空に、浮かぶ
雪桜
空に、浮かぶ
空、そして時間
『黄昏時』
汗が夕日に反射してキラキラと揺らめいていた。
まじろぎもせず見ていた。目の前のうなじを伝うその雫を。
「今日はご機嫌だね」
河川敷を歩く僕は錆びれた自転車を押し、前を手ぶらの彼が鼻歌交じりに歩く。夏の黄昏時、生ぬるい風が制服を揺らす。その時、生ぬるい風が、僕の鼓膜に彼の歌を運んできたのだ。僕はこの歌をまるで知らなかった。ただ、彼がこの曲を口ずさむときは大概、綺麗な花を見つけただとか、テストでいい点数を取っただとか、そんな「いいこと」が起きたときなのだ。
「ご機嫌だよ、だってお前と帰れるからさ」
彼は少し振り向いて言った。
「ああ。ほんと。良かったじゃん」
その表情は見えなかった。沈みかけの太陽は彼の美しい横顔に影を落とした。僕はその黒い塊に、微笑んで返した。遠くを都鳥が横切る。彼はまた前を向き、嬉しそうにハミングをした。
歩を進めるごとに、軋んだタイヤが音を立てる。僕は眉をひそめた。彼の音を消してくれるなと、鉄の塊を蹴飛ばしたくなった。
太陽が燃えている。
赤く染った彼の半身が、血のように熱い。
彼の言葉が、僕を溶かして、そして憎い。
工場の黒い煙が、赤い海に溶けていく。
僕はただ、沈黙していた。
『薄暮』
「お前、俺を牢屋に入れて、そんで鎖で繋ぐんだろ」
キスを落とした唇が、そう言った。
放課後にだけ訪れる三年の教室は蒸し暑く、その熱が僕達を蝕んでいく。生徒の殆ど居ないであろう校舎は不気味な静寂の中にあった。今この世界で僕達だけが、何よりも近い距離で、互いを狙う獣のように息をしていた。静寂。曖昧な静寂。落書きのされた汚い机に寄りかかったまま、彼は僕を食い入るように見つめる。彼の瞳が夕日で照らされると、ぼんやりとカメリア色に光った。
「綺麗な瞳。誰にも渡さないよ」
「俺の自由を奪っても?」
「うん。あなたは僕の隣でうたでも歌っていてよ。ずっと」
「嗚呼」
彼の大きな手が、彼自身の口を覆った。目の前の華奢な肩が震えて、クククと厭らしい笑いを零す。魔力を持ったその笑いは、僕達の世界の壁を壊してしまう。彼と僕の、二人だけの世界だった。清く、美しい世界だった。しかし彼の笑いはそれを許してくれなかった。これから埋めていこうと思っていた空間も、もう何も意味を成さない。美しい華は、僕達どちらかの死体にしか咲かない。
僕のこめかみを汗が伝うと、いつもより早い心臓の鼓動が頭に響いた。深い海の底のような耳鳴りが僕を襲い、思わず脚がすくんだ。その時僕の身体は完全に波に飲まれ、沈んでしまった。彼の大きな手が、それを知っているかのように僕の頬にあてがわれる。触れた部分が確かに熱を帯び、彼の瞬きで長いまつ毛に反射した光が目の前をチカチカと揺らす。
「お前はあの歌を知らないくせに」
そう言った彫刻のように美しい顔が「赤」に浮かんでいた。
最果てに、金糸雀の鳴き声が聞こえる。
僕は耳を塞いだ。
『暮夜』
君の心の風景は独創的な絵のようだ
魅惑の仮装行列が行進し
縦笛を吹き踊る人が描かれているが
仮面の下には悲しそうな表情がある
短調の調べに乗せて
愛や命を歌っているが
幸福そうな顔には見えない
歌声は月の光に溶け込むばかりだ
悲しく美しい月の光の静寂に
小鳥たちは木の枝に夢み
噴水は恍惚にむせび泣く
大理石の像の中の繊細な水のほとばしり
雅なる宴より「月の光」ポール・ヴェルレーヌ
「神秘和音だよ」
彼の綺麗な指が鍵盤を押すと、そこからは儚い音色が零れ落ちた。スクリャービンが作り出した和音。四度堆積和音の変化形だ。その響きはまるで僕達の心の朧月のようだった。不可解に揺らめき、そして沈んでゆく。「それ」は闇に煙るピアノの上で僕の瞳に映ったようだった。
満月の夜、忍び込んだ音楽室は、深い影を落としていた。闇に光るのは白い鍵盤。ここでは何もかもが許された。小鳥のように触れ合うキスをして、僕は彼の横に座り、その白い腕を撫でた。僕達を止めるものは誰一人としていない。僕達はこの闇の中で、何よりも自由だったのだ。
「こんな夜にはドビュッシーがいい。フランス音楽は幼い頃の記憶みたいにぼんやりとしてる。俺達の今日も、この音に乗せて川を下るんだ」
「あなたは素敵な人だ。あなたはその川のように僕達の記憶を包んでくれるでしょ?」
「お前がそれを望むならね」
月の光は淡い木漏れ日のようだ。
あなたに降り注ぐ、月の光に波打つ。あなたの音が、僕の神秘に問い掛ける。私達はお前の記憶であると。
「……夜桜を見たいな」
「その頃には俺はもう卒業してるよ」
二人で窓の外を見上げれば、深緑の葉が静寂に溶けていた。
僕はもう眠りたかった。
空に、浮かぶ 雪桜 @sakura_____yu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます