獣と畜生

丁寧

獣と畜生

 雲ひとつない、澄んだ藍色の空。

 その空に煌々と、満月が輝く。


 空を仰ぎ、月を見つめるのは、ひとりの青年。

 髪は程よく乱れ、目の下にうっすらとクマが浮かぶ。両手はだらんと下り、その左手には黒いジャケットが巻き付くようにぶら下がっている。白いワイシャツはヨれてシワが目立ち、ネクタイも中途半端に緩んでいた。


 しかしその瞳は、固い意思を抱くように微動だにせず、まっすぐ月に向いていた。


大口おおぐちは?電車あるか?」


 声をかけられるとその瞳は途端に揺らぐ。身体もゆらりと振り返ると、青年よりか幾分か年の経たスーツ姿の男が目に入る。男は会社の出入口の鍵をかけたのち、前に停められた黒く鈍く光るミニバンに近寄った。


「あ、大丈夫です。電車はもうないですけど、歩いて行けなくはない距離なので」


 大口と呼ばれた青年は淡々と答える。


「送ってくよ。家、南区だろ?」

「悪いですよ。いぬいさんと方向逆ですし、僕は大丈夫です」

「いや大丈夫じゃないよ。この辺り最近、野犬騒ぎがあるだろ。この時間に一人で出歩くのは駄目だ」


 ピッという音と光と共に、ガチャッとミニバンの鍵が開く。


「ほら」


 乾は運転席側に立ち、 大口に目線で促す。

 一瞬、大口の瞳が満月に向くがすぐに戻り、大口はトボトボとミニバンに近寄っていった。


***


 車窓からも見える満月を、大口は固い瞳で見つめる。

 カーステレオからは地方FMが流れ、妙に片言なパーソナリティによって番組が進行されている。


「悪かったな、今日は」


 乾の声がスッと響く。大口は緩んだ視線で運転席に向く。


「いえ、僕が手際が悪いので。それに多田紙器ただしき鳥部とりべさんがやられたんじゃ、仕方ないです」

「そうだな。まさかこんな場所で野犬が襲ってくるなんて思わないし」


 梱包材(段ボール箱)の取引先である多田紙器。そこの専務である鳥部が先日、帰宅中に野犬に襲われ全治1ヶ月のケガを負ったという。


「それにまさか、特注の図面引きも全て鳥部さんがやってたなんて、初めて知りました」

「あそこは小さい会社だからな。社長と鳥部さんで大方成り立ってたようなもんだ」


 知ってたのですか、と言いかけて大口は口をつぐんだ。ここで乾を責めたところで何の意味もない。

 鳥部がいないことで、多田紙器は大混乱しているようだ。特注サイズの梱包材を発注しても、指定したサイズと違うもの、違う形のものが届いてくる。いつも17時の配達時間が、今日は22時となり、配達担当の社員には平謝りされた。

 お陰で、こちらも残業が24時超えとなった。


「こっちも特注の注文が増えてるからな。しばらくはお前たちにも苦労かけると思う。なるべく高くかからないような他のメーカーも検討するから」

「わかりました」


 苦笑しながら、大口は再び窓の外の満月を見上げた。

 しばらく、FMで流れる話題の洋楽と片言のトークを聞き流していた。


「乾さん」


 信号待ちのタイミングで大口が切り出す。


「なんだ?」


 何気なく助手席を振り向くと、乾は一瞬だけ固まった。大口の目に、わずかに鋭さを感じたからだ。だがそれもほんの一瞬で、改めて見るといつも通りクマを浮かべた緩い目付きに戻っていた。

