第4話

 

 何となく、嫌な予感がした。

 メッセージアプリの通知が10件、そのうち6件はバイト先の先輩からだった。恐る恐る、トーク画面を開いてみた。冷や汗が一滴、画面に落ちる。


『マサシー(17:30)』

『マサシどーしたー(17:42)』

『はよこーい(17:46)』

『始まるぞー(17:55)』

『起きてるかー(18:05)』

『お前休むなら連絡入れろ。いい加減過ぎるわ。俺1人で居ても人手足りないから帰れって言われて、今日のイベントは中止になったぞ。お前のせいで出演者とか、めっちゃ迷惑かかったんだけど? とりあえずこれ見たらすぐ連絡して詫び入れろよ(19:42)』


 は!?

 ぼくは頭が真っ白になった。午後5時から、ライブハウスでのバイトがあったことをすっかり忘れ、完全にすっぽかしてしまっていたのだ。しかも今日は大物アーティストを迎えた大事なイベントの日。

 ぼくの大バカヤロウ! ……スケジュール帳に書き忘れていた自分に、猛烈に腹が立った。


「うそだろ、そんな……」


 ぼくはしばらく呆然としていたが、今からでも行かなければと、慌てて乱暴に洋服タンスを開けた。しかし、時計を見れば時刻はすでに午後9時50分。バイト先に着くまでは、どうしても1時間はかかる。今から行ったとしても、閉店時間を過ぎてしまう。

 詰んだとは、こういうことを言うのだ。


「兄貴、バタバタうるさい。勉強中だから静かにしてくれ」


 弟のサトシが苛立ってドアを開け、文句を言ってきた。が、ぼくはそれどころじゃなかった。


 先輩から再び電話がかかってきたが、ぼくは出ることが出来なかった。木琴のあの軽快な着信音が、今は地獄の協奏曲として部屋に響き渡る。

 何でだ、何でこんな大事なイベントに限って予定ミスるんだ……。


 “クビ”


 悪夢の2文字が、脳裏に浮かんだ。そんな……、嫌だ。絶対嫌だよ。今のバイトを失ったら、ぼく、この先どうすればいいんだ……。ちゃんと仕事をこなすことが出来ず、先輩から疎まれながらも、何とかしがみついたバイトなのに。


 気が重く、とても謝罪の連絡ができるような状態ではなかった。叱責に耐えられるメンタルは、もうない。このミスの責任は、どう取らされるのだろうか。やっぱりクビになってしまうのだろうか。

 ぼくは、ひたすらに自分自身を責めた。


「……またやらかした。ダメな奴だ。ぼくはダメな奴……。本当にダメだ。死んだほうがいい……。やだよ、また嫌な怖い気持ちが押し寄せてくる…。助けて……」


 気付くとぼくは無意識に自分の頬を引っぱたき、髪を引っ張り、腹をぶん殴っていた。痛い、辛い、苦しい。それでも容赦なく地獄からの着信音は、鳴り続ける。


「やだよ……。う、うわあああ……!」

「……ねえ、ねえ! 大丈夫!?」


 どこかから、幼い子供の声が聞こえた気がした。

 本棚にある絵本が目に入る。表紙には、青いキャップをかぶった笑顔のねずみの子供が描かれている。

 絵本の方から、声が聞こえた気がしたんだ。


「……え?」

「ねえ、おにいちゃん、だいじょうぶ?」


 確かに、聞こえた。

 ぼくは本棚の方を確かめようとして立ち上がったが、途端に周りが真っ暗になり、同時に頭を誰かに撫でられているような不思議な感覚に襲われる。

 五感が研ぎ澄まされ、木と土の匂いがぼくの嗅覚をくすぐった。かすかに、コオロギの鳴く声が聞こえてくる。


「ねえ、マサシ兄ちゃん、大丈夫? ずっとうーんってうなってたよ?」

「あ、え、うん……? あれ、ここは……」


 段々と視界が晴れる。ぼくは周りを見渡してみた。

 間違いない。

 ここは、絵本の中のねずみたちの世界。チップくんたちのいる、9匹のねずみたちの家だ。

 さっきからぼくに声を掛け、頭を撫でていたのは——隣で寝ていたミライくんだった。


「マサシおにいちゃん、こわいゆめみてたんでしょ」


 ミライくんが笑顔を浮かべながらそう言うと、ぼくは安心して思わず大きなため息をついてしまった。

 幻なんかじゃない。ここは優しいねずみたちの住む、温かくて平和な世界だ。


「はあ……。夢だったか……」


 ぼくは自分のほっぺをつねってみた——確かな感覚がある。ねずみたちの世界こそが現実であり、さっきまで見ていたのは、束の間の悪夢だったと、ぼくは確信した。


「マサシおにいちゃんがあんしんしてねられるように、こんどはぼくがこもりうた、うたってあげるね」

「……うん。ありがとう、ミライくん」


 ミライくんは再びぼくの頭をなでながら、ねずみのおかあさんがいつも歌っているこもりうたを歌ってくれた。


「つきがみているもりのなか♪よいこはおやすみいいゆめを♪……」


 末っ子だけど、お兄ちゃん気質のミライくん。まさかぼくの方が子守をされるなんて思ってもみなかった。でもその高く可愛らしい歌声は、冷え切ったぼくの心をじんわり温めてくれた。

 ぼくを苦しめた悪夢が、ミライくんの歌と共に夜の闇に溶け、消えていく。


「ミライくん、上手だね。ゆっくり眠れそうだよ」

「そお? じゃあもっとうたってあげる」

「ミライくんは眠たくないの?」

「だいじょうぶだいじょうぶ。マサシおにいちゃんがねむったら、ぼくもねむるからね。……つきがみているもりのなか♪……」

「……ありがとう、ミライくん」


 子守唄のとおり、窓からはまんまるのお月様がぼくらを見ていた。優しく、微笑みかけるような光。小さな手でぼくの背中をトントンとしながら、ミライくんは子守唄を歌ってくれた。

 ぼくは安心感に満たされ、すぐに眠りについた。


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