第3話 エンヴィ

―5月30日 日直 岡崎―



 原口先生はホームルームが終わるとそそくさと出て行ってしまった。

 一時間目は理科。佐藤先生。移動教室。

 原口先生が出ていくと、教室は静まり返った。だが、落ち着いたのではない。私も含め、みな動揺しているような気がする。教室は無言でざわついていた。

 雨の音に混じり、後ろで誰かが席を立つ音がした。前田だ。彼女はトイレにでも行くのだろうか、そそくさと廊下に出て行ってしまった。すると、隣の席の長谷部も立ち上がり、まるで前田の後を追うように廊下に出て行った。

 私は少し落ち着きを取り戻した。きっと、さっきの幻覚は先生が死んだことがあまりにもショックすぎて幻覚を見たんだ。そうだ。そうに違いない。今思い出そうとしても、はっきり思い出せない。そういうものは、決まって幻覚だ。そう思い込んだ。

 そうだ。一時間目の準備をしよう。移動教室だし、早くいかないと。私は机から教科書とノートを取出し、それらを抱えて席を立った。私が席を立った音が教室に響くと、みんなが一斉に動き始めた。机や鞄から教科書を引っぱりだしている。私はみんなより一足早く、廊下に出た。


 雨の日の廊下は割に静かだった。

 ちなみにうちらのクラスは学年で唯一、三階にある。隣も、反対側の隣も自習室。

三階には他にトイレと階段があるだけ。すべてがグレーの廊下。今日は雨のため、窓の外の景色もグレー。不気味な一体感。

 ふと、私は向こうにある階段の方をみた。一階から三階へと続く、校舎の東階段。私が今朝、登った階段。さっき原口先生が大急ぎで駆けた階段。その階段を、今、誰かが登ってくる気配がする。下の階から登ってくることなんて、このクラスにようがない限りありえない。原口先生が戻ってくるなんてない。理科の佐藤先生はずっと理科室にいる。それでも気配は、どんどん近づいている。

(えっ……?)

 階段を登ってくる。黒髪の頭がわずかに見えた。……気がした。気がしただけだ。なにもないじゃない。やっぱ幻覚。ほっと安堵した、その時だった。

 黒い髪の女に、私は肩をつかまれていた。

「どうしたの?」

 長谷部が私の肩をつかみ尋ねる。

「ううん、何でもない」

 必死に私は震えている手を隠す。

「先生のこと。ショックだよね……。大丈夫?」

 一緒にトイレに行ったのだろうか、長谷部の隣には前田がいた。

「さっきからずっと震えてるし、私たちに言えることなら何でも言ってね。悩みは人に話すことで半減するから」

 前田は心配そうな顔つきでそう言う。

「あ、う、うん」

 震えてるのばれてたか。私のイメージ崩れちゃったな。弱みを見せてしまった時、人は誰しも受け身になるものだ。今の私はまさにそれだった。

「本田さん、ちょっと待ってて、私たち教科書とノートとってくるから」

 そう言うと、長谷部と前田は急いで教室に戻る。私は

「う、うん。わかった」

としか言えなかった。みじめだ。

 内田と円藤が教室から出てきた。円藤の車いすを内田が押している。私は手の震えが見えないように、制服の袖を手に被せた。

 二人は私のことは無視して、おしゃべりをしながら通り過ぎて行った。おかげで今は助かった。

 やがて、円藤を内田が抱えながら階段を下りて行った。二人は本当に仲がいいように見える。常に一緒にいるし、車いすの円藤が困りそうなことは全部内田が何とかしている。逆に仲が良すぎて私は話しかけずらい。

 そもそも私は、内田はともかく、円藤は苦手だった。共学だったら絶対に嫌いなタイプだった。生まれつき足がなく、車いすで、顔もそこそこ整っている。でもはっきりわかる。普段はいい子ぶっていて本心を隠していることが。それも私が話しかけずらい理由の一つだ。

 次に岡崎と永友が通る。二人も私を完全に無視。喋ることもなく、それぞれべつべつに理科室へと向かっていった。二人ともクラスでは一人でいる時が多い。永友はともかく、岡崎は一人でいるタイプではないような。見た目はギャルだし、群れてないと死にそうって感じ。

 私が転校してきた初日。最初に仲良くできそうだなと思ったのは岡崎だった。けれども今となっては、クラスメイト程度にしか付き合いがない。

 永友はどうだろう。 正直、絵ばっかり描いていて、ああいうタイプは少し苦手。 男子がいたら、まあ仲良くしてあげてもいいかなって感じ。女子しかいない、それもこんなクラスでわざわざ仲良くする必要もないかなって感じ。つまりはそんな感じだ。 別にいい子ぶるつもりはないし。友達は選びたい。

 そんなことを考えてる間に、長谷部と前田が戻ってきた。

「ごめん、お待たせ。それじゃあ、行きましょ」

 前田が申し訳そうに言う。私はうなずき、理科室へ向かおうとした。だが長谷部が前田の制服の裾を引っ張った。

「ねえ、やっぱり、あのこと言ったほうが……」

 前田は立ち止まり、振り返る。

「でも、そんな一回聞いただけで理解できるわけもないし、もう授業始まっちゃうよ」

 前田が小声で言う。あのことって何? 私は完全に置いてきぼりだ。

「それでも早いうちに言わないとまずいよ」

 長谷部の言葉には不安が混じっているのか、震えている。

「まあ、それもそうね……」

 前田は少し小声でそういってから、私の方へ振り返った。

「どうしたの?」

 私はとりあえず訊いてみた。

「大したことじゃないんだけど、今日のお弁当の話。今日さ、中庭で食べない?」

 嘘だ。絶対そんな話じゃない。

「うん。いいよ。私、中庭とか憧れだからうれしい!」

 嘘をつかれてうざかったけど、いい子ぶってやった。そんな会話をして、私たちは理科室へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る