第55話 兵は詭道なり

 ここは秋風が吹き抜ける妻女山南の山地。

今ここに武田軍の別動隊1万2千が息をひそめて進軍していた。


 「気づかれるべからず・・・。」


 別動隊は飯富虎昌や馬場信春、高坂昌信に真田幸隆といった面々である。


 「よし、妻女山の上杉の旗が見えた・・・。あと一息だ・・・。」


 別動隊は険しい山道を進んでいたが、その先に上杉軍がいないことを

誰も疑わなかった。



 「もうすぐ妻女山に別動隊が着くころじゃな。」


 武田軍本隊8千を指揮する武田信玄は挟み撃ち作戦の遂行に向けて

海津城を出て八幡原に到着していた。


 (しかし、すごい霧じゃ・・・。)


 この一帯は昔から霧が出やすいとは聞いていたが、

それは想像以上で前が全く見えなかった。


 (早く霧が抜けてくれないと、逃げてくる上杉勢を

取り逃してしまうではないか。)


 とはいえ、別動隊から喊声の合図があるまでは皆、休憩モードであった。


 (おかしいな・・・、予定ではそろそろ合図があるはずなのじゃが・・・。)


 すでに予定の時間を過ぎていたが、信玄は進軍が遅れているものと認識し

特に疑いはしなかった。


 「御屋形様、霧が晴れてきましたぞ。」


 「うむ。」


 白く立ち込めていた霧が徐々に抜けていく。

そして遠くを見渡すと、その先に陰雷と書かれた旗が現れた。


 「あの旗はなんじゃ。」


 「・・・陰雷、と書かれています。」


 「ま、まさか・・・。」


 信玄の額に汗が流れる。


 少しすると、目の前には毘の旗と共に上杉勢5千が姿を現した。

武田軍陣内がざわめく。


 「ま、まずい・・・。」


 信玄がこう漏らした瞬間、上杉勢が馬蹄を轟かせて突入してきた。


 武田兵は慌てながらも槍を取りだしたが、すでに遅かった。

 上杉勢は寡兵ながら足軽が逃げ散ったため騎兵が中心。

そのスピードは前とは比べ物にならず恐ろしい。

上杉の騎兵が武田の足軽を踏みにじり、駆けていく。

 先陣の武田信繁隊は一瞬で飲み込まれ、必死に抗う信繁の姿もすでに見えず、

上杉勢は信玄のいる本陣めがけて突進してくる。


 「足軽には目もくれるな!狙うは信玄の首ただ一つなり!!」


 上杉の侍大将、柿崎景家の声が響き渡る。


 (これは不覚であった。・・・そうか、政虎はあえて軍勢を減らして

我らの啄木鳥戦法を誘導したのか・・・!)


 さらに信玄は思う。


 (軍勢こそ少ないが、騎兵が中心になったことで恐ろしさが増している。

そうか、本当は強い軍勢を弱く見せる・・・。これは孫子の兵法にある

“兵は詭道きどうなり”か・・・!)


 兵は詭道なり、とは孫子の兵法にある一文でだまし合いの意である。

そう、信玄は軍勢の少なさに騙されてしまったのである。


 「御屋形様!何やらこちらに突進してくる侍大将が・・・。」


 家臣にこう言われて前を見ると、そこには全速力で馬を走らせる

大将の姿が。


 (あの遠くからでもわかる恐ろしさ・・・、まさか、上杉政虎か・・・!!)


 「信玄はどこにいる、我は上杉政虎だ、いざ勝負せん!!」


 あまりの恐ろしさに足軽の一人が信玄のいる方を指さしてしまった。

すると、政虎は方角を少し変えて信玄のいる方に向かってきた。


 「いざ、勝負せん!信玄坊主!!」


 「う・・・!」


 信玄もあまりの恐ろしさに床几から立てなくなり、

手もこわばって刀が抜けなかった。


 「信玄よ、あの時の矢文は礼を言う。だが、それで助かるとは思うべからず!

