ここではないどこか

 気が付けば、屋上に立っていた。

 移動中の記憶がおぼろげである。いつの間にやら第一部室棟から元の第一校舎へと戻り、そのまま階段を何度も蹴躓きそうになりながらふらふらと上がり、最上階の屋上へと辿り着いていた。

 どんな感じ? という悠馬の連絡に、屋上、とだけ返して蔵之介はスマホをポケットにしまう。

 にわかに夕陽がさす放課後の屋上は、閑散としていた。酔っ払いのような足取りで屋上を進む。真っ青な顔で、ウゥ……と唸り徘徊する様はさながらゾンビのようであっただろう。

 なにが起きたのか理解できなかった。

 いや、脳が理解することを拒否したのかもしれない。それほどまでに衝撃的で、信じがたかった。

 頭がぼーっとし、変な浮遊感がある。手足の感覚も頼りない。ただただ、チクチクと突き刺すような胸の痛みだけが、たしかに消えない。

 気が付けば蔵之介は屋上の縁……金網のフェンスの前へと歩み寄っていた。フェンス越しに、眼下へと広がる校庭を見下ろした。

 校庭にはサッカー部らしき生徒達が、豆粒のように小さく見えた。しかしその誰も、一生懸命にサッカーなどしていないように見える。適当にボールを転がしながら、中には座り込んで談笑している男女の姿もあった。

『野球部は野球なんかしないし、サッカー部はサッカーなんかしねぇ。皆恋愛のことだけさ』

 数研で会った男の声が蘇る。

『巽くん、ここは恋愛を学ぶ学校よ』

 次いで、小野寺の言葉。

『数字の羅列なんて解いて、どうするの』

 急激に怒りがマグマのように湧き出るのを感じた。頭は沸騰しそうなくらい熱を持ち、フェンスをちぎりそうな勢いで握って、校庭でイチャイチャする生徒達を睨みつける。

 どいつもこいつも、恋愛恋愛。

 恋愛がなんだってんだ? 恋愛なんか、恋愛なんか……、

「恋愛なんざ、クソくらえだああああ‼︎」

 全力で叫んだ。叫んでそして、急に電池が切れたみたいにその場に崩れ落ちる。

 沸騰していた頭は冷めていた。落ち着いたわけではない。冷ややかな絶望が、襲ってきただけだ。

 小野寺先輩に、拒絶された。

 一体なぜ? と考えたところで、なに一つ答えは出ない。ただ分かっているのは、蔵之介の知っている小野寺はもういないということだけ。

 小さかった胸の痛みが、次第に大きく、堪え切れないものへとなっていった。

 心がちぎれてしまいそうだ、と思った。

 ウキウキしながら数研の部室へと向かっていた時間も、恋ヶ峰学園に入学するために努力をした時間も、あの日小野寺と交わした約束も。

 全部全部、無駄だった。バカみたいだった。

 いっそ全部なかったことにできたら、どれほど良いだろう。小野寺とは最初から知り合わず、約束なんてものもなくて。蔵之介は有名進学校へ入学して楽しい高校生活を送るのだ。

 しかしそんな夢想をしたところで、現実はなにも変わらない。ただ一人惨めにうずくまる男がいるのみである。

 ここから消えたい。このあまりにも残酷な現実から逃げ出したい。

 誰でも良い。誰か。僕をここではないどこかへ連れて行ってくれ。

 蔵之介はすがるように顔を上げ……

「……」

「ぴえええぇぇぇっ!」

 アマゾンの怪鳥みたいな奇声を上げながら飛び跳ねた。ショックのあまりおかしくなったわけではない。

 うずくまっていた蔵之介の真横、

 目線を合わせるようにしゃがみ込んだ一人の少女が、無言で蔵之介を見つめていたのである。

「な、ななな、なに……⁉︎」

 動揺のあまり言葉が出てこない。一体いつから見ていた? もしかして最初から? あの恥ずかしい、未成年の主張みたいな叫びも……?

 蔵之介が慌てて立ち上がると、合わせるように少女もすっ、と立ち上がった。その姿を見て、蔵之介は息を飲む。

 ミディアムのサラサラとした黒髪。長い睫毛が影を落とす瞳は、ぱっちりと大きく、宝石のようにキラキラと輝いていた。薄い唇は桜色、肌は赤子のようにきめ細く繊細で、胸は大きくなだらかな膨らみを持っていながら、制服のスカートからのぞく脚は華奢。健康的にすらりと伸びている。

 圧倒的な可愛さだった。小野寺のような美人とは少し違う、少女のような可憐さ。それでいて子供っぽすぎず、奇跡的な配分で女性らしさも兼ね備えている。こんなの、男なら誰しも見惚れてしまう。

「……」

 少女はほぉ、と口を開けたまま、キラキラと目を輝かせていた。

 ……いや、冷静になんだこの状況は。誰なんだ、この美少女は。なぜそんな期待に満ちた目で僕を見つめる? 

 蔵之介はだんだんと羞恥心がこみ上げてきた。なぜなにも言わない……? い、いや…そんなにまっすぐな目で見ないで……。きもく腰をくねらせたところ、

「ふんっ」

「⁉︎」

 ガシッと力強く、両の手を握られた。少女はそのままバンザイのごとく高々と手を上げ、

「同志‼︎」

 嬉しそうに叫んだ。

 訳がわからず、蔵之介は固まった。握られた手は、恐ろしく柔らかく、熱を帯びている。

「おーい、蔵っち。どこに……」

 と、そこに悠馬登場。腰を半ひねりの蔵之介が、美少女に手を握られてバンザイしているところを凝視すること約三秒。

「……いや、どういう状況?」

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