夜長の名月
篠原 鈴音
邂逅
見上げた月は、まあるく輝いていた。
月の名所、どこまでも続く原野…そう呼ばれたのはおよそ百年ほど前のこと。多摩川と荒川に挟まれた武蔵野に、荻の原野はすでにない。それでも都心部そばにしては緑色が残っている方だったし、だから夜の井の頭公園へ入り込んだ。
北の自然文化公園や南側の水生物館は閉じているが、公園自体に門はない。そよぐ風で木々が音を立て、体感温度を下げている。猛暑を乗り越えた近頃はだいぶ涼しく、空は随分と高くなってきていた。
誰もいない公園の中を歩く。雨が降ったのだろうか、園内の通路は濡れていた。水を含んだ土の匂い、なびく梢、どこからか響く虫や鳥の声、木々の影が落ちる道。
昼間は活気であふれ、喧騒が聞こえるだろう場所に人の声はなく。人の手で整えられた公園は今、神秘と怪奇の間をゆらゆらと揺らめいていた。
木々の間を抜ければ、広くさらさらと流れる水の海。…面積的には池だろうか。白鳥は夜だからか水辺にはいないが、風に吹かれて小波が立っている。池の周りにある通路、そのベンチを軽くぬぐい、腰を下ろした。布越しにひんやりと冷えた木の感触が伝わってくる。
空を見上げる。街灯こそ点在しているが、辺りは木々に囲まれた場所。雨上がりということもあってか、少なくとも吉祥寺駅前よりは空気が澄み、空の星々がよく見える。今夜の満月は特別明るく空に浮かび上がっており、地面に落ちた影が街灯のものか月明かりによるものか分からないほどだ。
「何をしてるの?」
いつの間にか、すぐそばに女性が立っていた。
「…空を見てます」
「隣、座ってもいい?」
「どうぞ、お好きに」
女性はスカートを整えながら、同じベンチに少し間隔を開けて座る。飾りげのないノースリーブワンピースを身に着けていた。
「今日は月が明るいね。影が出来るほどに明るいなんて滅多にないから、特別に」
「そうですね」
「ここはいいところでしょう。都会の真ん中にある緑の公園…明治神宮なんかも緑が多くて散歩には気持ちいいんだけど、あっちは神宮だからベンチも少ないしね。
玉砂利の音は好きなんだけど」
「そうですか」
「くつろぐならこっちがオススメなの。今は出てないけど白鳥もいるし、何より水の音がするし。水辺って気持ちいいよね。
…それに、こっちならベンチもあるしね」
「…そうですか」
女性は橋に、池に、空に、視線を移しながら楽しげに喋り続ける。池は柔らかな風で小さく波打ち、絶えず波紋が広がり続けていた。
「ね、なにかあったの?」
「……………」
「なんだか落ち込んでいるように見えたんだ。わたしの気のせいだったらいいんだけど」
「……そう、ですね」
「わたしでよければ聞くよ。話したくなければ聞かないけど」
彼女が空からこちらへ目を向ける。同情でも憐憫でも好奇心でもない、ただ本当に思ったことを言っただけのような。
てらいのない彼女の言葉に、気づけばつい頷いてしまっていた。
「ちょっと…失敗を」
「うん」
ちょっとした、よくある
AかBかで意見が違って、それに対して少し意見を出し合っただけ。言い合いにもならない、ほんの小さな意見の対立。
それでも、なんだか…疲れてしまって。
「難しいですね…人間関係って」
“人間関係”という言葉を持ち出すほどの言い争いではないのに、うまく言葉が見つからなくて、結局大げさな言い方になってしまう。
こちらを見ていた彼女は、口の端を上げたままその視線を空へと戻した。
「そっか。ちょっと疲れちゃったんだ」
「そう…ですね」
きっかけは些細なことなのかもしれない。良い事も、悪い事も。自分の場合は、普段なら30分もすれば忘れてしまうような他愛ない言葉のやり取りだっただけで。
「それで、ここに来たんだ」
「ちょっと、ひとりになりたくて」
「おっと、それじゃあわたしはお邪魔だったかな」
「ああ…いえ、そんなことは」
「そう? ならいいんだけど」
女性は立ち上がり、ぐーっと背伸びする。
「話してたら喉乾いちゃった。ようし、傷心のきみに、ここはお姉さんが奢ってあげよう。なにか飲む? それとも食べる?」
「いえ、流石にそこまでは…は、食べる?」
「あれ、知らない? 井の頭公園って変な自販機あるんだよ。イナゴ缶とか、パン缶とか、乾パンの缶詰めとか。
やっぱりイナゴ缶がいい? それとも飲み物?」
「………ホットのカフェオレがあれば、それで」
「わかった、ちょっと待っててね」
ぱっと立ち上がって、女性は軽い足音を立てて駆けていく。かつかつと軽い音に、そこで初めて彼女が低いヒールサンダルを履いていることに気が付いた。
深いため息をひとつ。反り返るように見上げた空の月は変わらず煌々と輝いていて、周りの星々を伴って鮮やかに陽の落ちた夜を彩っていた。肌の表面をかすめていく涼風が心地いい。
かつかつと小走りの音に振り向く。……自分は薄手の長袖だから良いにしても、ノースリーブの彼女は寒くないのだろうか?
