第82話 夢の花道

 (病が分かった時にあれほど休みを入れるよう言われたが、

此度の戦は張り切りすぎてしまったのだろうか・・・。)


 信玄は西上作戦の中で頑張りすぎたことを後悔することがあった。


 (しかし、過去は変えられぬ。だから今を生きれるだけ生きる、それしかない。)


 信玄は輿の中でうなだれながらも、まだ上洛への強い意志は健在だった。



 三河の長篠城を西へ向けて出発した武田軍だが、信玄の強い意志とは裏腹に

重臣たちはというと、この進軍によって信玄の寿命が縮まってしまうのが

残念でならなかった。


 (もう少し、御屋形様と一緒にいたい。)


 そう思う家臣が多く、内藤昌豊、山県昌景、馬場信春に高坂昌信といった

武田四天王と呼ばれる重臣たちも悩んでいた。


 (御屋形様の意思を尊重してあげたいが、もっと一緒にいたい気持ちもあるし、

何よりこの状況で上洛の一報を届けるのは難しい。)


 重臣たちも自分の思いはなんとか抑えられると思っていたが、

あと何日持つかわからない状況で上洛を成し遂げられるか、

そう思うと色々考えさせられた。


 「昌信殿、今回のことはどうしたらいいと思う。」


 馬場信春が高坂昌信にこう聞いた時から事態が動き出した。


 「実は、このような策を思い出しまして・・・。」


 「なんと、実際には引き上げておいて、御屋形様には進軍中であると

伝えておくじゃと!?」


 「はい。そのうえで、いよいよ危なくなった際には上洛を果たした、

と御屋形様に申し上げます。」


 「確かに、御屋形様は輿の中にいるから周りは見えぬ。

この際はそうした方が安心して旅立たれることができる・・・。」


 「どうですかな、信春殿。」


 「わかった。ほかの者にも話をしてみる。」


 こう言って信春は他の重臣たちにその旨を伝えた。


 「御屋形様の状態を考えれば最良だと思う。」


 といった意見が大多数であったため、信春らはこの作戦を通すことにした。



 「今、どのあたりに進んでおる・・・。」


 「はい。今三河の岡崎城を落としたところにございます。」


 3月の初め頃、進軍中の場所を聞かれた山県昌景は手はず通りそう答えたが、

実際は信州に入ろうかというところであった。


 「そうか・・・。」


 信玄はかすかに笑みを浮かべた。


 (御屋形様・・・、この私はこれまで嘘をついてこなかった。

まさか最後、御屋形様に嘘をつくとは・・・。)


 昌景も涙をこらえての伝達だった。


 そして、3月から4月にかけては尾張から美濃、そして近江に進んだと

信玄に伝え続けた。

 だが、実際は信濃の駒場という宿にもうすぐ着くところであった。


 「進み方が遅い気がするが・・・。」


 信玄のこの言葉に昌景は冷や汗をかいた。

そう、信玄は進むスピードが遅いのに気づき、危うく京都に行くよりも

距離が短い信濃に向かっていることがバレそうになったのだ。


 「御屋形様、私の説明不足で申し訳ありませぬ。実はこれまでの進軍の話は

先鋒隊の話でございます。」


 「では、わしは今、どこにいるのじゃ・・・。」


 「はは、美濃国でございます。」


 「美濃のどこじゃ。」


 「ぎ、岐阜でございます。」


 「そうか・・・、岐阜から信長を追いやったのか・・・。」


 昌景は精一杯、頭を回転させてごまかした。

陣屋に戻った昌景は汗びっしょりであった。


 「昌景殿、汗びっしょりではないか。」


 「聞いてくだされ、昌豊殿。」


 昌景は昌豊に信玄の頭が未だ元気であるとの話をした。


 「・・・ということはまだ上洛の夢をしっかり抱いているということだ。

我々もバレないように気をつけねばならぬな。」


 「我々って、御屋形様の相手は全てこの私ですぞ。」


 「いいではないか。御屋形様の側に居られるのは羨ましい限りだ。」


 「確かに・・・。」


 昌景は思った。

こんな機会はこの後多くないのだと。



 (もうすぐで上洛じゃ・・・。)


 信玄は限られた思考の中で上洛の光景を思い描いた。


 

 「御屋形様、もうすぐで近江の瀬田に着きまする。」


 瀬田とは、今の滋賀県大津市付近のことであり、あと少しで都という所である。


 「そうか・・・、ではその瀬田に武田の旗を立てよ。

その旗を大きく掲げて上洛するのじゃ。」


 「はは!」


 そして、その年の4月12日。

信玄の状態がいよいよ危うくなった。


 「上洛を告げるのは今しかないかと。」


 「そうじゃな。」


 

 「御屋形様。」


 「輿が止まったようだが、なんじゃ・・・。」


 「はは、今我々は京の都に到着し、武田の旗を掲げて上洛した次第です。」


 秋山信友がこう信玄に伝えた。


 「そうか、それは良かった・・・。」


 笑みを浮かべたままゆっくりと目を閉じる信玄に内藤昌豊がこう質問した。


 「次の当主は勝頼様でよろしいのでしょうか。」


 この質問の最中、信玄は過去の記憶の中をさまよっていたが、

その記憶の中で勝頼を信勝と名付けた場面を思い出した。


 「どういたしましょう、御屋形様。」


 これにしばらく沈黙した信玄はこう答えた。


 「信勝じゃ・・・。」


 「え・・・、今なんと・・・。」


 「次の当主は信勝じゃ・・・。」


 重臣たちは顔を見合わせた。

信玄の中で信勝とは勝頼を指すのだが、重臣たちは信玄の孫である

勝頼の子、信勝だと認識した。


 「信勝様でよろしいのですね。」


 「うむ・・・、そうじゃ・・・。」


 「では勝頼様はその後見役ということでよろしいので。」


 「・・・。」


 信玄はこのやり取りの間、頑張って目を開けていたが、遂に目を閉じた。


 「御屋形様!?」


 昌信がこう叫んだが、反応はなかった。


 「御屋形様・・・。」

 「御屋形様・・・!!」


 1573年4月12日、信玄は53年の人生に幕を閉じた。

その死去の際の顔はとてもいい顔であったという。


 信玄の遺言により信勝が形式上の当主となり、勝頼は後見人となったが、

実際に戦をするのは勝頼であり、後見人に過ぎない勝頼に従う者は少なかった。


 こうした要因もあり、9年後の天正10年(1582年)武田家は滅びるわけだが

それはまだ先の話である。


 また、武田家重臣たちは信玄の死を隠して、その間に体制を整えようとしたが、

三ツ者で上杉家と通じている甚助によって上杉家から日本中に信玄死すとの一報が

広まってしまった。


 なお、この一報を聞いた宿敵、上杉謙信(輝虎)は


 「信玄は宿敵ではあるが、戦場で切磋琢磨した相手でもある。

あの強い信玄が先に逝くとは思いもよらなかった。」


 と言って悲しんだという。


 何はともあれ遺言のミスにより滅亡の要因を作ってしまった信玄だが、

そのことは知る由もなく、信玄の夢路は果てしなく、果てしなく続くのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る