 乾はひとつ息をついて、顔を正面に戻す。


「どうした?」

「乾さんは、どうしてこの会社に?」

「んー、そうだな。社長の理念に共感したからかな。単純にものづくりに関わりたいってのもあったし、地元の中小だから」

「へぇ…乾さんは、ずっとこの会社にいたいって思いますか?」

「んー、今のところはそうかな。社長には、家族ぐるみで世話になってるし。妻のことも、息子のことも気にかけてくれるし。給料も他に比べれば良いしな」

「そうなんですね」

「大口は?」

「え?」

「大口は、なんでこの会社に入ったんだ?」


 尋ねられ、大口は少しためらった。


「なんでといわれると…内定をいただいたのが、この会社だけだったからです」

「そうだったの?お前くらいの奴なら、他にも受かってそうだけど…あ、そうか。お前らの時期はちょうど…」

「はい、例の不況と重なってました」

「そうか…大変だったな」

「いつでも大変です」


 信号が替わり、乾はアクセルを踏む。

 再び、大口が口を開く。


「乾さん。変なこと聞くかもしれませんが…」

「なんだ?」

「乾さんは、今の仕事楽しいですか?」


 その問いに、乾は苦笑する。


「何を以て楽しいって言うかは分からないけど、やりがいがあるって意味では楽しいかな」

「やりがい…」

「大変だけどな。ユーザーや営業の無茶な要望聞いたり、仕入先や製作に無茶なお願いをしたりと板挟みだけど」


 しゃべりながらふと、乾は大口を一瞥する。


「もしかして、今の仕事、辛いか?」


 大口はただまっすぐ前を向いていた。先程のような固い瞳ではなく、いつもの緩い視線で。


「辛くないと言えば嘘になります。でも、そんなことよりも、僕には不思議に思うことがあって」

「なんだ?」

「会社って、いわゆる会社の理念に沿う人たちが自主的に集まっているものだと思ってたのですが」

「…うん?」


 乾の眉がピクリと動く。


「でも実際は、会社という囲いの中で飼われてる、畜生ばかりなんだなって」


 大口の視線が、正面から左側へと移る。その固い瞳に映るのは、輝く満月。

 乾は無意識に、ハンドルを握る力を強める。首を横に振り、わざとらしく息を吐くように笑う。


「…大口」

「飼われてるからこそ、時間が経つにつれて判断能力が薄れていく。幹部、上司、しきたり、前例、ただそれだけにしたがって動いていくだけ」


 違和感を覚え、乾は再び大口を一瞥する。窓を見る大口の表情は、ここからでは読み取れない。


「ただ時間の流れに身を任せ、会社にさえいれば大丈夫だと油断している」

「大口」

「だから、不測の事態には対処できず、ただただ慌てるばかり」

「大口」

「ただ会社に付き従う畜生を育てるだけなら、それは企業として成立しませんよ」

「大口!」


 突如、ミニバンがタイヤを擦らせながら急ブレーキをかけた。ちょうど大通りから外れた路地で、車はミニバン以外は走っていなかった。

 車内から、ドスッと鈍い音が響く。

 大口の固い瞳が、乾をまっすぐに見据えている。乾はシートベルトを外し、そのまま身体を助手席側に寄せ、両手で大口の首元を掴んでいた。


「お前がやったのか…!?鳥部さんを…」


 問う乾の声が震えている。


「僕ではない」

「じゃあ!誰が」

「イヌイ…犬の血を受け継ぐ一族であるあなたが、そんなこともわからないのですか」


 一方、大口は表情も変えず、声も低く落ちついている。話すときに見えた犬歯が、鋭く伸びていた。

 大口の言葉に、乾はハッとする。


「他にも、いるのか」

「そういうことです」

「なんで、なんでそんなことを」

「警告です」

「警告?」

「このままでは人間は、本当にただの畜生と成り下がる。ひとつが崩れれば、畜生の集団はただの烏合の集となり組織は崩れる」

「だからって、なんで鳥部さんを…!」


 迫る乾を抑えつけるように、大口は右手で乾の左手首を掴む。その爪は固くなり、毛も深くなり、握る力は次第に強くなっていく。


「…ガっ…!!」


 掴まれた手首が痛み、乾は顔をしかめて叫ぶ。咄嗟に首から手が離れると、大口は掴んだその手で乾を放り投げる。乾は背中をドアに叩きつけられ、声も上げられず歯を食いしばる。

 大口を見ると、顔はかろうじて原形をとどめているものの、ほほやあごの毛は髭のように深くなり、髪も伸び、耳も上に向かってとがるように伸びていた。

 不意に、獣の遠吠えが空に響く。

 乾はハッとして窓から外を見る。見たところで、何も見えるはずはないのだが。

 ガチャ、と解錠の音が響き、大口はそのまま外に出る。扉をバタリと閉めると、長く伸びた眉毛に隠れかけた固い瞳で、空に輝く満月を仰ぐ。


「おい、大口、まさかお前」


 焦って乾も外に出る。乾が車体越しで大口に振り向くと同時に、大口は仰いだまま腹の底から長く吠えた。大口の遠吠えに応えるように、別の場所からも遠吠えが響く。負けないように乾も叫ぶ。


「やめろ!力のない人間を襲って何になる?むしろ善良な人たちを苦しめるだけだ!それにお前は、人間に祀られた狼の末裔…」

「だからこそです」


 乾の説得を低い声で遮断する。いつの間にかその横顔は、完全な獣の様と化していた。


「これは人間に対する警告です。そして、人間ですらなくなった畜生に対する制裁だ」

「そんな」

「乾さん」


 獣と化した大口の紅い瞳が、夜の闇に浮かび上がる。その紅い光に、乾の目もクワッと見開く。


「僕たちに協力しろとは言わない。この生活をやめろとも言わない。しかし、あなたにも思い出してほしいのです」

「思い出す?」


 フッ、と大口の横顔が消えた。と同時に、ミニバンの正面に表れた黒い影がヘッドライトに照らされた。

 四つ足で立つその影は、乾のいる方向に振り返る。


「我々は、人間に飼われてる畜生ではない。我々自身で、この世界で生きることを決めた、獣なのだと」


 そう言い残し、影は路地の道なりに駆けて行った。

 乾は何も応えられず、しばらく夜の闇へと紛れていくその影を、消えるまで見つめていた。

 再び遠吠えが響き、乾は反応しそうになり耳を押さえた。耐えるように、顔をしかめてグッと歯を食い縛る。


「…駄目だ…!!」


 乾はミニバンに乗り込む。荒く息をたてながら、シートベルトを締めてハンドルにすがるように握る。


「…俺だって…ここで生きることを決めている!!」


 前方を見据え、アクセルを踏み込む。

 ミニバンは、獣の駆けた方向へと進んでいった。


 雲ひとつない、藍色の空。

 その空に煌々と、満月が輝いていた。



≪終≫

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獣と畜生 丁寧 @Natie_S

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