えない。冷や水を浴びせられたかのように、蔵之介の身体は冷たく、動かなかった。もしかしたらかすかに震えていたかもしれない。

「ここから去りなさい、巽くん。あなたはここに相応しくない」

 淡々と言い放つ小野寺の目は、哀れむような、悲しむような、不思議な目をしていた。なんでそんな目を、僕に向けるんだ。

「さようなら」

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