今のうちに念仏でも唱えておくがよかろう!」


 こう叫びつつ政虎は信玄に迫る。


 (な、何を申すか、わしは死ぬわけにはいかぬ・・・。)


 こう思った信玄だが、ふと今川義元の死に際を思い出す。


 (わ、わしも同じように死んでしまうのか・・・?)


 「信玄坊主、覚悟!!」


 政虎が刀を振り上げた。

 信玄は目をつぶりかけたが、


 「信玄よ、まだ死んではならぬ。おぬしにはまだやることがある。」


 と急に天の声が聞こえ、気が付くと


 カキーン!


 と手に持っていた軍配で刀を防いでいた。


 「ぐぬぬ・・・、信玄よ、潔くなれ・・・。」


 こう言って政虎は刀に力を込める。


 「政虎よ、わしはまだ生きるようじゃ。残念であったな。」


 「おのれ・・・!」


 政虎は一度軍配から刀を抜き、もう一度振りかぶったが、


 「きえーい!」


 両側から工藤源佐と武藤喜兵衛が横やりに入った。


 「ぐぬぬ、信玄め、覚えておれ!次こそ命はないぞ!」


 「ふん、わしはすでに駿河を目指しておる。次があると思うべからず。」


 「信玄・・・、いつまでも避けよって!!」


 「わしは政虎を討ち取るのが目的ではないからな。」


 「・・・信玄坊主っ!!」


 こう叫びながら、政虎は武田兵に囲まれて自陣に戻っていった。



 一方、武田軍前方では武田義信が上杉勢に劣らぬ善戦を見せていた。


 「守勢に入るな!攻め続けよ!!」


 義信の部隊は上杉勢に劣らぬほど俊敏に力強く動き回り、

それを見て攻撃には慎重だった諸角虎定も勇気を出して上杉勢に突入した。


 この二人の反撃で上杉勢の一部が崩れだした。


 「そうだ!この調子で攻め続けよ!」


 義信はこう言って味方を鼓舞した。


 しかし、


 「ぐはー!!」


 「と、虎定!?」


 上杉勢の反撃に遭い諸角虎定が戦死。

一時、義信勢も押し戻されたが、


 (虎定の分だけ、戦わねばならぬ・・・!!)


 と決意を固めて反撃し、再び上杉勢を押し返した。


 とはいえ、全体的には不利な状況が続いていた。


 「別動隊はまだか!なぜ妻女山に部隊はいないのに時間がかかっておる!?」


 こう言って別動隊の到着を今か今かと待つ信玄だが、

別動隊が現れる気配はなかった。


 実のところ、妻女山には部隊が残っていたのだ。

その部隊は、村上義清ら信濃国衆。


 「領地を取り返すのじゃー!!」


 義清らは武田軍別動隊の大軍に善戦し、別動隊の進軍を防いでいた。


 「御屋形様が危ない、少しでも早く駆けつけなければ!」


 結局、苦労したものの義清勢を打ち破り急いで妻女山を下った。


 「御屋形様!あれを!」


 金丸平八郎が妻女山の方を指さすと、そこには武田の赤備えの姿が。


 (もうすぐじゃ・・・。)


 信玄はようやく生きた心地がした。


 別動隊の到着を受け、政虎は軍勢を引き上げ、善光寺に退却した。


 だが、武田軍の被害は甚大だった。


 「なに・・・、信繁が死んでしまったのか・・・。」

 「え、勘助もなのか・・・。」


 覚悟はしていたものの、この武田家を支えてきた二人の死は

あまりに痛かった。


 「父上、実は・・・。」


 「なんだ義信、そっちでも死んだのか・・・。」


 「はい・・・、諸角・・・。」


 「もう言うな、聞きたくもない・・・。」


 信玄は深い悲しみに暮れた。


 記録上引き分けに終わった川中島の決戦。

だが、武田軍の傷、そして信玄の心の傷は上田原をはるかにしのぐ

凄まじいものなのであった。

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