ラング・ド・シャ【目覚まし時計・猫・チョコレート】

 ぽて、ぽて。

 柔らかく、少し冷たい肉球の感触が、今日も頬に落ちてくる。

「……おはよ、グリ」

 目を開けずに顔の横をさぐると、グリのふわふわした毛に指先が触れた。

 甘えて頭をすりつけてくる彼女を片手でなで、もう片方の手でスマホをひきよせて、顔の前にかざす。

 6:30。

「さすがグリ。今日もぴったり」

 ――目覚まし時計ちゃん。

 心の中で付け足して、私はほほえむ。

 グリはいつからか毎朝、私を起こすようになった。しかも常に、起きたい時間ジャスト。まあ、眠りが浅くなるのを見計らってごはんの催促に来ているだけかもしれないが、それでもこのタイミングの良さはすごいと私は思う。

 グリが強めに頭をぶつけてくる。おなかすいたの印だ。私は「ちょっと待ってね」と彼女をもう一なでして、ベッドからすべりおりた。


 その日は朝からすべてがスムーズで、仕事も定時で終えられた。

 夕食後、私は普段ならリビングでくつろぐところを、自室に上がってスマホをタップした。オンラインミーティングの開始予定時間。ベッドに座ると、丸まっていたグリが起き上がり、私のひざに移動してくる。

『お、アカネさん来た。おつかれー』

 入室すると、画面越しにトモさんが手を振ってきた。彼は私が参加するアウトドアサークルのリーダーだ。今日のミーティングは、明日開催の登山企画の、参加者顔合わせ――のはずだったのだが、見ると入室者は私と彼のふたりだけだった。

「あれ。今回これだけ?」

『そうなんだよ~。あとふたりいたんだけど、どっちも急用だって。アカネさんどうする? 俺とデートになっちゃうけど行く?』

「え、どうしよ」

『……じゃ、中止に……』

「いやいや、行く行く!」

 しゅんとしおれた彼を見て、私はあわてて画面に乗り出す。トモさんがほっと表情をゆるめた。

『よかった。じゃあ明日、7時集合で。早いけど大丈夫かな』

 ふふ。私はつい微笑んだ。ひざの上のグリを、画面に入るように持ち上げる。

「大丈夫。うちには便利な目覚ましがいるから」

 グリが小さく「にゃ」と鳴いた。


**


 明るい光が降り注いでくる。

 私は手をかざして日を遮る。目の前に山がそびえている。雪をかぶって青くとがった高い山。

 あれ。今日ってそんな本格登山? 困ったな、私、ハイキング程度の準備しか――


 ぽて、と肉球の感触が落ちてきて、ふっと景色が消えた。

 自分がどこにいるかわからず、目をしばたたいた。ここは……ふとんの中か。ああ、なんだ、山は夢か。それにしても日が高くて明るくて、なんだか部屋が違って見え――

「て、ええっ!?」

 私はがばっと身を起こしてスマホをひっつかんだ。9:50!?

「うそっ、なんで。グリ!?」

 探すまでもなく、グリは枕の横にいた。いつになく細めた目が、私の目を見返した――と思うと、グリは一瞬ちろっと舌を出し、「ふん」と顔を背けて丸まってしまった。

 私は口を開けて固まった。こんな皮肉なグリの姿は初めてだ。

 ふと、「猫は人が思う以上に言葉を解する」という、猫好きの通説が頭をかすめた。思い当たるのは、「便利な目覚まし」という私の言葉。もしかしてグリは、それでへそを曲げたのか。

 謝り倒そうかと思ったが、トモさんに謝るのが先だと気づいた。スマホには一度だけ着信の記録があったので、急いでかけ直した。昨日のしおれた顔が画面にダブる。「デート」が嫌ですっぽかそうとしたわけじゃないのだが、そう捉えられていないだろうか。私は焦った。

 呼び出し音が切れた。

『はい』

「トモさん! ごめんなさい、私、寝坊して」

『あーいいよいいよ、そんなことだろうと思ってた』

 声はのんびりしている。それがかえって罪悪感をかきたてた。

「今すぐ支度……」

『いいよ、山はまたにしよう。あ、でも玄関先でいいからちょっと会えるかな。実は今、そっち行こうと思って買い物してた』

「え、うち知ってた?」

『前、アカネさんが酔っぱらったとき送ったよ?』

 バツが悪くて、私は頭を抱えた。

「ご、ごめん、そうだった……あの、それはともかく買い物?」

『うん、猫さんに差し入れの高級チョコを。あ、猫にとって高級チョコ相当のおやつって意味だけど。猫さん、怒っちゃったんでしょ?』

 ただでさえしどろもどろだった私は、今度こそ絶句した。

「なんでわかるの……」

『俺、猫歴長くて、猫さんの表情よむの得意なの。昨日アカネさんが目覚ましって言ったとき、猫さん、画面越しにすごい不機嫌な顔した。こりゃ起こしてもらえないかもと思ったけど、やっぱりだったから笑ったよ』


 まあだから、「チョコ」で機嫌直してもらいなよ――

 話が聞こえたのだろうか。いつの間にかグリが横に来ていて、「な~ん」と鳴いた。

 甘えた声、どこか勝ち誇ったような表情。それは「どうだまいったか」ということなのか、それとも「いい人じゃん。付き合っちゃえ」の意味なのか。

 私には、どちらとも判断つきかねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る