第51話 孫子四如の旗

 「皆の者、ちょっと立ち止まってこれを見てほしい。」


 ある日の評議の後、信玄は大きな旗を持ってきた。


 「これは・・・。」


 「うむ。これは孫子四如の旗という。これを我らの旗印にしたい。」


 その青地の旗には“疾風如徐如林侵掠如火不動如山”と書かれており、

訳すと“疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、

動かざること山の如し”となっている。


 「これは軍勢の動かし方でございますか。」


 「そうじゃ。我らはこの旗に書いてあるように状況に応じて

時には速く強く、時には静かに動かずじゃ。」


 感心する家臣たちであったが、勘助が何か言いたそうな顔をしていた。


 「どうした、勘助。」


 「それは孫子の兵法から切り抜いたものと心得ましたが最後の

“知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如く”が抜けております。」


 「勘助なら気づくと思っていたが、これほど早く気づかれるとはな。」


 「なぜ、外したのでござるか?」


 「それはな、難知如陰と動如雷霆は政虎にやるのじゃ。」


 「なんと・・・。」


 家臣たちがざわめいたのも無理はない。

二つの言葉を宿敵の政虎にあげると言ったのだから。


 「・・・政虎の動きはとても早くて、まるで雷霆のように突き刺さるし

素早すぎて把握し難い。これらの政虎の得意技はわしには到底及ばぬ。

だから、この二つは政虎にやるのじゃ。今度上杉方に矢文で伝えるとするか。」


 家臣たちはこれを聞いても疑問だらけであった。

これまでずっと争ってきて、これから決戦という宿敵に

言葉の贈り物をする信玄に納得いかない家臣も多かった。


 「・・・なぜそのようなことを・・・?」


 飯富虎昌が聞き返すと、


 「政虎は礼儀正しい男じゃ。だから、いつか必ず贈り物で返してくる。」


 こうして、一応頷いた虎昌だが両ライバルの関係に

ただただ驚嘆するばかりなのであった。


 

 その日の夜、眠りについた信玄はこんな夢を見た。


 「勉強など意味がありませぬ!それより武術の稽古の方が強くなれます!」


 そう、これはまだ幼き頃に勉強をほっぽりだした時の夢。


 そこに父、信虎が現れてこう言う。


 「確かに武術の稽古でも強くなれる。じゃが、槍をふるっても数人しか

守れぬ。それよりもこの家を守るための学問を学べば領民や家臣全員を守れる。

わかったか、太郎・・・。」


 (父上・・・。)


 「御屋形様、御屋形様!」


 信玄は側近の金丸平八郎に起こされて目が覚めた。


 「まだ夜中ではないか・・・。」


 「布団を見てください。」


 布団を見た信玄は驚いた。


 「これは・・・。」


 なんと首元がびっしょりになっていた。


 「こんなに汗をかいたのか・・・?」


 「いいえ、御屋形様は何かを呟いて泣いておられました。

・・・恐らくその涙でしょう。」


 「なんと・・・。」


 信玄は一瞬、夢の内容を思い出すと、


 (父上・・・、あの別れ方だから会うことはできないが一度は・・・。)


 こう思いかけて信玄は首を横に振った。


 (そうじゃ。わしはもう父上には会わぬと決めたのじゃ。

決めた以上、これを守って武田家を繁栄させる、これが親孝行じゃ・・・。)


 信玄は布団を変えて横になったが眠れず、そのまま朝を迎えた。



 「体調はいかがですか?」


 「ああ、そなたがいるおかげで良くなってきた。」


 「まぁ。」


 この年、信玄は家臣の娘、お富を側室に迎えていた。


 「わしはそなたがいてくれるだけでほっとする。」


 「それは嬉しゅうございます。」


 決して美貌な娘ではないが、とても生真面目で優しくて、

信玄は早くもお富にメロメロなのであった。

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