戻ってきて元の位置に座り直した彼女は、こちらへカフェオレを差し出す。もう片方の手には缶ココアが握られていた。
「買ってきたよ、はいホットカフェオレ。お姉さんの奢りだよー、存分に味わいたまえ」
「ありがとうございます」
「うーんかたい! 堅いなあきみ、もっと肩の力を抜いたらどうかな?
ほらほら、カフェオレ飲んで」
彼女は手の内からカフェオレ缶を取り上げると、カシュ、と音を立ててプルタブを立てる。すぐに戻ってきた缶は、やわらかなぬくもりで手のひらを温めた。
ひと口飲めば、缶のカフェオレ特有の甘さが口の中に広がる。
「……甘い」
「カフェオレ缶って甘いの多いよね。でもきみは疲れているようだし、ちょうどいいんじゃないかな」
「…そっちはホットココアですけど、やっぱり寒いんですか?」
「寒いからとかじゃなくて、わたしがホットココア好きなだけ。
缶ココアって独特な味がするよね。わたし結構好きなんだ」
「……寒くないんですか?」
問いに彼女はおかしげに笑い、ココアを一気に流し込んで立ち上がった。
その場でくるりと半回転。自分の手を後ろにまわし、こちらを見つめて口角を上げる。
「どっちだと思う?」
まぁるく輝く月と静かな水面を背に、彼女は
いつの間にか風が止んでいた。凪いだ水鏡に月が映る。どこかでわずかに鳴っている、梢のこすれる音か、葉のざわめく音か。それが、ひどく遠い。
「……寒くなければいいと、思います」
沈んでいた気持ちは、いつの間にか浮上していたから。だから彼女も、寒くなければいいと思う。
答えに、彼女は嬉しそうに
「わたしはもう帰らなきゃ。もしまた会えたら、その時はまたお話してね」
「あっ……」
言うが早いか、彼女は脱兎のごとく駆けだしていった。突然の出来事と瞬間的な強風に一瞬対応が遅れる。
慌て立ち上がって彼女の向かった方へ追いかけて行っても、もう彼女の背中はどこにも見当たらなかった。
あれから、井の頭公園の散歩が日課になった。彼女に会えるのは夜だろうと思っているが、彼女の言う通り、昼の公園も悪くない。老若男女が行き交い、休日ならば人通りも増える。彼女と会ったところと同じ場所とは思えないような賑やかさも、結構嫌いではなかった。
昼ならば緑の隙間から漏れる陽光、池には白鳥やボートが浮き波紋が揺れる。夜ならばひそやかに擦れる木々の音、ただ風だけで生まれるさざ波をうつす水面。東京都内にも、結構良い場所があるものだ。今度は明治神宮にも行ってみようか。
彼女と会ったベンチに腰を下ろす。いつかきっとまた彼女に会えるような気がして、缶のプルタブを開けた。
夜長の名月 篠原 鈴音 @rinbell_grassfield
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