知らない世界がそこに【横・学校・ペンギン】
カチカチ、カタ。カチカチ。カチカチ。
朝のオフィスに、ただただ、マウスの音だけが響いている。
早朝出社ではない。ここにいるのは、終電も超え徹夜組になった、ふたりのグラフィックデザイナーだった。
「ワークライフバランス」なんて言葉がかなり浸透した今でも、零細制作オフィスのデザイナーに、定時などというものがあろうはずはない。すべては、チラシやパンフや商品パッケージの納期次第。残業は日常。徹夜も日常。なんなら数日の泊まりも日常だった。特に、今日の徹夜組の一方である熊さん――「熊谷」という名字と丸い体とろくに剃っていないヒゲ、もじゃもじゃ天パからそう呼ばれる――なんかは、会社にいすぎて、もはや「ヌシ」と化している。
カチカチ、カチカチ。
(とりあえず、いったん帰るか……)
徹夜組のもう一方、沖野の仕事には、なんとかめどがついた。沖野は一度小さく伸びをして、パソコンの電源を落としにかかる。
熊さんの席からは、まだマウスの音がする。
「熊さん、俺、そろそろ上がります」
「んー」
挨拶がてら、モニタ越しに向かいを覗くと、カチカチ、マウスの音と一緒に熊さんが答えた。目は画面から動かさず、また、カチカチ。
「熊さんのやってる案件、なんですか?」
「んー。今日納期の、16pもんの会社案内。あと居酒屋の改訂メニューと、A4のペラもんふたつあるけど。いいの? そんなこと聞くと手伝わせちゃうよ」
「うわ。すいません、帰ります帰ります」
「冗談だよ」
熊さんはのんびり言う。カチカチ。
気が変わらないうちに帰るぞと、沖野は出入り口に向かいかけたが、
「沖野、ごめん。今すぐ帰りたい?」
熊さんが呼びかけてきた。
沖野はぎくりとその場に固まり、ロボットのようにぎこちなく振り返る。
「え、えっと、その……や、やっぱ手伝います?」
「あー違う違う。そうじゃないけど、ちょっと疲れたんで気分転換したくてさ。急いでなかったら、5分だけ話し相手してもらえん?」
「……ああ、いいですよ」
それくらいなら、よくあることだ。沖野はタイムカードをピッとやってから戻ってきて、熊さんの隣のデスクに腰を落ちつけた。
熊さんはひとつカチ、とやってから、マウスを離す。その手で眉間をごしごしこすり、ふうーと息を吐いて背もたれに身体を預けた。
「やー、助かるわ。いや実はさぁ、ちょっと変な体験しちゃってさ。誰かに話したいなと思ってたんだよね」
「え、え? なんですか、変な体験って。怪談ぽいやつっすか?」
「まあ、変な体験としか言えないんだよ。実はさぁ」
熊さんは真剣な顔になって、少し乗り出す。メガネの奥の小さい目がきらりと光った。
「3日前なんだけどね。俺、退社するとき、おかしなもん見ちゃったのよ」
「え。おかしなもの? どこで? どういうものっすか?」
「見た場所は普通に外。この会社の、ビルを出た、すぐそこね。そこにね、いたんだよ、でっかいのが」
「でっかいのって……」
「ペンギン」
へ?
「……えっと、ペンギンて、ペンギンすか?」
「そうそう、ペンギン。それも群れ」
熊さんは真剣な表情を崩さず、声を潜める。
「その日も俺、会社を出るの一番最後だったんだよね。まあ終電にぜんぜん間に合うタイミングだったから、いつもよかちょっと早かったんだけど。鍵閉めて、エレベーターで下まで降りて。そしたらさぁ、ここの前の道ってほら、駅までずっと繁華街じゃん? その繁華街をね、ペンギンが、それも人間大のデカいやつが、あっちにもこっちにも、うようよ、わさわさ、ぺちぺちいるわけ。もうさ、これはいったい何なんだって。わけわかんなくて、怖えーのなんの」
彼が言ったように、この会社があるのは繁華街にある雑居ビルの5階だ。3階から下は全部飲み屋で、道に並ぶ店も飲食系が多い。そんな環境だから、午後10時、11時にオフィスを出ると、だいたい2軒目、3軒目を目指す人々のかたまりに出くわす。
そこに、でかいペンギンが、うようよ、わさわさ、ぺちぺち――。
「……熊さん、あのう、他の人はどうしてました? そのペンギンに驚いていましたか?」
「いや、それがさぁ、そのへんペンギンだらけなせいか、ぜんぜん誰も驚かねぇのよ。しょうがないから俺も、フツーにペンギンをかいくぐって、電車乗って帰ったよ」
「……へぇ……」
「あ、リアクションに困ってる? 困ってない?」
「いや、まあ、その……」
「でもな、聞けよ? その日起こった変なことは、これで終わりじゃないんだよ」
ノッてきたのか、熊さんはますます乗り出してくる。
「実はさあ、うちと道路挟んで南の向かい側に中学校があんだよね。で、俺んちはアパートの二階なんだけど、その窓からベランダの鉄パイプ越しに、ちょうど校舎が見えるわけ。それがね、その日帰ってからふと見たら……、なんと横倒しになってんのよ」
「横倒し? 校舎がですか!?」
「そうなんだよ、こうね、こう」
熊さんは平行にそろえた手を右に倒して、上手に「横倒し」を表現してみせる。
