第21話 隠し湯

 甲斐国内には晴信が愛用するいくつもの隠し湯がある。

そのうちの一つ、下部温泉に晴信はいた。


 上田原の戦いで敗戦し自らも軽傷を負った晴信は、

同じく負傷した家臣数名を引き連れて身延の近く、下部温泉に

湯治にやってきた。


 柔らかく上がっていく湯けむりの中で晴信は


 (この敗戦も湯けむりに巻いて消えてくれないかな・・・。)


 と冗談交じりに思うのであった。


 今はこうやってゆっくりしているが、この敗戦の情報はすでに

小笠原氏などにも伝わっているわけで、いつそれらが攻めてくるかわからない。


 だからこの敗戦が消えてくれと思うわけだが、しっかりと反省しているのも

確かだ。


 (本当に油断は禁物だ・・・。だからその前の小田井原の戦いも

完全に勝ち切らなければよかった。)


 晴信は人間である以上、状況によっては油断が生まれると考えて

そのうえで油断する状況を作らないためには、逃げる敵を執拗に追わない

など、いわば“五分の勝ち”で良しとすることが必要であると

心得たのだ。


 その方法は敵を一気に片づけられず、一見すると遠回りなようだが

一つずつ地道に倒していくことでまだ敵がいると思えば油断せず、

結果として着実に成果を出せるというものだ。


 そうこう考えているうちに予定の時間を過ぎていた。


 湯から上がった晴信は決意を新たにしていた。


 

 「家臣団を再編する。」


 晴信がこう言ったのは心身の傷が癒えた春先のことである。


 家を支えてきた信方と虎泰が戦死してしまった以上、

家臣団の再編は必須だった。


 まず板垣、甘利両家の跡継ぎを板垣信憲と甘利信忠とそれぞれ決めた。

だが、2人とも戦死した両者の跡を継げるほどの器量がない

と判断した晴信は家臣団の中心となる家臣団筆頭を

飯富虎昌に任せることにした。


 「虎昌を筆頭に任ずるからこれからもよろしく頼む。」


 「ははー!!」


 晴信には過去にこそいろいろあったが、上田原で自らを守ってくれて

なにより、その時は聞き入れなかったもののしっかりと意見を言ってくれた

それらに関する感謝の念があった。

 そしてなにより、なにか間違いかけたときにすかさず忠告してくれる

家臣の大切さを痛感していた。


 だが、何といってもコマ不足だった。

そこで、家臣たちに尋ねた。


 「この人は才能があるな、と思う者は家中におるか。」


 晴信自身も実は何人か思い浮かんではいるが、自分の見えないところも

あると思い聞いてみた。


 すると、何人か初耳の者がでてきた。


 その中で晴信が特に興味を持ったのは、教来石景政という者である。

景政はこれまで足軽の頭としていくつもの戦場を渡り歩いてきた。

当然、戦も強くこれまで傷一つ負ったことがない。

 だが、傷一つ負ったことがないその理由に晴信は感嘆した。

景政はとても冷静で周りがよく見える男であり、戦場でも相手をよく見て

戦うため相手の槍をよけられる。

 さらにすごいのは足軽の頭として足軽たちの状況までしっかり見て

もし足軽の一人が危なくなればすぐに助けに行く。

そのため景政の足軽組から戦死者が出たことがないという。


 (もし聞こえ通りの者であれば、侍大将を任せられる。)


 こう思った晴信はこの躑躅ヶ崎館に景政を呼んでみることにした。

実際に見てみて良ければ侍大将の一角に、と思っていた。



 「教来石景政にございます。」


 「うむ。この館に入るのは初めてか。」


 「はい、仰せの通りです。まさか人生のうちに入れるとは・・・。」


 「今度からはずっとこの館にいてほしい。」


 「・・・・・・?」


 「実はあの敗戦の後、有望な家臣を探していたのだ。

そなたは噂通り非常に冷静に、そして周りが見えている。

私はこういう者が側に欲しかった。

だから、これからは武田家の侍大将の一人として活躍してほしい。」


 「しかし、このような者が・・・。」


 「では自分の弱点を上げてみよ。」


 この問題に景政は窮した。

理由はただ一つ、自分の冷静さや周りを見る力に自信を持っており、

弱点がなかなか思い浮かばなかったのだ。


 「槍の技術ですかな・・・。」


 そう頭を絞って答えた景政に対し、晴信はこう言った。


 「侍大将になるのにそれはあまり困らないだろう。

むしろ必要なのは統率力と観察力、そして頭の良さだ。」


 「いや、頭の良さは・・・。」


 「もしそこが弱点であるならば、さっき答えておろう。」


 「・・・!」


 「よし、景政は謙虚だがものすごい才がある。だから今度から

武田家の侍大将として働いてもらう、よいな。」


 「ははーっ!!」


 こうして景政は武田家重臣の一角となり、途絶えていた馬場家の名跡を

ついで馬場景政となり、さらに晴信の晴の字を与えようとしたが、


 「そのままは受け取る実績がない」


とかたくなに断ってきたため、漢字を変えて春の字を与え

馬場民部信春と名乗った。


 この信春が実績を積み、武田家を代表する重臣になるのを

晴信は心待ちにするのであった。

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