「本当に奇妙なことにさ、横に寝ちゃってんのね。周りが暗くても外壁は白いから、暗闇の中に白くぼぅっと、横向きの校舎が浮き出ていてさ……。もうあんまり不思議で、それに不気味でたまんないから、思わず立ち上がって見直したわけ。そしたら、何ともなってなかった。校舎は、縦に戻ってた」
「……」
「怖かったわー、ほんっと怖かったわ。俺、一瞬、知らない世界にでも踏み込んだんじゃないかと思ったね。いや、もしかしたら、あの日の俺は、実際に踏み込んでたのかもしれない。等身大のペンギンが住んでいて、この世界ならまっすぐ立っている建物が、なぜか横倒しになって存在している。そんな奇妙きわまりない世界にさ――」
「熊さん」
沖野は呼んだ。静かに。
「もう6時です。今日は帰りましょう」
「え? おいおい沖野、俺の話、信じてないでしょ? あと俺、やんなきゃいけないことあるから。まだ6時だし」
「熊さん、言っときますけど、この6時はPMじゃなくてAMです。それと熊さん、今の話、この前帰ったときの話ですよね?」
「そう、三日前ね。んで、その日また出社して、そのあとずっと会社にいんの。仕事多くて帰れないんだよね、わははは」
熊さんの髪は脂でべとついているし、着ているシャツはよれよれとして汗じみている。足元には半分脱いだ靴下がひっかかっており、机周りはコンビニの袋とペットボトルでいっぱいだ。
沖野はひとつ息をついた。
「熊さん。熊さんは疲れてるんですよ」
「おいおい! 本当に体験した話なんだぞぉ? ひでえな沖野、信じろよぉ」
「信じてますよ、間違いなく熊さんがほんとに体験したことなんですよね。だからやばいんですよ」
沖野は、赤黒い隈をへばりつかせている熊さんの目を、真正面から見た。その肩に手を置いて、まくしたてそうになる彼を静かに押しとどめる。
「あのですね。良く聞いてくださいね。まず、熊さんが言ってたペンギンは、たぶん、ただのスーツのおっさんです」
「……ほぇ?」
「彼らは確かに白黒に見えるけどペンギンじゃないです。このへんに飲みに来る、仕事帰りのリーマンです」
「……」
「それと、部屋から見える校舎が横倒しになったのは、熊さんが横になったからです。横になって見たから横に見えただけなんです。その証拠に、立ち上がったら縦に見えたでしょ」
「……あー……」
「わかりますか? 要するに、熊さん、疲れてやばい状態だったんです。俺も実は、そういうのありました。徹夜明け、そのまま仕事してたら、上司の説教がなぜか桃太郎の話にしか聞こえなくなったんすよ。つまり、人間は眠らないでいると、現実に夢がかぶさったり、判断力がおかしくなったりするんです」
熊さんは目を泳がせて、ばりばりと頭をかいた。どうやら、自分の体験を疑い出したらしい。沖野は噛んで含めるように言葉をつないだ。
「で、熊さん。熊さんはその日一度帰って、また出社してからもう三日、ここでずっと仕事してます。てことは、今の熊さんはたぶん前よりもっとやばい状態です。だから、もう仕事しちゃいけません。今すぐ帰りましょう」
「でもさぁ、また9時から始業じゃん? 帰るのも……」
「じゃあそのへんの漫喫でいいから、シャワー浴びて少し寝てください! とにかくいったん退社しなきゃだめです!」
沖野は熊さんのマシンの電源を強引に落とし、ぶっくり太った彼の身体をほとんど無理やり引きずるようにして外に出た。
外に出て光に当たると、頭がくらくらする。徹夜明けの朝は、いつも光が痛くて、吸血鬼になったみたいな気がする。ちらっと振り向くと、熊さんも朝日に向かって目をしょぼしょぼとさせていた。
「うーん。ペンギンはいないな……」
「朝ですからね。まだこのへんにスーツの人がくるには早いっすよ」
「そういう意味じゃなくて、ちゃんと人は人に見えてるってこと」
「そうですか? ならいいんですが」
ふたりは、まだ起き出さない繁華街を何となく駅に向かって歩いたが、途中で熊さんが「じゃあここで」と立ち止まった。
「漫喫ですか」
「ん。近いとこ行くわ」
「そうですか。じゃあ、お疲れっした」
「おう。おつかれー」
***
沖野のスマホに熊さんから電話が来たのは、家に帰って、ほんの一瞬だけ仮眠して、ふたたび出社しようとしたそのときだった。
『あ、沖野ぉ? ごめん、ちょっと助けてほしいんだけど』
「なんですか、いったいどうしたんですか?」
『実は、さっき別れた後、横向きにかっとぶ巨大ペンギンを見つけてさぁー。“おおおー、やっぱ俺が見たのはホンモノじゃん!”ってしつこくおっかけたんだけど、正気に戻ってよくみたらパトカーだったのよー。お巡りさん、俺の説明信じてくれなくて、もう2時間不審人物扱いされてるんで、お前から説明してくれるー?』
「…………」
――あとさあ、時間までに出社できそうにないんだよね。すまないけど、俺の持ってる仕事、やっぱ少しヘルプしてくれると……
熊さんの声がまだ聞こえているが、沖野は脱力しきって、スマホを耳から離してしまった。
熊さん、俺もつきあいますよ。もうあのブラック会社はやめて、
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